2008年02月12日

「徳」と捨て子


2007.06.13 このころは湿疹がひどかった。
薬は使わず、沐浴などで丁寧にガーゼで拭いていたら、一月半くらいで綺麗になおった。


晶ちゃんのファーストキスも無事に父親が強奪し

 

 

 


いや、あの

 

 

 

 


晶ちゃんの、新生児によくある湿疹も、生後一ヶ月頃になって、ようやく治まりだした。
実家でお世話になっているせいもあって、赤ちゃんを見ようと、いろんな人が尋ねてくる。
お風呂に入れるときなど、野次馬をいれれば6人ぐらい群がっていることもあった。

ひとが集まってくる赤ちゃんには、「徳」があるという。
うれしい限りだ。

この時期は「乳吐き」と、産婦の精神の不安定期。
あきちゃんは噴水のように母乳を吐き出すことがあったし、ゆきこさんはこっそり泣いてた。
そういう時期だった。泣きながら笑いながら、どうにかお世話する日々だった。

おおよそ三時間ごとの大泣き以外は、大半の時間を寝てすごす晶ちゃん。
抱かれて移動しているときでも、アフガンという赤ちゃん用の「おくるみ」(赤ちゃんをくるむ、薄手のかけ布団みたいなの)の中で、スヤスヤ眠っている。

そのアフガンで包まれている姿は、赤ちゃんのイメージそのものであるとともに、同時に私には「捨て子」のビジュアルイメージとも感じられた。
こういう「おくるみ」で、哺乳瓶と手紙なんかを添えられて、施設やお寺の玄関先に捨てられる新生児、というのが、捨て子のイメージだった。


2007年に話題になった赤ちゃんポストや、幼児虐待のニュースが絶えないが「捨て子」自体はどうなのだろう。話題にはならないが、かなりの暗数として存在していると思う。

父親の本能が思考にブロックをかけるので、自分がこの子を捨てる、という状況が想像できない。
だが、捨てる親は、どんな事情と心情で、その子を置き去りにするのだろう。

芥川龍之介の歌にこういうのがある。










「蚊柱の 礎(いしずえ)となる 捨て子かな」











音が聞こえてきそうな歌だ。

そして、親が赤ちゃんを捨てるというのは、そういうことなのだ。








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