■ 2006.12.01 - A part -「絵描きの本能」2006年04月04日 この時期に、ベテラン的なパート・社員のうち腰痛で二人が撃沈し、 さらにもうひとりが救急車で運ばれた。 そして、女性従業員のひとりが妊娠発覚して(おめでとう)退職が決まった。 さて。 そういう事情もあって、しばらく休みが薄い。 でも今日はシフトの関係で半日休み。(そのあと、遅番の後に早番というきっつい連打があるけど)もう「絵を描きたい」というストレスが溜まりすぎてて、すでにそれを通り越して「本を作りたい」という欲求が高まっている。なんというか、より高度な贅沢でないと満足できないというか。その分、実現性が低いのが泣ける。 そんななかでも描いた一枚。 (クリックで拡大) この段階まで描いて、線画だけの状態でいいや、描きたいものは描けてる・・・といつも思う。 この前に描いたシグナムのときも、やっぱりそうだった。「線画で十分」と思う。だが、時間かけて、下手すると線画の何倍も時間かけて仕上げしたとき、やっぱり色をつけてよかったなあと思う。必ずと言っていいくらいに、そのときは思う。でも色を塗り始めるかどうかで、すごく迷うのだ。 なにせ時間がない。ない、というか仕事の方の精神状態が帰宅してからも抜けず、絵を描くモードにならないのだ。寝ていても、食事をしていても仕事のことばかり考えている。会社での食事など、5分前に自分が食事をした記憶がなかったりするのだ。ふと気がつくと、サンドイッチのパッケージだけが残っていて八分目くらいの満腹感がある。状況を観測して何が起こったか推察しなければ自分が食事をしたことすら実感がない。その間に何を考えているかといえば、そのリソースのほとんどが仕事のことなのだ。これが帰宅しても抜けきらない。うまく切り替えられたときに集中的に絵とか文章を描くしかない。 なので「この絵はここでおしまい」と線画段階で完成にして、次の絵に取りかかりたいと考えてしまう。描きたい絵はたくさんあるのだ。いま描きかけ、もしくは描きたいと思っているのは「廃線になった線路を少年少女が歩いていく絵」、「アルファさんとココネさん」、「買い物するメイドさん」、「宇宙空間と天使」「水銀燈のめぐの20ページフルカラー漫画」などなど。 (結果として、後者二点以外はどうにか描けた) 「絵を描いていられる時間」は、あまりないと思う。 どれくらいの絵を、どれくらいのクオリティで残せるだろうか。
■ 2006.12.01 - A part -「絵描きの本能」2006年04月04日 この時期に、ベテラン的なパート・社員のうち腰痛で二人が撃沈し、 さらにもうひとりが救急車で運ばれた。 そして、女性従業員のひとりが妊娠発覚して(おめでとう)退職が決まった。 さて。 そういう事情もあって、しばらく休みが薄い。 でも今日はシフトの関係で半日休み。(そのあと、遅番の後に早番というきっつい連打があるけど)もう「絵を描きたい」というストレスが溜まりすぎてて、すでにそれを通り越して「本を作りたい」という欲求が高まっている。なんというか、より高度な贅沢でないと満足できないというか。その分、実現性が低いのが泣ける。 そんななかでも描いた一枚。
(クリックで拡大)
この段階まで描いて、線画だけの状態でいいや、描きたいものは描けてる・・・といつも思う。 この前に描いたシグナムのときも、やっぱりそうだった。「線画で十分」と思う。だが、時間かけて、下手すると線画の何倍も時間かけて仕上げしたとき、やっぱり色をつけてよかったなあと思う。必ずと言っていいくらいに、そのときは思う。でも色を塗り始めるかどうかで、すごく迷うのだ。 なにせ時間がない。ない、というか仕事の方の精神状態が帰宅してからも抜けず、絵を描くモードにならないのだ。寝ていても、食事をしていても仕事のことばかり考えている。会社での食事など、5分前に自分が食事をした記憶がなかったりするのだ。ふと気がつくと、サンドイッチのパッケージだけが残っていて八分目くらいの満腹感がある。状況を観測して何が起こったか推察しなければ自分が食事をしたことすら実感がない。その間に何を考えているかといえば、そのリソースのほとんどが仕事のことなのだ。これが帰宅しても抜けきらない。うまく切り替えられたときに集中的に絵とか文章を描くしかない。 なので「この絵はここでおしまい」と線画段階で完成にして、次の絵に取りかかりたいと考えてしまう。描きたい絵はたくさんあるのだ。いま描きかけ、もしくは描きたいと思っているのは「廃線になった線路を少年少女が歩いていく絵」、「アルファさんとココネさん」、「買い物するメイドさん」、「宇宙空間と天使」「水銀燈のめぐの20ページフルカラー漫画」などなど。 (結果として、後者二点以外はどうにか描けた) 「絵を描いていられる時間」は、あまりないと思う。 どれくらいの絵を、どれくらいのクオリティで残せるだろうか。
■ 2006.12.01 - B part -「さくら」2006年04月12日 頂点というか、ピークというか、最高潮が見えてきた。 疲労の。 これの何が辛いって、二週間前から体力のペース配分したり、食事に気を付けたり、このロングマーチのラストにある胃に穴が開きそうな店長会議に備えたりして、ついにギリギリながらそれをのりきった・・・と確信したときに翌日の休日出勤がきまっちゃった時点から発生する、精神力と体力の分離である。自分で決断したことだからやる気はあるんだけど、体がうごかない。いま飯食いながらちょっと寝ていた。 とにかく、身体中の組織がリタイア宣言してくつろいでるかのように重かった。精神は何かを成そうとしても、身体がその足をひっぱる感じだ。ありていにいって疲労である。いまどき疲れてない人の方が、きっと珍しい。 長い連続勤務が終わった直後の、急な休日出勤である。火を落としてしまった蒸気機関車が、おいそれと再始動できないように、身体に休暇を言い渡してしまった後の日常業務は、異様に重く苦しかった。たぶん、判断力とかもかなり鈍っていると思う。なにかを考えるのもおっくうだった。 どうにか仕事を終えて、本当であればもっと早い時間に会うはずだったゆっこさんに連絡をとる。とりあえずよく行く喫茶店で待つことにした。 椅子に座って、持ってきた文庫本を読む。正確には読もうとする。しかし、文字が読めない。頭に入ってこないのだ。紙面がとても遠くに感じる。とりあえず携帯で文章を打ってみる。これはできた。その上で文庫本を読んでみると、ちゃんと読めた。 しかし、途中で眠ってしまう。喫茶店で異様な寝汗をかいて目を醒ます。ゆっこさんからの電話が着信していた。仕事が長引いているらしい。いつ終わるかは、いまのところ分からないそうだ。 ここで、疲労のピークというものが垣間見えた。 ここで体調不良を理由に帰ってしまうのも楽でいいなと思った。 今日という貴重な休日にゆっこさんに会えるというイベントを棒に振ることになるが、それでもいいと思った。いますぐ横になりたかった。 なぜかはわからない。 でも、自分は待つべきだと思ったのだろう。そのままずっと電話を待ち続けた。持ってきた文庫を読んで待とうと思った。読み切ってしまったら車に積んである続巻を読めばいい。いつまででも待てると思った。 ゆっこさんから仕事の終了を告げる電話があった。 強引に、夜桜見物に誘った。 滝庭園の桜は、かなり散ってはいたがまだ見応えがあった。 無くては困るが、光りが強すぎて無粋に思える照明が、桜を下から照らし出している。 「このへんのは、もう散っちゃってるなあ」 「んん・・・。ほら、よくみるとつぼみだよ」 ゆっこさんが、手を伸ばせば届くくらいの枝をつまんで見せてくれた。 たしかに、よく見ると、散ってしまって黒く見えるのではなく、いまだにつぼみの桜もあるようだ。 ゆっこさんの手元から、桜の花を見あげていく。 今年の桜は、通勤路からよく見えた。 岐阜では、滝庭園以上に名所である境川沿いの桜並木を毎日横目にみて通勤しているのだ。 でも、いまここで、この春ようやく、はじめて桜を見たような気がした。 正確には、桜をみて感動することを精神が許してくれた感じだった。 花の、作為のない美しさが、するするとこころに入ってくる。いままではただの視覚情報で、なにも感動がなかった。感動することができなかった。 突然に理解した。 それは、仕事が忙しかったからではない。 となりに、ゆっこさんがいなかったからだ。 去年はなぜか花見をした記憶がないのだが、今年の桜はすごく見事に咲いていて、時間があったらぶらりと花見したいなあ、と妙にそそられるものがあった。 でも、だめなのだ。もう、自分は素敵なものをみたら彼女と共有したいし、美味いものを食べたらいっしょに食べたかったと思うし、素敵だとわかっているものを最初に味わうのは、ゆっこさんといっしょでないと意味がないと思っているのだ。 ずっと毎日、桜をながめて過ごしてきた。 でもいま、やっと桜をみられたような気がした。 そうだ。 これが桜だ。 遅い時間だったので、ほんの十数分しか桜をみていなかった。 だが、濁っていた精神が澄んでいくのを感じる。明るく清浄な水面のように。 それまで無視できなかった蓄積疲労が、いつのまにか軽くなっていた。 帰り際、ゆっこさんが布のバッグを差し出した。 「はい、お弁当。お夜食になっちゃったけど」 手作りだった。 部屋に帰ってすぐに全部食べた。 二週間分のありとあらゆる疲労、およびそれに類する観測不能なほど微弱な愁訴までが、きれいに消滅していた。
■ 2006.12.02 - A part - 「修学旅行出発前」2006年04月24日 日付は伏せておくが、うちの甥っ子が修学旅行に行く日程のなかで、秋葉原に思い切り寄れるのが、この日だという報告があった。メールのコメントに曰く。 「平日なので、メイド喫茶に行けますっっ!」 君のあの孫煩悩なおじいちゃんにも旅行の報告ができるようにいちおうまともなところも見ておけ! いいな!たのむから! 東京タワーとかでいいから!
■ 2006.12.02 - B part -「夢」2006年04月24日 憶えている夢が 最近ぜんぶ悪夢だ。 疲れきって帰宅して、ぐったりと布団に入るのに、眠いのに、体が緊張していて眠れない。そして悪夢を見る。
■ 2006.12.02 - C part - 「接客業最大のメリット(日記バージョン)」2006年05月13日 接客業は、愛の訓練をするところだ。 もっと言えば、愛しにくいお客さんを愛するという訓練である。20代、30代でこれをやっておくことで、愛のある人物になることができる。 世の中には、嫌なひとがいっぱいいるし、不条理なことを申しつけてくる人がいっぱいいる。 それをただ耐えるのではなく、愛するのだ。 その人のためになにかしてやり、その人のためになるように尽くすということである。 気分のいいことではない。相手によっては、死ぬほど嫌なときもある。 だが、自分の許せる人しか愛さないという生き方の、そのどこに成長があるだろう。 自分の喜びのためだけに生きていると、人間はやがて世の中を冷笑するだけの負け犬になってしまう。 「誰かのために」という生き方を貫くひとだけが、立派な人間になっていくのだ。 接客業は、その訓練が出来るところだ。 鉄工所勤務時代と比べて、「愛の訓練」には、こちらの方がやはり近い。 この訓練は嫌かも知れないが、その結果が決定的に現出するのが、好きな人ができたときだ。 愛する人が目の前に現れ、さあこの人を全力で愛そうと思ったとき、実際にその人をどれくらいの愛で愛せるか。 ここで「嫌な人をそれでも愛してきた」という訓練が生きてくる。 訓練でしてきたことは、こうだ。 嫌な人なんだけど、その人のために尽くす。 嫌な人であるからこそ、むしろ尽くす。 その人の都合や、事情を考えて、その人のためになるように尽力する。 ただ金銭を授受するだけでなく、どこまでその人のために尽くせるかを、自分に課す。 これを何千人何万人というお客様に対して行う。 こうして、いろんな人を愛せる器の広さを、その人は獲得していく。 そして、その広大な器に保持できる愛情を、ただの一点に向けて残らずそそぎ込む。 それが人を愛するということだ。この器の大きさ、あるいは小ささは、そのままその人を愛する限界値になる。 いつも誰かのために尽くす姿勢で生きている人間は、だから好きな人をいつまでも深く愛し続けられるのだ。 いつも自分の好きなようにやっていて、世の中のことを冷めたく笑い飛ばして、それで急にじぶんの奥さんになる人を、無償の愛で愛せるだろうか。 三ヶ月くらいはいいだろう。愛の刺激だけでそれくらいは保つ。でもその盲目的な愛が冷めるときがくる。 そこで、初めて見えてくるその人の嫌なところ。愛せない個性。許せない価値観。それはかならず目の前に現れる。どんなに相性のいい人でも、運命の出会いでも、前世からの因縁でも、あらゆる障害を乗り越えてのゴールインだったとしても、それでも嫌なところは現れる。人間である以上、かならず。 それでもそのひとを愛する。 これが実際にできるかどうかは、嫌なひとを、それでも愛してきたかどうかだ。接客業で、5分や10分しか相手しない人も愛せないようでは、永遠に誰かを愛することなど絶対に無理である。 お互いの嫌なところがみえてしまい、カップルが破局を迎えるというのは、決して「愛の終わり」ではない。 ここからが、本当の愛の人生のスタートなのだ。 接客業はいい。 愛する訓練ができる。 「愛しにくい人を愛する」という訓練が日常的に、しかもスゴいバリエーションでできる。 あらためて言おう。 接客業の明確なメリットは、お金が稼げることと、愛する能力の訓練ができることだ。
■ 2006.12.03 - A part - 「『魔法少女リリカルなのは3』戦技教導官編」2006年05月08日 ※注意 「魔法少女リリカルなのは StrikerS」が発表されてる昨今ではいまさらですが、その存在すら未発表だった時期に滾(たぎ)らせていた妄想です。なお、MEGAMI-MAGAZINEで連載中のコミック版は、(単行本派であるため)現在に至るまでも読んでおりません。 あるIRCチャットにて。 「いま唐突に(A'sのラストで未来が示唆されていた)教導隊の教官になった『なのは』の勝手な想像絵が脳に湧きました」 「描け(命令風」 「是非とも」 「いまやっつけてるメイドさん絵が終わって憶えてたらー」 「ラフだけでも今の間に」 「うーん、髪型はワンサイドポニーだったっけ」 「です<6年後のなのは」 「とっ、ところでっ」 「にゃっ」 「なのはは成長すると、けっこうムッチリになりそうなヤな予感がぬぐいきれないんですが!」 「フェイトはボーイッシュというかスレンダーな感じに成長すると思う、いや、思いたいんですがっ!」 「最後はそんなだったような感じも」「手元にビジュアルファンブックならある」 「はい、歳の図」 「悪夢ですね」 「15じゃなくて、13くらいで止まってほしかった!」 「だが(原作者の)都築センセイにまかせるとほぼ間違いない感じ」 「このボディだと、ユーノくん、逆に襲われそうだなあ」 「15才ならはやてが一番ひんぬー」 「八神さん家といえば、まったく変化しない騎士連中のこと、近所になんて説明してるんかなあ」 「怖くて、だれも何も言ってこないのでは・・・」 「教導官なのは描けた」 「おつ」 「全作業行程の半分以上の時間がレイジングハートに」 「ぉ」 ※クリックで拡大 「時空管理局武装隊戦技教導官ということで」 「レイジングハートのデザインコンセプトは宇宙戦闘機です」 「A'sの時点でもどんどん大きくなっていったレイジングハートが、ついにこんなサイズに・・・」 「ちなみに、旧来のレイジングハート本体は後ろの方で、補助魔法とおべんちゃらを含むあらゆるフォロー担当」 「前の方は戦闘用に新設したデバイス。声は岩田光央」 「『小っちゃいってことは便利だね』ですか?>岩田光央」 「『灼眼のシャナ』にでてたマルコシアスのイメージ。もしくは、本人そのもののイメージで」 「ドラムマガジンのように見えるが大魔法発動時には時計状の紋様が浮かんでみたりするとか」 「ばかばかしさで言うとベルトリンクというロマンあふれる給弾方法が」 「あと、あれだ。カートリッジの残弾数がデジタル表示されるシステムとかあるとエイリアン2みたいで面白い。・・・レイジングハート、泣くだろうけど」 「むしろスマートガンみたいにバックパックと一体化したデバイス<エイリアン」 「戦艦なみの魔導砲が撃てそうですな。<バックパック一体型」 「無粋を承知で言うならば、キャンペーンハット被ったところを見てみたい。いや、なんかこう教官=キャンペーンハットという嫌刷り込みが」 と ※ キャンペーンハットと教官(ハートマン軍曹) 「都築絵では絶対に被れない帽子ですな。頭髪の構造的に」 「たしかに>都築絵では被れない」 「なにか急に『フルメタルジャケット』が観たくなってきたな」 「『教官なのは』のキャラ作りには、超重要ですね」 「教官って言ったらハートマン軍曹だからなあ」 「ハートマン軍曹の瞬発言語芸についてはこちら を参照」 「映画みながら、ハートマン軍曹のCVを脳内で田村ゆかりにコンバート」 「語尾もぜんぶ『なの』に変換」 「『ファミコンウォーズがでーるぞーなの♪』」 「『ミッドチルダ人も、ベルカ族も、地球人も、皆同様に価値がないの』」 「『口でクソたれる後に『なの』とつけて。わかった? ウジ虫くん』」 「『サー、イエスなの!』」 「『パパとママの愛情が足りなかったのかな?』」 「・・・これ、なのはが言うといろいろ意味深いなあ。高町家の設定とか」 「『リンカーコアえぐりだしてグズの家系を絶ってあげる』」 「こえー、なのはさん、こええー」
■ 2006.12.03 - A part - 「『魔法少女リリカルなのは3』戦技教導官編」2006年05月08日 ※注意 「魔法少女リリカルなのは StrikerS」が発表されてる昨今ではいまさらですが、その存在すら未発表だった時期に滾(たぎ)らせていた妄想です。なお、MEGAMI-MAGAZINEで連載中のコミック版は、(単行本派であるため)現在に至るまでも読んでおりません。 あるIRCチャットにて。 「いま唐突に(A'sのラストで未来が示唆されていた)教導隊の教官になった『なのは』の勝手な想像絵が脳に湧きました」 「描け(命令風」 「是非とも」 「いまやっつけてるメイドさん絵が終わって憶えてたらー」 「ラフだけでも今の間に」 「うーん、髪型はワンサイドポニーだったっけ」 「です<6年後のなのは」 「とっ、ところでっ」 「にゃっ」 「なのはは成長すると、けっこうムッチリになりそうなヤな予感がぬぐいきれないんですが!」 「フェイトはボーイッシュというかスレンダーな感じに成長すると思う、いや、思いたいんですがっ!」 「最後はそんなだったような感じも」「手元にビジュアルファンブックならある」 「はい、歳の図」 「悪夢ですね」 「15じゃなくて、13くらいで止まってほしかった!」 「だが(原作者の)都築センセイにまかせるとほぼ間違いない感じ」 「このボディだと、ユーノくん、逆に襲われそうだなあ」 「15才ならはやてが一番ひんぬー」 「八神さん家といえば、まったく変化しない騎士連中のこと、近所になんて説明してるんかなあ」 「怖くて、だれも何も言ってこないのでは・・・」 「教導官なのは描けた」 「おつ」 「全作業行程の半分以上の時間がレイジングハートに」 「ぉ」
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「時空管理局武装隊戦技教導官ということで」 「レイジングハートのデザインコンセプトは宇宙戦闘機です」 「A'sの時点でもどんどん大きくなっていったレイジングハートが、ついにこんなサイズに・・・」 「ちなみに、旧来のレイジングハート本体は後ろの方で、補助魔法とおべんちゃらを含むあらゆるフォロー担当」 「前の方は戦闘用に新設したデバイス。声は岩田光央」 「『小っちゃいってことは便利だね』ですか?>岩田光央」 「『灼眼のシャナ』にでてたマルコシアスのイメージ。もしくは、本人そのもののイメージで」 「ドラムマガジンのように見えるが大魔法発動時には時計状の紋様が浮かんでみたりするとか」 「ばかばかしさで言うとベルトリンクというロマンあふれる給弾方法が」 「あと、あれだ。カートリッジの残弾数がデジタル表示されるシステムとかあるとエイリアン2みたいで面白い。・・・レイジングハート、泣くだろうけど」 「むしろスマートガンみたいにバックパックと一体化したデバイス<エイリアン」 「戦艦なみの魔導砲が撃てそうですな。<バックパック一体型」 「無粋を承知で言うならば、キャンペーンハット被ったところを見てみたい。いや、なんかこう教官=キャンペーンハットという嫌刷り込みが」
と ※ キャンペーンハットと教官(ハートマン軍曹)
「都築絵では絶対に被れない帽子ですな。頭髪の構造的に」 「たしかに>都築絵では被れない」 「なにか急に『フルメタルジャケット』が観たくなってきたな」 「『教官なのは』のキャラ作りには、超重要ですね」 「教官って言ったらハートマン軍曹だからなあ」 「ハートマン軍曹の瞬発言語芸についてはこちら を参照」 「映画みながら、ハートマン軍曹のCVを脳内で田村ゆかりにコンバート」 「語尾もぜんぶ『なの』に変換」 「『ファミコンウォーズがでーるぞーなの♪』」 「『ミッドチルダ人も、ベルカ族も、地球人も、皆同様に価値がないの』」 「『口でクソたれる後に『なの』とつけて。わかった? ウジ虫くん』」 「『サー、イエスなの!』」 「『パパとママの愛情が足りなかったのかな?』」 「・・・これ、なのはが言うといろいろ意味深いなあ。高町家の設定とか」 「『リンカーコアえぐりだしてグズの家系を絶ってあげる』」 「こえー、なのはさん、こええー」
■ 2006.12.03 - B part - 「接客業最大のメリット(手紙バージョン)」2006年05月08日 ※ 先日の同タイトルの別切り口として、従業員にあてた手紙より抜粋。内容はほぼ同じです。 接客業を営んでいると、どうしてもお客様の言うことに対して不愉快に思ってしまうことがあると思います。 しかし、それは自分が成長するための試練だと思って欲しいのです。 許せない行動をするお客様、愛せない価値観をお持ちのお客様というのはいます。私の場合、最近あったのは、レジで本やお金を放り投げるお客様でした。 でも、それでも許し、愛する。このお客様のために、と最適なサービスをする。 これをしているとき、たぶん人間のなかには 嫌な人 → でも尽くす という思考回路が訓練されていくのではないかと思います。 この訓練を通過すると、きっと人間が大きくなるのだと、私は思うのです。 この積み重ねが、一番出るのがきっと結婚したとき。 そして、子供ができたときでしょう。 すごい大恋愛をして結婚した大好きな人でも、一年、二年と経つうちに嫌な面が見えるときがあります。 嫌なところが許せなくて、すぐに別れることになることもあるでしょう。 子供もそうです。たぶん、伴侶以上に許せない行動をとることがあるでしょう。以前にまとわりつく子供を空手蹴りで蹴ってる親がいてビックリしたことがあります。 そして、いい歳をしてすぐキレる大人が、たくさんいます。 嫌な人がいるとき、そんなときに、それでも尽くすという思考回路あるいは行動回路があるかどうか。 そういう訓練をしてこなかったひとが、結婚したからといって相手を急に真実の愛で愛せるかといえば、それは無理な話でしょう。 レジ接客での5分も尽くせない人に、何十年もそれができるわけがないのです。 いままで、自分の認める人、自分の許せる人としか笑顔で接してこなかった人が、相手が恋人だから、相手が子供だから、自分が歳を取ったからといって急に人格者になれるわけがないのです。 接客業は、このためにすごく有効な訓練です。毎日、何百人という多種多様なお客様と接することで、そしてその方々に尽くすことで、かならず人間的な器はひろがると思います。 ホントは嫌なんだけど切り替える、ということを、自分を偽っているようで嫌だ、と思う人もいるかもしれません。別の店舗でそんな相談を受けたことがあります。 でも私は、以前に売場で見たことがあります。 おそらく、足か腰が痛かったのでしょう、腰をさすって顔をしかめていたお母さんがいました。しかし、子供が「おかあさーん」と抱きついてきたときに、振り返ってパッと笑顔になったのです。子供に辛そうな顔を見せない。すごく立派なことだと思いました。個人としては痛い。しかし母親としては子供には笑顔で接する。苦痛があっても母親という「位置」を放棄しない立派さだったとおもいます。 接客業でレジに立つひとは、店の顔という位置をもちます。それを守り、そのために個人から書店員に切り替える訓練が、きっとああいう母親や大人になる道なのだと思います。
■ 2006.12.03 - C part - 「あと1ヶ月」2006年05月20日 2006年6月20日の出勤を最後に、書店を辞める。 前にも辞めたことがあって、二度目である。出戻り自体が前代未聞だったので、今度の退職もかなり不思議な事態ではある。 前はいろいろ言い訳を日記で書いた。一面においてそれは真実なのだが、やはり語ることで自分を整理しようとしていたのだろう。 今度のは、まちがいなく私の敗北だと思う。 変わっていく会社に対して、自分を変えられなかったこと。これだ。 店長として引っ張っていくどころか、ついていくのもやっとだった。 カッコイイ言い訳はいろいろ思いつきそうだが、あまり語らず、ちゃんと敗北しようと思う。この敗北で得るものは、充分にあった。
■ 2006.12.04 - A part - 「にんじん」2006年05月31日 漫画でしかあり得ないと思うが、馬の鼻先にニンジンをブラさげて加速装置にする走法を思い描いて欲しい。基本的に、短距離でしか使えないという欠点があるが、それなりに有効だ。走り終わった後にちゃんと食べさせてもらえるとなれば、なおのことである。きっと馬は、これだけでも頑張れる。 ところで、退職を決めたこの期に及んで仕事が加速度的に忙しくなっている。引継前に店内の整備を完全にするため、ゆるめていた完了基準を高めたためだ。社長からも、そうした上で辞めるよう命じられている。 昨日帰宅できたのは、8時頃だった。 正確には、本日の朝8時。出勤ラッシュを逆走して帰宅した。 この膨大な仕事を、それでもやりぬいて終わりたい。 だが、過去の社員のなかでは、結構な割合で、突然出勤しなくなって退職、あるいは退職が決まっていてもやはり突然出勤しなくなってフェードアウトというケースがある。わたしも、彼らの轍(わだち)を踏んでしまいたくてしょうがないときがある。 あと三週間。なんとか乗り越えなくては。 話は冒頭のにんじんにもどる。私の場合、これはいまの会社を退職してから、どんな風に休むか、という計画のことだ。残りの就業期間を乗り切るためのお楽しみである。「チラシの裏」みたいだが、書いておこう。 ・病院へ行く(心臓) ・整形外科へ行く(ヘルニア) ・歯医者へ行く(ブリッジと虫歯治療) ・部屋の掃除をする(引越前提に) ・古本を処分する(引越前提に) ・どうしても曜日が合わなくて出せなかったゴミ類を処分する。 ・自分用(夜想曲用)の絵を描く。 ・Progressiveの絵(稲葉さんの小説挿絵)を描く。 ・夜想曲で仮アップ中だったコンテンツを正式にアップする。 ・最近「もえたん」を買って勉強してる甥っ子に、ちゃんとした教育をする。 ・具体的には、ジョジョを読ませるとか。 ・甥っ子と遊ぶ。 ・来年にはKanonをやらせてみようかと思っている。 ・行けるようなら、なのは系のイベントに行ってみたい。 ・6月27日・28日に結納。 ・ゆっこさんのお兄さんにガンプラを持っていく。 ・ゆっこさんの甥っ子くんに何か買っていく。 ・ゆっこさんの弟さんの趣味を聞きだして何か買っていく。前回は会えなかった。 ・お父さんに抱きつく。 ・お母さんに今度も泊まれないこと(母が同席するので)を詫びる ・同時期に新居探し。 ・今度こそ高速回線を入れる(いまはISDN)。 ・7月15日前後 引越。 ・いろんな界隈に顔を出したい。 ・無駄遣いできないので、選びに選んで同人誌を買う。 ・あちらに住んでる方々と遊ぶ(オフ会にでる体裁になると思う)。 ・来年は甥っ子をコミケに連れていってみようかと思っている。 ・できれば、あの人の墓前に立ちたい。 想像するだけで、脳にちょびっとだけ麻薬が出て楽しい気分になる。それなりに効果的だ。 そうだ、ひとつ忘れていた。 ・ゆっこさんに、うんと優しくする。 最優先事項だ。
■ 2006.12.04 - B part - 「時間の概念」 宇宙がはじまったときから、時間の概念がスタートした。 なので、宇宙のはじまりとか天地開闢とかビッグバンとか呼ばれるものより「以前」というのは存在しない。「そこ」は時間という概念が無い世界なので、科学の根本である原因→結果という因果律が適用できないのだ。 因果律の中でしか生きていない人間に、それ以前を想像するのは難しい。 カエルは、動いているものしか感知できないのだという。 飛んでいるハエも食べるが、小さな木の葉でも風でひらひらと飛んでいたら食べてしまう。だが、動いていないものは感知できない。動いていないものはカエルにとって「存在しない」のだ。だが、感覚の次元が違えてみれば、そこには動かないものが存在していることがわかる。カエルよりも高次にある人間には、その存在が知覚できる。 人間は、カエルと同じように「動かないものが動いたとき」に、存在しないと考えていたものを感知できるのではないだろうか。人間より高次元にある存在に、それを動かしてもらえれば。 ところで、時間が止まる瞬間、もしくは、その時間の流れがそれ以上の進行をゆるされなくなった瞬間の感覚が、想像ででも理解できたとする。 できたとするならば、その逆、時間がはじまった瞬間のことだけは、人間にも理解できるのではないかと思う。
■ 2006.12.04 - C part - 「飛躍」 日記進行からは、ちょっと前のはなし 「拓美にいちゃん!」 「おお、甥っ子のシンちゃん。この間は遊ぶ約束すっぽかしてすまんかったな。いや、にいちゃん先週は命の火が消えそうなくらい疲弊してたもんだから。そういや、もうすぐ修学旅行に出発か、どうだじゅんびはでき」 「凛とセイバー、どっちが好き!?」 オーケー、中学生。 貴様にこれからの人生で絶対に必要な「空気を読む能力」ってやつを叩き込んでやるからそこに正座しろ。
■ 2006.12.05 - A part - 「柏木四姉妹」2006年05月15日 風よ、雲よ、おしえてくれ。 俺はどこに向かっている・・・? と描き上げてから呆然と思い至った柏木楓だいたい10才の絵。いや、もっと6〜8才くらいか。 夏の訪れを、冷凍庫におおきなアイスが入ることで実感する・・・の図。目の描き方をちょっと変えてみた。 あと、この構図は単純につるぺたが描きたかったからこうした。 ・・・俺は、どこにむかっている・・・? 葉鍵系お絵かき掲示板絵・10 楓ちゃん絵はこちらに収録 たしかこの一連の作品を描こうとした最初期の動機は、仕事でヤなことがあったから、初音ちゃんのつるぺた具合を真横から描いて元気をつけよう、というところだったと思う。(欧州系美少女っぽくしてみたその絵がこちら ↓) 数日を経ずして、さらにヘビーなヤなことが会社であったため、よりつるぺた度の高い楓ちゃん10才を、ほぼ無防備な角度で描いた。 以前に一回やってしまったからだろうか。 初音、楓と来たら、やはり梓と千鶴さんも描くべきであろう。そう思った。 そんなわけで梓と千鶴さんである。 梓は前二者同様に横側からの絵。せっかくなのでヘッドホン娘にしてみた。 千鶴さんはちょっと前が誕生日だったのだが、勤務している店でGW後の大量入荷商品の処理がおっつかず、二日ほどおくれてしまった。さあ描こうと思ったものの、しかしネタが偏る。絵を描かせてもらっている葉鍵板では、たいてい千鶴さんは胸でいじられており、もう胸自虐ネタなくしては千鶴さんが語れないよーな雰囲気なのだ。とはいえ、やはり自分としてはありふれてない切り口から描きたい。 定番化している千鶴さんネタの中で、しかし自分と近いところはちゃんとあるのだ。 それは、彼女が若くして鶴来屋の会長になってしまったこと。 ひとつの現代組織を運営していく苦労が、よく分かる。 徹夜で働くこともきっとあったろう。 朝日を拝んでしまい、しかしその綺麗さにちょっと感動したりもする。 そんな雰囲気を絵にしてみたかった。 そして、こういう疲労の極致で自然現象に感動するような接点は、葉鍵キャラをざっと見渡しても、やはり千鶴さんしかいない。
■ 2006.12.05 - A part - 「柏木四姉妹」2006年05月15日 風よ、雲よ、おしえてくれ。 俺はどこに向かっている・・・?
と描き上げてから呆然と思い至った柏木楓だいたい10才の絵。いや、もっと6〜8才くらいか。 夏の訪れを、冷凍庫におおきなアイスが入ることで実感する・・・の図。目の描き方をちょっと変えてみた。 あと、この構図は単純につるぺたが描きたかったからこうした。 ・・・俺は、どこにむかっている・・・? 葉鍵系お絵かき掲示板絵・10 楓ちゃん絵はこちらに収録 たしかこの一連の作品を描こうとした最初期の動機は、仕事でヤなことがあったから、初音ちゃんのつるぺた具合を真横から描いて元気をつけよう、というところだったと思う。(欧州系美少女っぽくしてみたその絵がこちら ↓)
数日を経ずして、さらにヘビーなヤなことが会社であったため、よりつるぺた度の高い楓ちゃん10才を、ほぼ無防備な角度で描いた。 以前に一回やってしまったからだろうか。 初音、楓と来たら、やはり梓と千鶴さんも描くべきであろう。そう思った。 そんなわけで梓と千鶴さんである。
梓は前二者同様に横側からの絵。せっかくなのでヘッドホン娘にしてみた。 千鶴さんはちょっと前が誕生日だったのだが、勤務している店でGW後の大量入荷商品の処理がおっつかず、二日ほどおくれてしまった。さあ描こうと思ったものの、しかしネタが偏る。絵を描かせてもらっている葉鍵板では、たいてい千鶴さんは胸でいじられており、もう胸自虐ネタなくしては千鶴さんが語れないよーな雰囲気なのだ。とはいえ、やはり自分としてはありふれてない切り口から描きたい。 定番化している千鶴さんネタの中で、しかし自分と近いところはちゃんとあるのだ。 それは、彼女が若くして鶴来屋の会長になってしまったこと。 ひとつの現代組織を運営していく苦労が、よく分かる。
徹夜で働くこともきっとあったろう。 朝日を拝んでしまい、しかしその綺麗さにちょっと感動したりもする。 そんな雰囲気を絵にしてみたかった。 そして、こういう疲労の極致で自然現象に感動するような接点は、葉鍵キャラをざっと見渡しても、やはり千鶴さんしかいない。
■ 2006.12.05 - B part - 「超能力」2006年06月10日 最近開発した超能力 能力種別:時間停止 発力条件:特定の会話におけるカウンター成立時に 会話再現: 「天野さん、ゆっこさんってどんなひとなんですか?」 「世界一いい女」 昨日も二秒ほど時間を止めた。 最近は言い慣れてしまったせいか照れが入り効果が薄まっているが、開発当初は100%本気で言ってたので、最長記録として、4.82秒ほど、相手の時間を止めることに成功している。 もう、私にとって、この世に「女」は彼女しかいない。 なので、彼女は世界一いい女だ。
■ 2006.12.05 - C part - 「出版者」 お客様で「ある本」をお探しの方が見えた。 タイトル・出版社・著者名と完璧にお伝えいただき、ジャンルや内容まで説明いただけたが、出版社名以外は聞いたことの無い本だったし、ジャンルもマイナーな研究本だったので見当がつかず、まずはパソコンで検索することに。本はすぐに表示されたが、実績をしらべたところ、現在この店には一冊も残ってはいなかった。その旨をお伝えする。 「そんな馬鹿なことがあるか!」 お客様は激昂した。 入荷はおよそ2ヶ月前。5冊入荷しているが、4週間陳列されて一冊も売れず、4冊が返品され、残った一冊も棚に収まったが、ジャンル・出版社ともにマイナーなこともあり、最近返品されている。3ヶ月くらいは置くものなので、この判断はやや性急だったと思うが、さりとて普通といえる範囲内だ。 パソコンの画面をみせて、その旨を説明した。他の問屋からイレギュラーに入荷する商品でもないので、ここに表示されている数字が全てだ。 「そんな馬鹿なことがあるか!」 お客様は画面から目を背け、自己崩壊しそうな顔で、同じ言葉を言った。よくきく言葉だが「声が震えている」という有様がまともに見て取れた。 「出版社が約束したんやぞ!」 そう言って、お客様がこの本のことを話し出す。くわしく聞けたわけではなかったが、このお客様が出版した本だったようだ。タイトルを見る限り、一般受けしそうにない歴史研究の本だった。だが、目の前のこの人がかなりの情熱でこの本を書いたことが、なんとなく分かる。おそらくはこれまでの人生の集大成的な気持ちでこの一冊を書き上げ、初めて出版にこぎつけた記念すべき著作物なのだろう。こう言っては失礼だが、苦労してきた方だというのがわかる。いまの自分が誇れる唯一のもの、というイメージすら受けた。 なまりからしても地元の人だろうと思う。おそらく出版社は、普通の新刊は三ヶ月くらいは陳列されるものであり、著者の地元であるこの書店には5冊の入荷が予定されている(実際に5冊は入荷した)ことを伝えたのだろう。だからこその「馬鹿な」である。 そして、お客様のこの言葉には、もうひとつ「一冊も売れずに返品された」ことに対して、その事実への強烈な拒絶が込められていたように感じる。 自分が、いったいどれほどの情熱を込めて、この本を出したか。 自己満足ではなく、日本人の歴史研究についてもこの本はおおいに出版意義があるであろう書籍であり、出版社も、これを読ませた知人も、高い評価をしてくれた。 そんな本が、誰にも買われずに返された。 さらに「こんな大きな書店なのに」という意味もあったのだろう。 地元では最大規模の書店である。ここにくればなんでも揃うというのは誇張も甚だしいが、そうも言われる大型書店である。 この書店に置いてなかったら、もうこの近傍のどこにもない。そう言えるくらいマイナーな本も置いている店である。 広大な売場には、何十万冊という本が置かれている。棚に背表紙を見せて置かれている本だけでなく、表紙を目立つように見せて置かれた本だけでも1万種類くらいはある。 このお客様には、自分の書いた本が、世界一いい本にちがいない。そしていま売場に並べられている本は、どれもこれも下らない自己啓発本だったり、下らない恋愛小説だったり、下らないベストセラーだったりする。そして、そのどれよりも低い評価を受けて、自分の宝物のようであり、あるいは自分自身のような本は、出版社に返された。 お連れの人になだめられて、お客様は店を出た。最後まで「そんな馬鹿な」を繰り返していた。 まともに歩けないほど、うちひしがれていた。 これは、自分の素晴らしいと思っているものを、世界中が素晴らしいと評価するはずだと、そう思っていたこのお客様の、ただの勘違いだ。 とはいえ、自分の著作が世界で一番おもしろいと思えない人間に、おそらく創作はできない。その点で、逆に、このお客様はただしい。 だが、売れるか売れないかは、創作の根源、意義や価値とは、また別のところにある。 それは商業主義と呼ばれ、いかに有名な人やメディアに推薦されるか、いかに一般人にもウケる内容であるか(売れる本は、敷居が低く、普段は本など読まない人が読むからベストセラーになる)、そして結果としていかに売れるかである。 もちろん出版社は、出版を文化事業と捉えている部分もあるので、売れない高度な本こそを作りたいという気持ちもあるだろう。何かの本で、ベストセラーが出て出版社が一億円儲かったら、そのお金で、高度で玄人向きで売れないけど真に出したい本が出せる! と考える版元もあるそうだ。 だが、本の評価を金銭でのみ置き換えた場合、一円も稼げなかった本、あるいは稼げなくなった本は、ただの穀潰しである。いずれ書店から消える。 このお客様の本がどんな本だったかは、わからない。 だが、素晴らしいのに売れない本は、いくらでもある。 あのお客様が味わった理不尽は、この世界では日常なのだ。
■ 2006.12.06 - A part - 「反動」2006年06月17日 自店で、長らく購読いただいていたお客様を切った。 先方の要望と、当方の応えられる限度の食い違いが大きすぎたためだ。 まあ、いろいろ理由はあるが、とにかくそのお客様のもとまで訪問して、先ほど切ってきた。取引中止だ。 これが当店、当社の意志であると、意気揚々と出かけたふりはしていたが、本音としてはむしろ自身のポリシーには反する嫌な仕事だ。結果としては取引中止も承諾していただき、目論んでいた戦果としては充分。退職を前にひとつ肩の荷がおりた気がするが、しかし、本質的に気分のいいものではない。 こういうとき。 なぜかいい絵が描ける。 というか、無性に絵が描きたくなる。逃避なのはわかるし、実際に描いてる時間などないのだ。明日も早い。
■ 2006.12.06 - B part - 「はやて一家」 「魔法少女リリカルなのはA's」のアニメによると、八神家の応接間には立派なソファセットがあり、ゆったりと全員が座れる様子だった。 でも、この5(6か?)人を描こうと思ったとき、やっぱり暑苦しいくらいに身を寄せ合っている姿が浮かんでくる。 そんなわけで、2人掛けくらいのソファにみんな集まってきて、無理矢理おさまってるはやて一家。 ストレージ型の魔導書から、ちびリインフォースを起動させている様子。 これホントは、最終回ではやてが使っていたインテリジェントデバイスに拠って構築されているはずなので、絵の中心にいるはやてはデバイスを両手で持ってるのが正しいかも。 まあ、この時期は入力用のインターフェースとしての魔導書を使っていたってことで解釈してほしい。 絵をちゃんと描く余裕ができて、描く義理を果たしたら、そのうち、色をつけたいと思う。
■ 2006.12.06 - B part - 「はやて一家」 「魔法少女リリカルなのはA's」のアニメによると、八神家の応接間には立派なソファセットがあり、ゆったりと全員が座れる様子だった。 でも、この5(6か?)人を描こうと思ったとき、やっぱり暑苦しいくらいに身を寄せ合っている姿が浮かんでくる。
そんなわけで、2人掛けくらいのソファにみんな集まってきて、無理矢理おさまってるはやて一家。 ストレージ型の魔導書から、ちびリインフォースを起動させている様子。 これホントは、最終回ではやてが使っていたインテリジェントデバイスに拠って構築されているはずなので、絵の中心にいるはやてはデバイスを両手で持ってるのが正しいかも。 まあ、この時期は入力用のインターフェースとしての魔導書を使っていたってことで解釈してほしい。 絵をちゃんと描く余裕ができて、描く義理を果たしたら、そのうち、色をつけたいと思う。
■ 2006.12.06 - C part - 「卒倒」 ちいさなころ「ぶったおれる」というのに憧れていたことがある。 「赤毛のアン」でアン・シャーリーが「気絶する」ことに憧れていたというエピソードがあった。屋根から落ちたか何かで、実際に気絶したとき、思ったほどロマンチックではないと述懐していたが、まあそれはともかく。 この場合の「ぶったおれる」というのは貧血で、とかではなく、圧倒的に不利な状況で力つきるまで戦ってとか、乗ってた船が沈没して死に物狂いでどっかの島の砂浜に泳ぎついてそのまま倒れたとか、そういう体力ゼロになっての気絶だ。はずかしながら、こういうのにちょっと憧れてた。 ところで、子供向けのがんばれソングとかに安売りで書かれている「夢はかならず叶う」という言葉がある。 あれってホントだよなと、毎日ぶったおれる寸前まで働くときしみじみ思う。憧れてました。夢でした。・・・いま、かなっちゃってます。 そういや、何年か前に「ロリっぽい萌え絵が描けるようになりたいなあ」と思ったことがあったなあ。当時は「ドラマチックで感動的な絵が描きたい!」と公言していたその一方で。
■ 2006.12.07 - A part - 「ダイイング・メッセージ」 お店でレジに立っていると、不思議な組み合わせの本を買っていく方がいる。 家人の分や、頼まれものを購入するとよくあるが、今回は一個人であろう買い物で、内容は以下の通り。 ゼクシィ東海版(結婚式用情報雑誌) + 「未亡人白書」(エロマンガ) ゼクシイから察するところ、この方は近いうちに御結婚されるのだろう。それはいい。だが、嗜好が未亡人属性とはどういう意味だろう。ちょっと考えてみた。 ・未亡人って最高だよな! ↓ ・だから、自分の彼女も、将来的にはぜひ未亡人にしたい! ↓ ・まずは結婚! ↓ ・そして は・・・っ これはひょっとして「死にたい」という遠回しなメッセージなのか・・・?
■ 2006.12.07 - B part - 「デスクトップバトン」 【1】あなたのデスクトップを晒して、一言どうぞ。 ※ クリックで拡大 ひさびさに要らないファイルを捨てて綺麗にした。 【2】OSは何? macOS 9.2.1 安定こそ命。マシンが物理的にダメになったら買い換え予定。そのときはXにしたい。しかし物持ちいいよなあ。 【3】これはあなた個人のパソコン?職場や家族共有のパソコン? 個人のパソコン。もう何年つかっていることか。最近モニタがノーモーションで切れるので絵とかテキストかくのが恐い。 ちなみに、マック1台・ウインドウズ2台。ウインドウズの方は音楽・映像・ゲーム専用マシンになっている。 【4】この壁紙は何?どこで手に入れた? 壁紙はたいてい自分がそのとき描いてる絵。ネット回ったりテキスト書いたりして絵描き以外の脳味噌になっているときにパッと見られるので、違和感のある部分がわかる。絵の時間がなかなか取れないので、ちょこちょこメモしてまとめて修正している。 【5】壁紙は頻繁に変える? いまの絵が描けて、次の絵を描き始めたとき変わる。 【6】デスクトップのアイコンの数はいくつ? 右列1行が限度。10個くらいが理想。 これを超えるとゴチャゴチャしてみえるが、我に返らない限り掃除はしない。 【7】ファイルやショートカットがゴチャゴチャしているデスクトップ、どう思う? 使わないファイルやショートカットは無いも同然なので気にしない。 職場でもたまに怒られる。 【8】何かこだわりはある? 個人のパソコンなら、使いたいファイルが自分にだけ使えればいいのさ。 【9】今回、このバトンが回ってきてからこっそりとデスクトップを掃除した? したした。すげえした。 特に未使用テキストフォルダ内。 ここにファイル名だしただけで何人かとりかえしのつかなくなるやつとか。笑ってすまされそうなのだけ残して、あとはスクロールの下にある「読まなければ長生きできたものを」という名のフォルダに入れてる。 【10】最後に『この人のデスクトップを覗きたい』という3人 笹本佑一氏と、秋山瑞人氏と、あと遠頭寺耕介氏 。
■ 2006.12.07 - B part - 「デスクトップバトン」 【1】あなたのデスクトップを晒して、一言どうぞ。
※ クリックで拡大
ひさびさに要らないファイルを捨てて綺麗にした。 【2】OSは何? macOS 9.2.1 安定こそ命。マシンが物理的にダメになったら買い換え予定。そのときはXにしたい。しかし物持ちいいよなあ。 【3】これはあなた個人のパソコン?職場や家族共有のパソコン? 個人のパソコン。もう何年つかっていることか。最近モニタがノーモーションで切れるので絵とかテキストかくのが恐い。 ちなみに、マック1台・ウインドウズ2台。ウインドウズの方は音楽・映像・ゲーム専用マシンになっている。 【4】この壁紙は何?どこで手に入れた? 壁紙はたいてい自分がそのとき描いてる絵。ネット回ったりテキスト書いたりして絵描き以外の脳味噌になっているときにパッと見られるので、違和感のある部分がわかる。絵の時間がなかなか取れないので、ちょこちょこメモしてまとめて修正している。 【5】壁紙は頻繁に変える? いまの絵が描けて、次の絵を描き始めたとき変わる。 【6】デスクトップのアイコンの数はいくつ? 右列1行が限度。10個くらいが理想。 これを超えるとゴチャゴチャしてみえるが、我に返らない限り掃除はしない。 【7】ファイルやショートカットがゴチャゴチャしているデスクトップ、どう思う? 使わないファイルやショートカットは無いも同然なので気にしない。 職場でもたまに怒られる。 【8】何かこだわりはある? 個人のパソコンなら、使いたいファイルが自分にだけ使えればいいのさ。 【9】今回、このバトンが回ってきてからこっそりとデスクトップを掃除した? したした。すげえした。 特に未使用テキストフォルダ内。 ここにファイル名だしただけで何人かとりかえしのつかなくなるやつとか。笑ってすまされそうなのだけ残して、あとはスクロールの下にある「読まなければ長生きできたものを」という名のフォルダに入れてる。 【10】最後に『この人のデスクトップを覗きたい』という3人 笹本佑一氏と、秋山瑞人氏と、あと遠頭寺耕介氏 。
■ 2006.12.07 - C part - 「死に際に微笑まぬ者は」2006年06月21日 終わった。さっき、書店での私の全仕事が終わった。 情けない状況の中、五月からこの日めざして準備してきたのが神に導かれて、最終日までに全てを収拾できた。もう何もない。私はここでやるべき使命を全て果たしきった。使命を全うした者がむかえるのが死なら、私はここでちゃんと死ねたと思う。これなら生まれ変われると思う。明日から、新しい私だ。 だが、一面に於いて、実際には納税課の前に到着した直後のブルースモービル(ブルース・ブラザーズ)みたいな有り様だった。 この夏で、ちゃんとからだを治そう。
■ 2006.12.08 - A part - 「母の誤変換」 農業しようと家を出るちょっと前に、母にパソコンを買った。 いまだもって、おもに電子文通機+通販マシーン+医学事典+リアルタイム株価情報誌でしかないが、それでもずいぶん使いこなしていると思う。 息子と連絡を取るために、必死で憶えたのだろう。頭が下がる。 とはいえ、母はパソコンより前に、携帯でメールのやりとりをしたり、i-modeで株価を調べたりするのはやっていたので、それほど抵抗がなかったのかもしれない。いまさらだが71才であることを考えると驚異的ですらある。 しかし、母には悪い癖があって、たまに変な誤変換をなおさずに、そのまま送ってくる。さっき届いたメールにあったのが 「ひッ腰」 なんとなく腰痛系の悲鳴に分類される、驚愕とともに言うに言えない部位が一大事みたいな、そんな誤変換だった。
■ 2006.12.08 - B part - 「同情」2006年06月21日 ※ 愚痴です。 書店での最終日とその前日で、私物の撤収や退職手続きなど、必要な業務をすべて済ませた。 シフトの関係で会えなくなる人や、社長には前もって挨拶はしてある。それ以外の全ての人と、この二日で退職の挨拶をした。 充分な仕事が絶好調で出来たわけではないので、決していい店長ではなかった。だが、それでも名残惜しんでくれる人はいた。 特に、本部で総務をしている私の先輩社員は、この店で店長をすることの大変さと、私がどれくらい大変な状況で店長をしてきたかを話してくれた。長くここで総務をしている人ならではの、俯瞰からのコメントだった。ちょっと驚いた。誰にも分かってもらえなくていいと、どこかで思っていたからだ。あと、やっぱりここでの店長は大変だったのかと思った。怒られてばかりだったから、自分が無能なのだと思っていた。もちろん、決して有能ではない。有能だったら、もっと自分を削らなくても済んでいたはずだし、途中でついていけなくなることもなかったろう。最後の方は「社会人としてどうか」という状態ですらあったくらいにボロボロだった。 もうひとり。本部に近いある人からも声が聞けた。私はやはり本部では相当に非道く言われていたらしく、その人はそれを聴くのが辛かったという。私のせいだと話したが、彼の人はそれを否定して「いっしょに働く仲間をあんなふうに言う本部が許せない」と、同情されてるこっちが引くくらいに黒い声でコメントしていた。いや、だいたい予想はしていたが、ホントに非道く言われていたらしい。その人とは以前、ともに働いたことがある。店舗がもっとも大変だった時期に、よく支えてくれた従業員だった。私を悪く言う声に怒ってくれることに、少しは慕われていたのだなとホッとした。 「自分がやらなくていい仕事まで背負い込んでいる」そうコメントされたことが過去にあった。 店長は責任者だ。そして何らかの問題にたいする解決が、閃きのように与えられるのは、たいていその問題に対してもっとも責任感を抱いている人間である。遠巻きに見ている責任のない人間には、本質をついた解決策は天から与えられない。(もっとも、最終的には責任者がどうにかしないといけないため、自然と場数を踏んでいったから解決できる、というのはあるかもしれない) だが、これはつまり、その状況において責任者以外は誰も責任をとらないと言うことだ。後輩や、同程度のキャリアでありながらこれら問題の解決がスムーズにできない人の代わりに業務を代行することすらある。「ええい、貸してみろ!」というのは、大人数で運営されている組織で、かつ「そのときいる人がなんとかする」という責任の所在があいまいな部署では危険な考えである。最後はあの人がやってくれるから、という意識が仕事に対して発生してしまう恐れがあるからだ。 なにせ「自分の担当業務」+「接客や問題解決などの全体業務」をまともにこなすと、わたしの場合で15時間くらいかかるのだ。(まったくノロマなことである)自分の担当だけは終わらせないと帰れないという条件があるので、自然と誰もが全体業務を避けるようになる。時に、いかに全体業務に関わらないか、という命題が後ろめたくも胸中に生まれるほどだ。 必然的に、そのなかで自己犠牲精神のある人間は食い潰される。 真正面から取り組んできた、真面目で「お客様のために!」という心意気のある従業員の多くは、もしくはその志(こころざし)は、たいていこの作業量に、ただでさえ必要最低限な作業量でさえ定時に終われないという膨大なソレに、どんどん圧迫されていく。 私もその一員だった。全員が責任者でなく、サービス精神にも偏りがあり、皆が背負いきれない業務を抱えている。そんななかで公のために、という意識があると、吹き溜まりに塵芥が溜まるように負担が累積されていく。これでは早晩つぶれることは、すくなくとも途中からは分かっていた。 でも私は、行列をつくっているお客様を無視してレジにも入らず自分の仕事をすることができなかったし、手際の悪い社員がお客様の御要望に応えきれず時間がかかっているのを見過ごせなかったし、文具以外のすべての担当を通過したことがあるために、人数が厳しいときに少しでも多くの担当をカバーしようと限界まで担当を増やす判断を下したことをやむを得ないと思いつつも納得している。 「お客様の問題を解決する手助けをする」それが書店の仕事なのだ。「こういうことが描かれた本が必要だ」とおっしゃるならそれをお探しする。店内になければ取り寄せるし、取引のない版元であれば通販なりで手に入る方法をお調べする。当然書店に利などないが「ここにくれば探してた本がある」だけではなく「最終的にかならず問題が解決する」というサービスをしてきた。現在の会社の発展はそれが全社で行われているからだと思う。 ただ、全員がこの基準を日常的に達成していたわけではなく、従業員によって店のレベルが上下するため、内部からも多少敬遠されていた感もある。「そんな基準で接客しなきゃならないのか」という有言無言の声があった。 まあ、ここまでやろうとするのは私の「趣味」だ。この会社の正義ではない。会社のスローガン的には正義なのだが「恒常的には実現不可能な正義」だ。だが、そういうやり方こそが、自分の喜びだった。「趣味」を放棄すればよかったのかもしれない。しかし、お客様の問題解決になる、誰かの助けになる、社内においてはこの地獄の中で誰かが楽になれるという、その喜びがなければ、それを糧としていたわたしはここでここまでは続かなかったし、そういう私でなくなってしまったら、わたしがここで生きている意味がない。 ただ、この取り組み方は、わかると思うが個人においては、そしてその個人の魅力で人気がつく仕事でなければ合理的ではない。そして何より、責任者が出しゃばって問題を解決してしまう組織には「発展がない」のだ。責任者の部下が責任者レベルにならなければ、組織の底が上がらないのである。その実現ができない、いわば教育ができない「ええい、貸してみろ」系の人間は、発展指向の会社で責任者をするのは向かないのかもしれない。 向いているとしたらどこか。それは、自分の手足が届く範囲の小規模集団での実行部隊なのだと思う。農業なんかはそれだろうし、小さな店舗の個人運営もそうだろう。 この一年半を勤めてきたかの店舗は、責任感を手放したいま見ると広大すぎる。この視点でみると、なるほど自分の担当に埋没してしまいたくなる気持ちが良く分かる。 次の仕事に求める基準は、自分のサービス精神をフルに発揮してなお、仕事が完了するというそういう仕事総量の中であること。コーヒーカップくらいの容量の仕事の中で、それを甘露にするサービスをしていきたい。 太平洋に角砂糖を解かすような、そんな仕事量の中で、結局わたしは糖分をつかいはたしてしまったようだ。あるいは、本当は「塩」を出すよう命じられていたのに、すでに求められていなかった糖分を、勝手に出し尽くしたのかも知れない。 これからは、ひとりのお客様を丁寧に愛していく仕事をしていこう。 それはきっと、私にむいているはずだ。
■ 2006.12.08 - C part - 一文日記「手」 仕事を辞める少し前から、ちょっとしたことをゆっこさんと二人で勉強しているのだが、その帰りの部屋の前まで彼女を送っての帰り際、帰途につく私(の車)に、いつまでもいつまでも手をふってるゆっこさん激萌え!!!
■ 2006.12.09 - A part - 「三丁目の八神家」 「リリカルなのはA's」で何が不満かと言えば、これはもう八神家の豪華振りにとどめを刺す。 たしかに両親の遺産やグレアム提督からの養育費等もあるだろう。だが、一戸建て、庭付き、5人を着せて食わしてあまりある生活。八神家の背後には、使い切れないほどお金がある印象だ。ちょっと立派すぎる。 そして自分がこのどこに問題を感じているかというと、あの一家の雰囲気が生活にあるゆとりのせいで拡散して見えるという点だ。 この世界の人間は、基本的に悪意にさらされていない。都築氏の構築する世界の美しい優しさなのだが、これが生活環境の充実にまで及んでしまっている。いや、もうぶっちゃけた話をすると、この豊かさが私の趣味ではないのだ。 もし私が八神はやてを中心とした生活を描写するなら、基本が貧乏であることは外せない。いろいろ足りないながらも、それだけに密接に寄り添った生活。これだ。 そこでまず、はやての遺産は親戚にでもだまし取られたことにする。かろうじて生活できるかどうかのお金だけは残せたという感じで、脚の麻痺はなし。(その分の不幸がこの金銭問題ってことで) 小学生の一人暮らしという設定の状況的無茶はさておくが、この環境で逞しくも細々と生活をしているはやてが主人公だ。 9歳の誕生日に突如覚醒する神棚安置の「闇の書」、出現するヴォルケンリッター。「わぁあ、なんやのん、あんたら!」たくましいので気絶しないはやて。騎士登場の衝撃波で窓が割れたり壁や畳が傷つく。すでに敷金の心配しかしてないはやて。「我らヴォルケンリッター、なんなりとごめ」「うるさいわ。どないしてくれんねん、この部屋!」シグナムの口上を吹っ飛ばすはやて。下の階から「うるせーぞ! 何やってるんだ!」という罵声。 とりあえずこんな感じだろうか。 続けてみよう。 以後は、騎士の事情などを理解した上で、アニメと似たような形で生活がはじまる。 ただ違いは、はやてに5人もの生活をまかなえる金銭的貯蓄がないことだ。 「衣食住をまかなう責任がある」のは、はやてではなく、ヴォルケンリッター自身の方である。 それでも「うちの子」と呼んで騎士たちの面倒をみて生活するはやて。情が深く、包容力のあるはやてが彼らに慕われるのは、あっという間だった。騎士たちは、主従を越えてはやてのために生きようとする。 手狭な貸部屋に5人(ザフィーラは犬にして外に追い出したので4人か?)暮らしが続く。 この方がいいと私は思う。 ソファの絵を描いたとき、資料としてアニメを見返したのだが、八神家はすごく立派なソファセットをもっていて、全員が間隔を開けてゆったり座れてしまう。これがいけない。貴様ら、精神的な距離はそんなもんじゃねえだろう。もっと暑苦しいほどに寄り添ってるはずだ。 (コミックス版での「ソファ絵」はちゃんと密着して描かれてるので、これは満足) それが、ここでの「貧乏はやて」の設定なら、ビジュアル的に表現できる。 まず舞台となる部屋面積は六畳程度を推奨。ちょっと狭すぎる気がするので、台所を四畳足そう。木造アパートの二階のひと部屋という感じだ。家賃2万円。壁は紙のように薄い。 ※ クリックで拡大 (構図は昔かいたハーメルンのアレと同じですな・・・) 通常はこの部屋のまんなかにちゃぶ台があって、そこでみんなあつまって食事。シャマルは割烹着着用で、ごはんと味噌汁をよそう。シグナムとヴィータが焼き魚や惣菜、漬け物などを台所から運んでくる。はやてが配膳の完了を確認して「いただきます」全員が唱和。シグナムの合掌は宗教家のような荘厳さ。ヴィータはいつまでたっても里芋が掴めなくてついに握り箸で突き刺し、これをたしなめられる。今日のおかずは焼き魚と煮付けとごはんと味噌汁とホウレンソウのおひたし。あと漬け物とお茶。4杯おかわりして、ほうじ茶を飲み干し満足げなヴィータ「ふー食った食った」「腹を叩くな」ザフィーラは外で放し飼い。 ちゃぶ台で宿題をするはやて。勉強をみているシグナム。リインフォースがいる場合は彼女が家庭教師。洗い物をするシャマル。図書館ではやてが借りてきた本を読むヴィータ。シグナムはたまに外に出てレヴァンティンで素振り。はやてが近所からもらってきたぴちぴちのジャージ着用。最近、胸のファスナーが壊れたため、中期型ダーティペアみたいな着こなしになっている。お風呂。たまに奮発して銭湯へ行くが、お金がないときは台所に盥(たらい)を出して、お湯を張って身体を洗う。お湯がこぼれないようにそろりそろりと身体を洗う。シグナムの熟れた肉体が窮屈そう。一個しかない石鹸をいたわるように使う。髪も身体も全部せっけんであらう。みんな同じ匂い。 ちゃぶ台を片づけて、布団を敷く。敷ける枚数は3面が限度だが、はやてを中心にまんなかへんでひとかたまりになるので問題なし。早朝にヴィータとシグナムは新聞配達と牛乳配達。シャマルは朝食用意。はやて起床。全員で朝食後、はやてを学校に送ったあと、やはり全員がアルバイトに出発。工事現場の誘導員やってるシグナム、スーパーでレジうってるシャマル、子供服のモデルで一番かせいでいるのがヴィータ。ザフィーラは最近、2キロ圏内の縄張りを全てシメた。いつか熊と戦ってみたいと思っている。 そんな日常。 ああ、たまらん。このギュウギュウ詰めになって暮らしてる感じと、その密着具合が心身で一致してるであろう点がたまらん。 絵、というかできるものなら漫画にしたい。 もし誰かの手でコミック化するとしたら、作家はぜひ、こうの史代さんか、西岸良平さんにお願いしたいところだ。 でも、ヴォルケンリッターの暮らしは、こういう「天地無用」の清音・美星ペア(地球駐在時)みたいな生活の方が萌えると思うが、わたしだけだろうか。ヴィータが昼寝してて夕方になってしまい「うぅー、西日があついー・・・」とか寝ぼけて悶えてるとことか萌えませんか。そうですかわたしだけですか。
■ 2006.12.09 - A part - 「三丁目の八神家」 「リリカルなのはA's」で何が不満かと言えば、これはもう八神家の豪華振りにとどめを刺す。 たしかに両親の遺産やグレアム提督からの養育費等もあるだろう。だが、一戸建て、庭付き、5人を着せて食わしてあまりある生活。八神家の背後には、使い切れないほどお金がある印象だ。ちょっと立派すぎる。 そして自分がこのどこに問題を感じているかというと、あの一家の雰囲気が生活にあるゆとりのせいで拡散して見えるという点だ。 この世界の人間は、基本的に悪意にさらされていない。都築氏の構築する世界の美しい優しさなのだが、これが生活環境の充実にまで及んでしまっている。いや、もうぶっちゃけた話をすると、この豊かさが私の趣味ではないのだ。 もし私が八神はやてを中心とした生活を描写するなら、基本が貧乏であることは外せない。いろいろ足りないながらも、それだけに密接に寄り添った生活。これだ。 そこでまず、はやての遺産は親戚にでもだまし取られたことにする。かろうじて生活できるかどうかのお金だけは残せたという感じで、脚の麻痺はなし。(その分の不幸がこの金銭問題ってことで) 小学生の一人暮らしという設定の状況的無茶はさておくが、この環境で逞しくも細々と生活をしているはやてが主人公だ。 9歳の誕生日に突如覚醒する神棚安置の「闇の書」、出現するヴォルケンリッター。「わぁあ、なんやのん、あんたら!」たくましいので気絶しないはやて。騎士登場の衝撃波で窓が割れたり壁や畳が傷つく。すでに敷金の心配しかしてないはやて。「我らヴォルケンリッター、なんなりとごめ」「うるさいわ。どないしてくれんねん、この部屋!」シグナムの口上を吹っ飛ばすはやて。下の階から「うるせーぞ! 何やってるんだ!」という罵声。 とりあえずこんな感じだろうか。 続けてみよう。 以後は、騎士の事情などを理解した上で、アニメと似たような形で生活がはじまる。 ただ違いは、はやてに5人もの生活をまかなえる金銭的貯蓄がないことだ。 「衣食住をまかなう責任がある」のは、はやてではなく、ヴォルケンリッター自身の方である。 それでも「うちの子」と呼んで騎士たちの面倒をみて生活するはやて。情が深く、包容力のあるはやてが彼らに慕われるのは、あっという間だった。騎士たちは、主従を越えてはやてのために生きようとする。 手狭な貸部屋に5人(ザフィーラは犬にして外に追い出したので4人か?)暮らしが続く。 この方がいいと私は思う。 ソファの絵を描いたとき、資料としてアニメを見返したのだが、八神家はすごく立派なソファセットをもっていて、全員が間隔を開けてゆったり座れてしまう。これがいけない。貴様ら、精神的な距離はそんなもんじゃねえだろう。もっと暑苦しいほどに寄り添ってるはずだ。 (コミックス版での「ソファ絵」はちゃんと密着して描かれてるので、これは満足) それが、ここでの「貧乏はやて」の設定なら、ビジュアル的に表現できる。 まず舞台となる部屋面積は六畳程度を推奨。ちょっと狭すぎる気がするので、台所を四畳足そう。木造アパートの二階のひと部屋という感じだ。家賃2万円。壁は紙のように薄い。
※ クリックで拡大 (構図は昔かいたハーメルンのアレと同じですな・・・)
通常はこの部屋のまんなかにちゃぶ台があって、そこでみんなあつまって食事。シャマルは割烹着着用で、ごはんと味噌汁をよそう。シグナムとヴィータが焼き魚や惣菜、漬け物などを台所から運んでくる。はやてが配膳の完了を確認して「いただきます」全員が唱和。シグナムの合掌は宗教家のような荘厳さ。ヴィータはいつまでたっても里芋が掴めなくてついに握り箸で突き刺し、これをたしなめられる。今日のおかずは焼き魚と煮付けとごはんと味噌汁とホウレンソウのおひたし。あと漬け物とお茶。4杯おかわりして、ほうじ茶を飲み干し満足げなヴィータ「ふー食った食った」「腹を叩くな」ザフィーラは外で放し飼い。 ちゃぶ台で宿題をするはやて。勉強をみているシグナム。リインフォースがいる場合は彼女が家庭教師。洗い物をするシャマル。図書館ではやてが借りてきた本を読むヴィータ。シグナムはたまに外に出てレヴァンティンで素振り。はやてが近所からもらってきたぴちぴちのジャージ着用。最近、胸のファスナーが壊れたため、中期型ダーティペアみたいな着こなしになっている。お風呂。たまに奮発して銭湯へ行くが、お金がないときは台所に盥(たらい)を出して、お湯を張って身体を洗う。お湯がこぼれないようにそろりそろりと身体を洗う。シグナムの熟れた肉体が窮屈そう。一個しかない石鹸をいたわるように使う。髪も身体も全部せっけんであらう。みんな同じ匂い。 ちゃぶ台を片づけて、布団を敷く。敷ける枚数は3面が限度だが、はやてを中心にまんなかへんでひとかたまりになるので問題なし。早朝にヴィータとシグナムは新聞配達と牛乳配達。シャマルは朝食用意。はやて起床。全員で朝食後、はやてを学校に送ったあと、やはり全員がアルバイトに出発。工事現場の誘導員やってるシグナム、スーパーでレジうってるシャマル、子供服のモデルで一番かせいでいるのがヴィータ。ザフィーラは最近、2キロ圏内の縄張りを全てシメた。いつか熊と戦ってみたいと思っている。 そんな日常。 ああ、たまらん。このギュウギュウ詰めになって暮らしてる感じと、その密着具合が心身で一致してるであろう点がたまらん。 絵、というかできるものなら漫画にしたい。 もし誰かの手でコミック化するとしたら、作家はぜひ、こうの史代さんか、西岸良平さんにお願いしたいところだ。 でも、ヴォルケンリッターの暮らしは、こういう「天地無用」の清音・美星ペア(地球駐在時)みたいな生活の方が萌えると思うが、わたしだけだろうか。ヴィータが昼寝してて夕方になってしまい「うぅー、西日があついー・・・」とか寝ぼけて悶えてるとことか萌えませんか。そうですかわたしだけですか。
■ 2006.12.09 - B part -「エプロン」2006年06月23日 実母とゆっこさんが、いっしょに台所に立っている。 どうもウマがあうらしく、けらけら笑いながら料理してる楽しそうな声が、遠くから聞こえる。 御飯が出来たと声がかかり、兄と私が呼ばれる。 エプロンつけた世界一の美女が手づから御飯をよそってくれた。 えもいわれぬ萌えがあった。
■ 2006.12.09 - C part -「前進翼萌え」 前進翼に萌える。 エンテとか、カナード翼とか、こう「わたし、生まれついてのマイノリティですから」みたいな、微妙に孤高な感じが実に萌える。 萌えついでに擬人化してみた。 ※ クリックで拡大 もっと、こうぺったんこな感じの方がよかっただろうか。(もとの戦闘機 Su−47) なお、描いた場所は軍事関連機器擬人化サイトのメッカ http://mil.homeip.net/ の「絵掲」である。
■ 2006.12.09 - C part -「前進翼萌え」 前進翼に萌える。 エンテとか、カナード翼とか、こう「わたし、生まれついてのマイノリティですから」みたいな、微妙に孤高な感じが実に萌える。 萌えついでに擬人化してみた。
※ クリックで拡大 もっと、こうぺったんこな感じの方がよかっただろうか。(もとの戦闘機 Su−47)
なお、描いた場所は軍事関連機器擬人化サイトのメッカ http://mil.homeip.net/ の「絵掲」である。
■ 2006.12.10 - A part -「予定」 仕事を辞めてから、次の仕事に就くまでに、結婚に関するできるだけの行事を進行させなくてはならなかった。 とりあえず、依頼されていた「アーカイブ・コンフリクト」(progressiveの同人小説本)の表紙絵を4割完成したところで、以下のスケジュールが開始された。 6月27日:結納のため山形県へ 6月28日:結納して愛知県へもどる 6月29日:新居契約 6月30日:「アーカイブ・コンフリクト」表紙絵締切 7月01日:新居賃貸開始・清掃・引越準備 7月02日:某団体業務参加 7月03日:挿絵作業一日(仕事の後で作業開始) 7月04日:某講義受講 7月05日:引越準備 7月06日:引越 7月07日:某講義受講 7月08日:事実上の挿絵締切(仕事の後で作業開始) 7月09日:新婚旅行第一弾準備 7月10日:新婚旅行第一弾出発 まあ、いつもの突貫スケジュールだと思う。 書店を退いてなかったら一歩も動けなかったろう。
■ 2006.12.10 - B part -「Gガン」 「機動武闘伝Gガンダム」というモノがある。 これがどういうモノかを説明するのに、いろんな例えが有ると思う。 いわく「ガンダムを使った格闘もの」、いわく・・・ああ、一般的にはこれだけか。 だが、ある人が「ガンダムをカレーに例えると」という切り口でこれについて語っていた。ログが残ってないので細部は不確かだが、彼のいわく 「熱ッ! ちょっ、これ熱ッ! 熱すぎてカレーの味なのかよくわからんけど、とにかく熱ッ! それ以前に、これカレーにする必要あったのか不明だけど、うわ熱ッッッつぅ!!」 「脳内派生嘘彼女」の館長さんだったと思う。 これくらい上手く例えた例は、あまり無いと思う。
■ 2006.12.10 - C part -「出発の決意」2006年06月25日 ゆっこさんと、将来のことを話し合った。 正直、ゆっこさんがこんなに凄い女(ひと)だとは思ってなかった。もっと、あやふやなところがある人だと思っていた。 それは、単純であったり純粋であったり頑固であったりするところからくる言動なのかもしれない。だが、話し合いの結果として彼女が示した決意は、原点に愚直であるが故に、熱く、力強く、そして美しかった。 ゆっこさんはすごい。 結婚して家庭を持っていくことを真剣に話し合った今日、それを実感した。自分が挫けそうになったら蹴り飛ばしてでも正しい道に連れ戻して、そして従ってくれるだろう。 以前にもちょっと考えたことだが、今日また確信した。 私の人生を背負わせて潰れない女は、世界中さがしても彼女ひとりしかいない。 彼女と、今日おたがいに語った家庭生活での理想を実現できたら。 ちょっとした確信がある。その実現後に片方が死んだら、きっともう片方も自然に死んでしまうだろう。 これなら。 この女といっしょなら、わたしは全力で生きていける。
■ 2006.12.11 - A part -「正義の剣」 「プラネテス」で、ユーリが若い頃、揺るぎない真理みたいなものを求めていた、という話を読み返したり、アニメで見たりするたびに思う。 それが得られたとき、人間がどうなってしまうか、お前は知らない、と。 それを得るときには、もうひとつの「あるもの」を同時に手に入れなければ、入手者は矛盾を抱えた人間である以上、かならず破綻することになる。「ただ真理であるだけのもの」は、人間には鋭すぎるのだ。何もかもが分かってしまうときの恐ろしさを、お前は知らない。一切の妥協が無く、正しい正しくないが容赦なく分断されるとき、正義のその如くに生きられていない人間にとって、それは恐怖の剣でもあるのだ。「どうすれば正しい道を歩めるか」も真理は示してくれる。だが、それは歩き方だ。歩く力を、歩きたくない魂を歩かせる原動力を、お前はもっているか。いつしか問いかけはユーリにではなく、自分に向いている。「ない」というのが昔の私の答え。「わからん」というのが、いまの自分の答え。ほんとは、真理も「あるもの」もいまは持っている。きっと。「あるもの」が何であるか、わたしはよく分かっている。だがまだ、私は語ることを許されていない。 知は真理を求め、情は愛と美を求め、意は善をもとめる。どれが欠けても、人間は破滅する。
■ 2006.12.11 - B part -「山形結納紀行」2006年06月27日 ※ 携帯にポチポチと入力したテキストをベースに、一部修正して使っております。 ----- 1 ----- 九時半に実家発。 鵜沼から名古屋へ向かい、名古屋でゆっこさんと合流。 静かにはしゃいでる母。 この三人で東海道新幹線に乗り込み、まずは東京へ。 東京駅から14時08分発の「つばさ」で山形へ。いい天気だ。 ゆっこさん、前髪を三編みにしてサイドへ。この時期はよくこの髪型にしてた。基本的におでこを出している感じ。 東北新幹線はちいさい。座席も二人掛け×2だった。車幅が狭いのか、あまりスピードがでない。 ----- 2 ----- 山形駅からの乗換待ちにアイスを食べる。やはり浮かれているらしく母の舌が絶好調でほぼフル回転。親戚筋の秘密大暴露。五親等あたりに及んだところで時刻になったので乗り込む。下校時間なためか高校の軍団と遭遇。なんとか母だけ座らせて目的駅に到着した。 ところで、ゆっこさんの実家に届けた結納品があまりに立派で先方の御両親が仰天したとのことだった。「大切にむかえてくださるんだなあ」と親子で感動してくださったとか。当初の予定ではゆっこさんの実家での結納だったが、あわててホテルの会場をかりたそうだ。でも私の兄の結納の時は、六畳間がまるまる埋まるくらいの結納品が繰り広げられていた。それに比べれば私のは、一〜二畳が埋まる程度のごく簡素なものなのだが、すでに言える雰囲気ではない。嫁入りの派手さでは名古屋、結納の品数の多さとスケールでは岐阜が有名と聞くが・・・ほんとだろうか。 ----- 3 ----- ホテルにチェックイン。ゆっこさんの実家がとってくれたのが、また凄い部屋。六人部屋規模でほとんどお座敷。しかもホテル代は食事コミで支払い済み。恐縮至極である。ゆっこさん呼んで食事。いくらのコースか分からないが料理がいちいち美味い。ここでも母の話が絶好調で私も聞いたことのない親戚の話がゆっこさんにすごいウケている。結納と挙式の話をある程度確認したところで、お父さん(菓子職人)御手製のバースデーケーキが登場。 いま気がついたが、 天野さん、今日って誕生日じゃん! (2006年6月27日当時) ----- 4 ----- 少なくともゆっこさんには言ったことなかったのだが、なぜか私が好きなモンブランのケーキだった。今日が誕生日であることは、先週くらいに一度言われた時も素で忘れていたが、やはり今日も忘れていた。ロウソクに火。消灯して、一気に吹き消す。しかし失敗。ロウソクの火を吹き消すのは意外に難しかった。それにしても、こんなの何十年ぶりか。 モンブランは本格的ですごくうまかった。食べきれない分を、食器を用意してくれたホテルの人に差し上げた。 食事も無事終わって、ゆっこさんをホテルの出口まで送る。 迎えの車を待っている間に、誕生日プレゼントをもらった。 手紙だった。 ----- 5 ----- 手紙には、ゆっこさんの昔のことが書かれていた。彼女自身の嫌なところが書かれていた。彼女の持ち続けてきたコンプレックスが書かれていた。 読んでいて、欠けていたいくつかのピースが埋まった気がした。ゆっこさんという人物のよくわからなかった所が急にはっきりして見えた。 読み進める。 さみしい、という文字があった。 もっと一緒にいたい、という文字があった。 恋、という文字があった。 うれしい、という文字があった。 あなたでないと嫌だ、という文字があった。 どきどきしていた。 どう控え目にみても、ラブレターだった。 生まれて初めてもらった。 ----- 6 ----- ゆっこさんがたまに送ってくるメールや手紙は、私にとって弾丸だ。防ぎようがなく、そして確実に胸をえぐる。今日のもそうだった。後半は全単語が機銃弾だった。おもしろいくらいに命中した。二度と塞がらない穴がガンガン空いた。 明日は結納だが、眠れるだろうか。 ----- 7 ----- 前日から当日にかけて、梅雨時というわりにはいい天気だった。 ゆっこさんの家からお迎えがきて、ご家族と親戚あわせてチャーターしたマイクロバスで移動である。結納の会場は結婚式場を備えたホテルで、両家の「結納式」という形で取りおこなわれた。ゆっこさんの実家にはちゃんと床の間があって、ここで飾らせてもらえればよかったのだが、こちらの結納に誠意を持って応えてくださったようだ。結納式は仲人役のひとが取り仕切ってくださった。誓いの杯や、その場での指輪儀式(何て言うんだろう)(ここで用意したのはエンゲージリング)を行い、金屏風の前で写真を撮った。 その後に食事会。和室なのだが低い椅子とテーブルなので、足の悪い人にも大丈夫。 二日続けて御馳走である。体重が心配だ。 ゆっこさんの甥っ子君は、2月にはムシキングだったが、現在はポケモンがブームらしいのでカードをボックスで購入し、プレゼントした。一方、先回の山形訪問でガンダマーと分かったお義兄さんには、MGのザクを持ってきた。ものすごくウケてた。ちなみにデラーズフリートのアレだ。緑色の方。連邦カラーのザクを私は認めない。 おみやげにひとパック5000円くらいする佐藤錦(サクランボ)を山ほどもらって山形駅へ。 前回もそうだったが、入場券を購入してホームまで来てくださる皆さんである。 この辺、というか全体に言えることだが、天野の実家が商売人の家系であり、こういう気遣いや誠意はほとんど無い。新鮮であり、驚く。わたし自身も、かなり意識しないとこういう行動はできない。 片道7時間。母が体力的に辛そうだったが、どうにか帰ってこられた。 いい結納だったと思う。だが、なんとなく後半のこの文面のテンションの低さからわかると思うが、結納あるいは入籍、そしてゆっこさんの苗字が変わる、といったイベントは、男性の気持ちを真剣にさせる。 いよいよ結婚である。 長かった。婚約期間は長いほど良いというが、いまはそれも実感できる。5年くらいは辛抱してまってみるものだ。 私たちにはまだ、いろんな問題があって、中にはひとりでいたときには絶望するしかなかった案件もいくつかある。 だがそれも、彼女とふたりでなら越えていける。 きっと。 かならず。
■ 2006.12.11 - B part -「山形結納紀行」2006年06月27日 ※ 携帯にポチポチと入力したテキストをベースに、一部修正して使っております。 ----- 1 ----- 九時半に実家発。 鵜沼から名古屋へ向かい、名古屋でゆっこさんと合流。 静かにはしゃいでる母。 この三人で東海道新幹線に乗り込み、まずは東京へ。 東京駅から14時08分発の「つばさ」で山形へ。いい天気だ。 ゆっこさん、前髪を三編みにしてサイドへ。この時期はよくこの髪型にしてた。基本的におでこを出している感じ。 東北新幹線はちいさい。座席も二人掛け×2だった。車幅が狭いのか、あまりスピードがでない。
----- 2 ----- 山形駅からの乗換待ちにアイスを食べる。やはり浮かれているらしく母の舌が絶好調でほぼフル回転。親戚筋の秘密大暴露。五親等あたりに及んだところで時刻になったので乗り込む。下校時間なためか高校の軍団と遭遇。なんとか母だけ座らせて目的駅に到着した。 ところで、ゆっこさんの実家に届けた結納品があまりに立派で先方の御両親が仰天したとのことだった。「大切にむかえてくださるんだなあ」と親子で感動してくださったとか。当初の予定ではゆっこさんの実家での結納だったが、あわててホテルの会場をかりたそうだ。でも私の兄の結納の時は、六畳間がまるまる埋まるくらいの結納品が繰り広げられていた。それに比べれば私のは、一〜二畳が埋まる程度のごく簡素なものなのだが、すでに言える雰囲気ではない。嫁入りの派手さでは名古屋、結納の品数の多さとスケールでは岐阜が有名と聞くが・・・ほんとだろうか。 ----- 3 ----- ホテルにチェックイン。ゆっこさんの実家がとってくれたのが、また凄い部屋。六人部屋規模でほとんどお座敷。しかもホテル代は食事コミで支払い済み。恐縮至極である。ゆっこさん呼んで食事。いくらのコースか分からないが料理がいちいち美味い。ここでも母の話が絶好調で私も聞いたことのない親戚の話がゆっこさんにすごいウケている。結納と挙式の話をある程度確認したところで、お父さん(菓子職人)御手製のバースデーケーキが登場。 いま気がついたが、 天野さん、今日って誕生日じゃん! (2006年6月27日当時) ----- 4 ----- 少なくともゆっこさんには言ったことなかったのだが、なぜか私が好きなモンブランのケーキだった。今日が誕生日であることは、先週くらいに一度言われた時も素で忘れていたが、やはり今日も忘れていた。ロウソクに火。消灯して、一気に吹き消す。しかし失敗。ロウソクの火を吹き消すのは意外に難しかった。それにしても、こんなの何十年ぶりか。 モンブランは本格的ですごくうまかった。食べきれない分を、食器を用意してくれたホテルの人に差し上げた。 食事も無事終わって、ゆっこさんをホテルの出口まで送る。 迎えの車を待っている間に、誕生日プレゼントをもらった。 手紙だった。 ----- 5 ----- 手紙には、ゆっこさんの昔のことが書かれていた。彼女自身の嫌なところが書かれていた。彼女の持ち続けてきたコンプレックスが書かれていた。 読んでいて、欠けていたいくつかのピースが埋まった気がした。ゆっこさんという人物のよくわからなかった所が急にはっきりして見えた。 読み進める。 さみしい、という文字があった。 もっと一緒にいたい、という文字があった。 恋、という文字があった。 うれしい、という文字があった。 あなたでないと嫌だ、という文字があった。 どきどきしていた。 どう控え目にみても、ラブレターだった。 生まれて初めてもらった。 ----- 6 ----- ゆっこさんがたまに送ってくるメールや手紙は、私にとって弾丸だ。防ぎようがなく、そして確実に胸をえぐる。今日のもそうだった。後半は全単語が機銃弾だった。おもしろいくらいに命中した。二度と塞がらない穴がガンガン空いた。 明日は結納だが、眠れるだろうか。 ----- 7 ----- 前日から当日にかけて、梅雨時というわりにはいい天気だった。 ゆっこさんの家からお迎えがきて、ご家族と親戚あわせてチャーターしたマイクロバスで移動である。結納の会場は結婚式場を備えたホテルで、両家の「結納式」という形で取りおこなわれた。ゆっこさんの実家にはちゃんと床の間があって、ここで飾らせてもらえればよかったのだが、こちらの結納に誠意を持って応えてくださったようだ。結納式は仲人役のひとが取り仕切ってくださった。誓いの杯や、その場での指輪儀式(何て言うんだろう)(ここで用意したのはエンゲージリング)を行い、金屏風の前で写真を撮った。 その後に食事会。和室なのだが低い椅子とテーブルなので、足の悪い人にも大丈夫。 二日続けて御馳走である。体重が心配だ。 ゆっこさんの甥っ子君は、2月にはムシキングだったが、現在はポケモンがブームらしいのでカードをボックスで購入し、プレゼントした。一方、先回の山形訪問でガンダマーと分かったお義兄さんには、MGのザクを持ってきた。ものすごくウケてた。ちなみにデラーズフリートのアレだ。緑色の方。連邦カラーのザクを私は認めない。 おみやげにひとパック5000円くらいする佐藤錦(サクランボ)を山ほどもらって山形駅へ。 前回もそうだったが、入場券を購入してホームまで来てくださる皆さんである。 この辺、というか全体に言えることだが、天野の実家が商売人の家系であり、こういう気遣いや誠意はほとんど無い。新鮮であり、驚く。わたし自身も、かなり意識しないとこういう行動はできない。 片道7時間。母が体力的に辛そうだったが、どうにか帰ってこられた。 いい結納だったと思う。だが、なんとなく後半のこの文面のテンションの低さからわかると思うが、結納あるいは入籍、そしてゆっこさんの苗字が変わる、といったイベントは、男性の気持ちを真剣にさせる。 いよいよ結婚である。 長かった。婚約期間は長いほど良いというが、いまはそれも実感できる。5年くらいは辛抱してまってみるものだ。 私たちにはまだ、いろんな問題があって、中にはひとりでいたときには絶望するしかなかった案件もいくつかある。 だがそれも、彼女とふたりでなら越えていける。 きっと。 かならず。
■ 2006.12.11 - C part -「正式であること」 結納は必要かどうか、という話をたまに聞く。 これは必ずやるべきだ。 終わってずいぶん経ったが「正式に挨拶する」ということ、筋を通すということの大切さを、いまも実感している。 「あなたがたが育ててきたこのひとを、とても大切だと思っている」という気持ちがホントなら、やはり形式に思えたとしても、それでも「正式に」したくなるのだ。そして、その重要なひとを育てた人たちに、正式に御礼をしたい。そういう気持ちから、わたしたちは結納に出発した。 別にやらなくてもいいと思う人もいるだろう。だが、それだと「その気持ち」は、先方に確実に伝わる。 先方の両親にも伝わるし、仮に気にしない両親でも、きっとその御先祖に伝わるのだ。墓の中とはいえ、いい気はすまい。そのせいで夫婦関係が難しくなることがある。いや、ホントの話。 これも知人の話だが、結納は無し、ということで結婚式の準備をすすめていたのだが、終わったあとの総経費の支払いの段になって、花嫁が花婿の母親に「結納金がなかったので、7:3でお願いします」と言い放ち、わりと大変な状態になっているという。先祖のことが信じられなければそれでもいい。こういうこともあるのだ。金の話でケチがつくと、リアルにいろいろ大変である。 結納は、正式に、キチンとやっておいた方がいい。 そして、やるからには、心を込めて。 「大好きなこの人を、いままで育ててきてくれたご両家に、感謝と尊敬をこめて」 そんな気持ちで。
■ 2006.12.12 - A part - 「家を建てる」2006年07月03日 ・・・という話が実はあったのだが、ゆっこさんと話し合った結果として、一時凍結となった。 そもそもは、母が存命中に建てると贈与税などが安くなるから、という様な事情が「家を建てる」という話のきっかけだったと思う。 先日は、二人で建設予定地を見に行って、周りの状態や、どこまで建物で、どのへんを駐車場に、どのへんに土をいれて畑に、という話をしてきた。 だが、そこで色々と気づかされることがあったのだ。 ひとつには、あまりに親に頼りすぎなこと。 そしてもうひとつには、現時点で家を持つということが、我々の身の丈にあっていないということだ。 家を建てるということに感じてしまう抵抗は、実はけっこう大きい。身の丈にあわない、分不相応、ほかに言葉をあてるなら「家を建てる(所持する)だけの『徳』がない」というのがしっくりくる。 家賃を払うだけもったいないという考えもある。だが、問題はもっと本質的なところにあるとおもうのだ。 まあ、現時点で建築計画をすすめても、第一子の予想誕生時には当然新築である。壁や床、ガラスなどに暴虐の限りを尽くされることは子供の居ない現時点でも容易に想像できるので、もし建てることになったとしても、その子がある程度の分別がつく年頃になったころだろう。 ただ、家を建ててしまうことで、土地に縛られるのを、わたしたちはあまり好かない。 だから、この話はとうぶん出ないことだろう。
■ 2006.12.12 - B part -「働くということ」2006年07月07日 前職で、退職を決意するちょっと前からずっと考えていたことがある。 一日のうち、通勤時間や休憩を含めて10時間程度拘束される仕事をしているだけなら、よいかもしれない。 だが、これが12時間を超え、14時間を超え、16時間をこえるようになり、やがて、どうやっても14時間のラインを割れなくなったとき。 そして、それ以外の時間、すなわち帰宅後のわずかな時間や、休日を過ごす動機と目的が「仕事のために体力の回復に努める」となり、食事や睡眠の動機までもが仕事を中心とする生活になったとき。 人生=仕事 という図式が成立する。 「イコール」である。趣味に興じたり、仕事以外の何か、あるいは誰かを愛することが「日常ではなく、例外的にしかありえない『ついで』」になる。 人生=仕事、仕事=人生である。 それはつまり、 仕事のやり方=その人の生き方 仕事でやってきたこと=その人の人生そのもの 仕事で得られたこと=その人の人生の結果 となる。 仕事から逃げてばかりであったり、人や社会の役にたたない仕事ばかりであったり、仕事を通しても人間的な成長が得られていなかったりといった、そういう仕事のやり方をしていると、その人の人生は「そういう人生」になってしまうのだ。 先述のとおり、この場合「人生とは何か」と問われれば、イコール仕事である。 では、その仕事=人生は、なにを実現するためにあるのか。 目的自体を明確にしなくては、仕事の意義は見つからない。 実現するものとは何か。 人間は人生において何を実現するためにいるのか。 人生の目的とはなにか。 それは、幸福になることだ。 それ以外にない。 そのひとにとっての、真に幸福な人生を実現する。 そのために必要な訓練や準備は何か。 いまの仕事をその訓練や準備ができるよう取り組むことができれば、仕事=人生の状態は、幸福へとつながる。 仕事が嫌になったら、ここに立ち返ろう。
■ 2006.12.12 - C part -「鉄オタのヨロコビ」2006年07月08日 新婚旅行みたいなものに、三度ほど行くことになっている。 一度目は、海外。韓国の済州島。 二度目は、東京に。 三度目は、愛知県の蒲郡。 しかも、一ヶ月以内にだ。 一度目と二度目は、新婚旅行というよりお勤めというか義務みたいなものだが、それでもゆきこさん(そろそろちゃんと呼ぼうと思うのだ)と飛行機なり電車なりバスなりで長時間ともに移動し、生活をともにするのだから、これは旅行だろう。 さすがにこれだけ動き回ると旅費も問題になる。すると、いかに妥当な料金と時間で移動するか、というのが課題になってくる。 で、ウェブ上の路線案内とかを参考に調べたのだが、これが面白い。 特に、青春18切符(JRで快速以下の全線に終日のりほうだいチケット)の使用を想定して計画しているとき 「あ、行ける・・・!」 と、奇跡のように乗換えが成功して、全部がつながったときの快感というものに、初めて出会った。 鉄オタの皆様が時刻表上での架空の旅に出発して帰ってきたりする話が今まで理解できなかったが、やっとわかった気がする。 とはいえ、いくらなんでも新婚旅行に18切符を使うのはそれはさすがにどうかと思ったので、とりやめた。いや、正確には行きはともかく帰りの電車が18切符ではどうしても終電までに名古屋に帰りつけなかったから、なのだが。 (18切符は7/20ごろから使用可能で、旅行の時期にはちょうどよかった。5枚つづりで11500円なので、二人で往復して、あと一枚は金券ショップに売るという手が使える。だが、片道だけだったらちょっともったいないし、なにより乗換えが7回もあるので宿泊荷物を持った旅行者にはちょっとつらいのだ) 結局、ほぼ同時刻に直行する高速バスがあったので、これを使うことにした。「せっかく乗換えが成功したのに・・・」という気持ちがないではないが、そりゃ時間・料金もそうかわらず直通するバスがあるならそのほうがいい。 最後に予定されている旅行が、新婚旅行のための新婚旅行だ。 もっと早くに行きたかったが、いろいろ事情があってずいぶん遅くなってしまった。(入籍は、7月末〜8月初旬ごろの日のよいときに) このあと、やっと二人でくらしはじめることになる。 予定では、旅行帰りの8月11日から、新婚生活の始まりだ。
絵描きと管理:天野拓美( air@niu.ne.jp )