今回の美術展は、ミレーの三大名画が中心となっているが、副題にもなっている「19世紀のヨーロッパ自然主義」の画家作品も、ここでは数多く展示されている。ミレーにならぶ名画家もたくさんそろっているようだ。
とはいえ、パッと見て、ピンとこない奴はどんどんパスする。ミレーにはことごとく足を止められたが、彼の一画が終わった後は、画家によってはほとんど素通りのときもあった。おかげであっという間にゆっこさんを追い抜く。
こんなところにあるのだから俗に名画と呼ばれるであろう絵を、遠慮なくどんどん飛ばす。その場その場で、ほとんど指さし点検のようなやりかたで、適当に感想だけつけた。
こいつはまた神経質そうな奴だな。
こっちは薄っぺらい見栄っ張りだ。
妄想家でロマンチスト。
悲しい物語が好きな甘ったれ。
ドラマチックな演出とかぜんぜんしないくせに、画家としての地力だけで平凡な風景を芸術にしてしまう力業師で、たぶん生き方自体は不器用。
いい絵を描くが、萌えがわかってない。
あ、でも、こっちのは、きっと萌えがわかってる。
バスティアン=ルパージュに葉鍵系の絵を描かせてみたいなあ。「登校する娘」とかで。
一部を除いて、画家のファンがいたら悪いので、誰の絵とはコメントしないでおく。
こうしてのしのし歩きながらガリガリ書いたメモをリライトしていても、我ながら無茶苦茶なことを言っているとはおもうし、ミレーのときのように調べてみたら見当違いな人物観かもしれない。でも、絵を見るのに頭をつかわず、直感でそう感じ取っただけのことを書いていくのは楽しい。
ただそれだけに「年老いた漁師」をみたときは、震えが走った。
すげえ、天才だ。まず最初にそう思った。なぜ天才かはわからないけど。
「いや、こいつ、絵が上手いなあ」
思わずそう呟く。だが、プレートをみると、「こいつ」というのはピカソだった。ちょっと恥ずかしかったのであわてて口を押さえる。名画展に来てることを完全に忘れていた。
でも後に、この絵を描いたのが、ピカソ13才の時と知って二度ビックリである。たぶん当時これを見た多くの人も、同じように呟いたのかもしれない。
ミレー、ピカソにつづいて、もうひとつ足を止めさせられたのは、ゴッホの「麦藁を束ねる農婦」だった。
なんて悲しくて寂しい絵だろうと思った。この絵に限っては、いままでとはかなり違うベクトルで、絵に釘付けにされた。
描かれている風景も色使いも普通だ。普通にゴッホタッチである。
でも、かなしい。
悲しい情景が描かれているわけではない。ただ、農婦が麦藁を束ねているだけだ。
それでもこの絵は、胸あたりの体温が急激に低下したかと思うくらいに、とても悲しく寂しい。どう考えても悲劇の因子を含んだ題材ではないが、ひと目みたときに強烈な寂寥を感じた。具体的に描かれていないなにか。絵描きの内面が、それこそ伝わってくる感じだった。
こりゃ、かなわんわ。
汗を拭くふりして、ハンカチは口にあてたままである。
声にならない感嘆がもれるからだ。やはり、すごいものは本当にすごい。
「うーん・・・」とうなって、歩を進める。
しかし、比べてその横にある絵の脳天気なこと。
「変な絵ー」と思ってプレートを見ると「変な絵のひと」はゴーギャンだった。
あわてて口をおさえる。名画展に来てることを、もうに忘れていた。
しかし、名前は知られているが、ゴーギャンの絵は正直、どこがどういいのかよくわからない。
絵のセンスの違いというものだろうか。どんな「よい絵」と評価されうるものであろうとも、自分のセンスと共感しないものは、やはり響かないので評価がつかないのだ。別に0点という意味でも、無価値というわけでもなく計算不可能なのである。それが悪いわけではないし、いい人にはいいのだろう。現にゴーギャンは評価を受けている。でもやっぱりわからん。
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共感しない絵は、まるで評価ができないし、よい絵なのかどうかも、実際の所さっぱりわからない、
そういう意味ではミレーは、私の描きたいと思っている世界に、けっこう近いものを愛している人だと思った。逆かもしれないが、なにせ相手が遠すぎて実感がないのでこう記述しておく。
彼の絵には共感する要素が多く、自然と評価も高くなった。でも、やはり100年以上の時間のせいか、方向性が近いわりに、絵に対する感覚がまるで違うのを感じる。
なまじ絵の方向に共感できて近づける分だけ、そこに厳然としてある時代的な感覚の断絶を感じた。いい絵だし、自分の目差すべき方向性に途中までは沿っていると思うが、これはやはり違う。
とはいえ、やっぱりわたしはミレーの絵が好きだ。
たしかに時代的な感覚の格差はあるものの、絵描き個人同士として、私は彼にとてもひかれる。
たとえばミレーの「慈愛 」( 1858 - 1859 )という絵。
この瞬間を「いい」と思った視点がここにある。
母と娘の情景。愛すべきひとときと思ったモチーフ。
しみじみと胸を満たすやすらぎがそこにあったように思える。
この絵に描かれている情景を、143年前のミレーも「いい」と思ったのだ。
館内において、有名な「晩鐘」あたりでは歩みもとまるが、多くの観客は、順路の流れに押されて、この絵をすれ違いざまのように観ていく。いい絵だとは思うが、なにせ小さいし、特に目を引かない当たり前の絵に見えるからだろうか。
だが、行きすぎる観客としてではなく、わたしは、絵描きとして、この絵を描いたミレーとともにこの情景を見る。この絵を描いている彼と、同一化してこの情景をこころに映す。
すると、ミレーがこの絵を描くときに「これがいい」と思った瞬間の感情が実感としてわかる。描くべきモチーフを得たときの感動がかすかにこの絵に残っている。そして絵の中に入り、ミレー視点でこの光景をみているわたしも「いいなあ」と感じる。ほんとうにいいなあ。これを絵にしたいなあ。そう思う。
このシーンを彼は愛した。一番ではないかもしれないが、このシーンを彼は愛したのだ。
絵自体は写実的に、ほんとうにリアルに描かれているが、それでもわかる。正確に写し取る作業のなかで、この瞬間よ、この愛情に満ちたあたたかい空気よ、どうかどうか永遠に続けと祈るように筆をとった彼のその愛情が「慈愛」というこの絵にこめられている。わたしは美術館のこの絵の前に居ながらにして、前を横切る観客の姿を認識しつつも、同時にこの絵のなかに居(お)り、この絵を描いているミレーと同一の視点をもつ。この情景を愛し、彼と同じように筆を動かす。彼の完璧な技術でその愛情は写真以上に写実的な絵となり、気がつくとそこに存在している。いつのまにか、額縁にはいって。
わたしには彼のような技量がないので、どうやってこの絵が生まれたのか、その過程がわからないのがすこし悲しい。
でも、途中までは間違いなく、ミレーと同じものを見、同じものを愛したという、そんな感動。
時間の感覚が喪失したなかで、いつのまにか満たされていた幸福感。
そして、ここにもあった愛情に満ちたあたたかな空気の発見。
慈愛。
ちいさな絵だし、ミレー展ポストカードセットからも外されている、ややマイナーな作品だ。いま見ると他にもよさそうな作品はいくらでもある。
でも、わたしは「慈愛」を、この絵を観て、ちょっと泣いた。
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ミレーは130年前に死んだ人である。(正確には1875年没)
130年ということを考えていて、ふと思ったのだが、描いた当時にどんな色を使っていたのかを、ぜひ知りたいと思った。
使用された絵の具は、経年劣化で基本的に退色しているため、それだけで絵の雰囲気は変わって見えてしまう。ミレーとて、いま目の前にあるような色に描きたかったわけではないだろう。
絵を見ているうちに引き込まれたのだろうか、わたしは、彼らがどんな色の世界をみて、これを描いたのか、おそらくは相当に色あせたであろう絵の表面をみていて知りたくなった。たとえば空の色や大地の色など、現実と比べ、この写実的な絵にどれくらい空想の大きさが割り込んでいるのか、下世話なことだが、知りたくなってきたのである。
この美術館に並ぶ写実主義の絵において、空想の大きさというのは、ごくわずかだ。
ある写実主義作家の絵を見ていて、こいつは根が正直で真面目な小心者なのだと失礼なことを思った。そして、きっと繊細なダメ男だろうな、とも思った。思い切って空想のみの世界に逃げることもできないという意味でだ。
そう思いつつも、わたしは彼らを評価している。
ただ写実的で、本物そっくりで、写真そっくりというただそれだけの絵。こんなのはクソ食らえだと思う。カメラのなかった昔ならともかく、いま絵にする価値はない。
でも、ここにある写実主義絵画のいくつかは、間違いなく写真を越えている。写実的でありながら、写真にはない温度や味があるのだ。
素材が同じでもスパイスによって味が変わるように、画家の筆使い色使いによって絵は変わってくる。
それは、絵を描く動機によって選ばれ、実物の美しさを土台として混ぜられる、かすかな「空想」というスパイスだ。それ次第で、絵は甘くなるしも、辛くもなる。
ミレーのそれは、農人への尊敬と彼らへの負い目、そしてあたたかい敬愛だったのだと思う。
それが、あの絵を、ああいう味に描かせたのではないだろうか。
だが、それも100年を経て、すこしだけ色あせた。
贅沢な話だと思うが、彼による出来立ての絵を味わってみたかったと思う。
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振り返ってみるといろいろ書いたが、絵に対してもった印象は、すべて完璧に勝手な思いこみだ。
私の中に、その絵に対して反応する、共感や拒絶といった要素があってこその出力なので、その絵本来の意味とはだいぶ違うことだろう。
でも、わたしはこういう絵を描く奴は、こういう奴だろうなとおもったのだ。
一連の美術館日記は、ただそれだけのメモである。
だから、なんだこのつまらねえ絵は、と思ったのがゴーギャンだったりするのだ。名画としての評価される要素がどこにあるのか、というかむしろ名画の基準がよくわからないが、素でみてて、やっぱりゴーギャンの良さはサッパリわからねえ。
あらためてゴッホを観ていると、不意に耳が痛くなった。そういえば、彼は自分の耳を切っている。それを思い出したから痛くなったのかどうかはわからない。でも、辛い思いをしているときの胸が苦しく痛む感じではなく、耳から脳髄にかけて鋭利な刃物でえぐり、切り出されるような種類の痛みだった。
順路も最後のほうに来て、だんだんシンクロ率が上がってきているのだろうか。
美術館になら、一日中でもいられるかと思ったが、とんでもなかった。
一周しただけで、こっちが焼き切れるくらいの負荷がかかる。評価しなかったものも、やはり時を経ても価値を失わなかった名画だということだろうか、全体を振り返ってみると、刺激も、流れ込む情報もすごすぎた。
出口に辿り着いた頃には、息が上がっていた。はーはーぜーぜー言ってる変な人に見えたと思う。
出口にある売店で、パンフレットを買っておく。
ゆっこさんがなかなか出てこないので、ぐるっともう一回りしたあと、出口付近で彼女を待つ。
出口では、会場に入ったときに貸し出されていた解説端末が回収されていた。これは、絵に添えられた番号をハンディサイズの端末に入力すると、付属のイヤホンからその解説が流れるという代物だ。他にも、絵の横には描かれた当時の時代背景や、また美術史における意味などが丁寧に説明されたパネルがある。画家や美術の派や歴史に疎い人間でもこれらがあれば安心というわけだ。
まったくもって、クソ食らえである。
絵を見るのに、なぜ頭を使う必要があるだろう。
自分は、どんな技法で描かれた絵なのか、この絵の描かれたのはどんな時代だったのかなど、解説の類は一切よまずに、絵をみてまわった。絵から何かを感じようとするとき、固定観念ほど邪魔なものはないと思ったからだ。
たとえ、その絵から時代背景や画家の意図と違うものを読みとったとしても、それは絵に対する不正解だろうか。そんなことはないと思う。きっと、そこに間違った解釈など、なにひとつありはしないのだ。名画を見る方法に、そもそも正解はない。あっていても外していてもいい。この絵に潜んでいるものに対しては、どうせ私の中にあるものしか、反応しないからだ。優れた絵画は、いろんな境遇を通過してきた人間ほど、情の根底に訴え、様々な感慨を引き出してくれる。直接こころに訴えてくれるなら、それをわざわざ変な情報で狭量にとらえ、屈折させることもない。
「これこれこういう背景で描かれた絵で、こういう意味があります」と言われても、たいていのひとは「ふーん」としか思わないだろう。下手をすると、ものすごく自由な発想ができるひとでも、その解説に捕らわれてしまうかもしれない。こんな馬鹿なことはない。
絵の背景を勉強する必要など、まったくないと思う。よっぽどその絵が好きになって、関連情報が欲しいと思うようになったら、それからでいいのではないか。それに、もし直感で勘違いな解釈をしていても(いや実際しているわけだが)、それで変な文章を書いても、私が恥をかけばすむ程度のことなら、勝手な思いこみをしたほうが、よっぽど楽しいと思うのだ。
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ところで、名画にはついて回る話だが、ときとして美術商をだまし続けるほどの贋作(にせもの)が産まれることがある。形ばかりを同じように真似た絵は物理的に描けるだろう。だが、真贋を極める要素、もしくは贋作でありながら美術商を騙し通すのは、絵にこめられた気迫であるという。鴨川会長がそんなことをおっしゃっていた。
ならば、真贋のほどは美術館を信用するとして、この本物の絵に込められた気迫を、わたしは理解したいと思った。そしてそのためには、自分でこの絵を描いているつもりになって観、この絵を描いた本人になって観、この絵が産まれる過程に立ち会うことだと思った。なにせ、得難い実物が目の前にあるのだ。パンフレットの掲載写真や画像ではぜんっぜん伝わってこない、オリジナルの気迫を感じ取るチャンスだと思った。
そのためにも、何も考えずに絵を見たかったのだ。
なにも考えずに絵をみるというのは、じっさい楽しい。それが名画ならなおさらだ。
絵の良さ、というのは、数値などにできない、はっきりしないパワーである。
それはいわば、ボクサーの強さのようなものだ。ランキングはあるが、パンチ力があるとか、フットワークが軽快だとか、あるいは総合的に実力があるとか言われるだけで、数値的にどう強いかはわからない。でも、強い奴はつよい。そんなかんじだ。そしてボクシングで勝つには、単純に強くなるしかない。伊達さんもそう言っていた。
絵の良さは、それに近い。あとから頭で考えてみても、どうにも解析できない良さが、ある絵にはある。それは絵の地力であり、絵の魅力だ。数値にはできないが、頭で理論的に考えずにみていると、ボンヤリとだが、むしろそれでこそ正確に捉えられる。その絵の強さがわかるのだ。構図や、絵の意味、作家の都合など、頭で考えないでみてこそ、わかる世界がある。そして、この名画展にあったいくつかの絵は、かなりのハードパンチャーだった。解析不能でありながらほとんど打撃に近い衝撃を何発ももらった。はたして、解説端末というシールドをつけていたら、これほどのショックがあっただろうか。
いい刺激を受けられたと思う。どうもうまく言葉に出来ないが、やはり本物の迫力が多少なりとも分かった。
でも、こんないい絵を見せられているのに、よくネットでアマチュアのすごく上手い人のイラストを見て「ああ、こんなうまいひとがいるなら、もう絵を描くのやめようかな・・・」と凹むような感じでないのが不思議だ。
個人的に「絵描き殺し」と言いたくなるくらいに上手い絵師がネット上にはゴロゴロいてよく凹まされるが、名画と呼ばれるものに対しては、なぜかそういう感覚がない。不思議なものである。土俵が違いすぎるのだろうか。
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ボールペンでメモを取っていると、美術館のスタッフに声をかけられ、鉛筆を貸してもらえた。こういうところではボールペンは禁物らしい。美術館には、いろんな決まり事がある。
それにしても、お客さんの大半が、一生懸命に説明を読んでいるのは、正直なところ呆れた。
下手をすると、解説を読んでる時間の方が、絵を見る時間よりも長かったりする。しかも、解説読了後に絵をぱっと見て「ふーん」というくらいの間しかとらず、次の絵・・・ではなく解説に移ったりしている。
まったく本物を目の前にして、なんで解説の方を熱心に見ているのだろうか。観光ホテルなどにある「海が見えるプール」で泳ぐようなものだ。
整然と順路に従い、解説を読むことに頼る人たちの鑑賞法を見ていて、自分の「絵の見方」とはずいぶん違うのを感じる。
彼らは、絵から何かを感じようとする姿勢を最初から放棄してはいまいか。それが一番大切だとおしつけてはいけないと思うが、それでも微かな憤りが湧きでる。それとも、一般的な「絵を見る」という行為は、まず解説を読むことなのだろうか。解説の方をよまれてしまい、主役のはずなのに大切にされなのは、名画の宿命なのだろうか。
そんなことを考えていると、もちろんこれらが大半というわけではなく、むしろごく少数だとおもうが、絵に対する姿勢を象徴する出来事があった。
とても全体の構成など見渡せないくらい絵に近いところまで寄り、いやらしいくらい絵に鼻先を近づけてじっと細部を凝視している人がいる。
この人はなにを見に来たんだろう、と人のことは言えないが美術館で人間観察しながら思った。絵の具のひび割れでも見に来たのだろうか。家に帰ってから「ミレーみてきたけど、やっぱりボロボロだったなあ」とか言うのだろうか。とにかくひび割れが好きで仕方がないんですねおじさんは、と心でツッコミを入れたいくらい、その人は表面の状態にのみ見入っている。絵になにが描かれているのかとかは別にどうでもよいようだ。
しかし遠巻きに見ていても危なっかしい。馴れ馴れしいくらい接近しているので、そのうち指でペリッと絵の具でも剥がしそうな雰囲気にみえる。
美術館司書の人も気を揉むだろうな。
そう思っていると、舐めるように顔を近づけていたおじさんが、その場で
口も押さえずにいきなりクシャミをした。
汁気の多そうな噴射音が、ここまで聞こえてきた。
名画にむかって、飛沫が噴かれた。
よく聞く話だが、あめ玉を舐めながら名画を見ていて、やはりクシャミをしてしまった人がいる。
勢いよく飛び出したそのあめ玉は名画にべったりとくっついてしまったようで大変な問題になった。それ以来だろうか、今回のミレー展でも入り口には、館内でのガム・飴などを禁じる旨のメッセージがあった。
彼らはきっと、こんなことになるなんて思ってなかった、あるいは、うっかりやってしまったミスだと弁解するだろう。
でも、それはきっと違う。
彼らはきっと、実はそもそも名画になど関心はないのではないか。だから、飴玉を舐めながら絵を見ることの危険性などまったく感じない。彼らにとって名画など、単に「あ、オレその絵の本物みたことあるぜー」と誰かに自慢話するためか、ひけらかすことを前提としたお粗末な教養をみにくく上塗りするためか、あるかないかもわからない「自分」を豊かにするために、名画とかいう栄養水を己の魂に注いでいるつもりなのかもしれない。どうみても、その魂には名画とか以前にまず塞ぐべき穴がボコボコと空いていそうなのだが。
全てではないだろうが、美術展の客の何割かは、興味本心冗談半分だと思う。
その証拠に、クシャミのオジサンは、まちがいなく「クシャミのついでに名画を見ていた」からだ。彼にとっては、クシャミの方が名画より優先順位が高いのである。なので、クシャミを手で押さえるなど考えもしない。
そんな人が、いわば、実はそれを愛していない人が、それを愛しに来る。それがこういう所のようだ。
ろくに絵を見ず、解説を一心に読んだり、絵の具の状態にとりあえずの関心を示してみたりする彼らの鑑賞法は、ただのポーズなのではないか。そう思った。
そして名画は、そんな彼らから吐きかけられた唾を、今日も一身にうける。
それも名画の宿命であろう。
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いや、そのおじさんは別になんでもないことのように鼻をすすって順路を進んでいったような気がするのですが、見るのもイヤだったので記憶していませんでした。
でも、考えてみたらボールペンつかってた自分も同罪ですね・・・。反省反省。
読んでる方は長い割りに面白くないだろうなあと思いつつもひっぱってきた美術館ネタだが、これはいちおうデートネタである。
最初に書いたように、ゆっこさんとはいっしょに観たのではなく、別々に、好きなように名画鑑賞をした。これでよかったと思う。そもそも彼女が横にいてあんな感想が出るほどの集中力は、わたしにはない。おかげで思う存分、絵をみることができた。
2000円もする豪華なパンフレット(ほとんど美術書)(これでカバンが重くなった)を購入し、近くの喫茶店に入る。
例によって、ほとんど一方的に絵の感想など述べる私。
自分がなにを感じているのかいまいち言葉に変換するのが苦手であうあう言っているゆっこさん。
それにしても、ふたりで茶を飲むこのひとときが、とても久しぶりに思える。
GW以来なので2ヶ月しか経ってないが、この間をずいぶん長く感じていた。
日記にも書いた、GWにあったひと悶着の話をする。ホームページで大々的に書いたことなどバラしていないので(そんなわけで、夜想曲のことをゆっこさんと考えられる人に教えるの禁止)、「知人夫婦に相談した」とした上で「『ゆっこさんはすごく情の深い人だ』っていわれた」と話す。
「えー」
いくらなんでもそりゃないだろう。
とゆーよーなニュアンスが、かなりの高密度で込められたリアクションだった。ないない、と本人笑って否定。
「それはないでしょ」
「うん、実はわたしもちょっとそう思う」
「ねえ」
「ねえ」
酷いことを書いているなあと思わないでもないが、お互い当然という雰囲気である。こちらとしても、やっぱりそうだったかと思った。ちょっとホッとしたような気もする。
やはりGW日記のときにいただいた某御夫婦からのメール(その内容)にあったように、わたしはゆっこさんのことを何も分かってなくて、今回こそ「ばかばかばか、もう知らない!」というリアクションが見られるかと内心ワクワクしてはいたが、やはりこちらの勘の方が、ある程度は正しかったようだ。
『このわからずやっ! なんて鈍い人なのかしら、私が、こんなにずっと好きだっていうサインを出しているのに、気がつかないで自分ばっかり片思いだと思いこんで!』という御意見もあったわけで、こっちのほうがかなり萌えるのだが、ゆっこさんは、そんなこと微塵も思ってなかったという。これはこれでちょっと寂しい。
某御夫婦さんの推測は、ひとつの未来予測だと思う。だが、たぶんゆっこさんは、そこまで高ぶったところに到達してないだけなのではないか、と考えられた。現状のホントのところは、いま目の前にいるゆっこさんの態度が全てに思える。
彼女はほんとに私を傷つけてきたことを申し訳なく思ってくれていて、ここにきても、木訥なくらいに謝っていた。
GWをきっかけに、二人の関係は大きく変わった。見た目に劇的な変化はないが、いまは不思議なくらいに寂しくない。そして、お互い好きなように開けっぴろげに話ができている。「打ち明けると打ち解ける」というやつだろうか。
二人にとっても強烈な思い出なので、GWのことをいろいろ話す。先の一連の見解に関して、ゆっこさんは否定することが多かった。
だが、彼女はひとつだけ全肯定した。
「うん、ついていくつもりだったよ。最初からずっと」
なにも考えていないような顔で、彼女はさらりと言った。
迷いのない声だった。
「結婚するつもりがなかったら、約束なんてしないよ」
俺は馬鹿だと思った。
「でもどうしても葛藤があった。自分の中に別の自分がいるみたいで」
「そうだね。わたしも結婚が迫ってきて、あれだけしたかったことなのに、なんか恐くなるときがあるし」
「でしょお」
「だねえ」
適当なところで喫茶店を出て、東急ハンズに遊びに行く。
二人の誕生日は、じつはとても近い。星座も血液型も同じで「蟹座のO型」だ。わたしがちょっと前。彼女はちょっと先である。この機会に、天野は使っていた財布が壊れていたので、好きなのを選んで彼女に買ってもらった。こちらも、彼女の選んだバッグを買ってあげる。お互い「選んであげる」という感じではない。でも、それでいいと思う。お互い、親にでも買ってもらったような感じだが、二人にはこれでちょうどいいと思うのだ。目の前で渡すのに、わざわざプレゼント包装してもらったのが、ちょっとワクワクした。
その後、渋谷駅にある「とんかつのまい泉」にいく。
渋谷で生活していたころ、東急百貨店(だったっけ)のアナウンスで、毎日のように「まい泉」の宣伝を聴いていたものの、学生にはちょっと辛い値段だったため、ずっと食べられなかったとんかつだ。10年前の恨みをいまこそ晴らすのだと二人して突撃。とりあえず黒豚を退治する。考えてみればゆっこさんの方は、別に恨みなどなかったが、さすがに美味かった。恨みの旨を店の人に話すと、すごくいい笑顔で笑ってくれた。
たのしいデートだった。
最初こそ緊張したが、普通に、いっしょに空気を吸ってる感じだった。来てよかった。
おまけ
「あのとき、やっぱり分かってた?」
「なになに」
「GWのとき、実は書店に未練があったってこと」
「あー、うーん、どうかなあ」
「分かってくれてたのか、って感動したんだけどなー」
「えー。うぅん。・・・わすれた」
「そうですか・・・。まあ、わたしもメモしてないとすぐ忘れるしな・・・」
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文月さんちにいく。
東京へ行くたびに泊まっているので、現地に婚約者がいるくせに、こっちのほうが現地妻みたいな存在の文月さんの家に、今回もありがたく泊まらせていただいた。(ゆっこさんちは寮だし)
すっかり勝手の知れた文月さんの部屋に、ニューアイテムとして抱き枕を発見する。
しかし、カバーは無地だった。
え? という顔をしていると、勝ち誇ったような声で、文月さんが断言した。
「抱き枕に、絵など必要ないと思うのですよぼくは!」
「え、でもやっぱりこう、美汐さんのビジュアルとかないと・・・」
ちっちっち。
人差し指をワイパーのように左右に揺らし、彼は言った。
「そんなヤワな妄想力ではありませんよ、天野さん」
相変わらず高濃度な男だった。
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百合姉妹
注:
この日記に書いてあることは、ウソです。
文月さんの家から横浜駅に出て、そこから山崎まさよしで有名な桜木町へ行った。
ほかにも桜木町といえば、平成3年にゴジラがブチ壊したランドマークタワーが駅の前にそびえるのでも有名な街である。
今日はこの駅で待ち合わせて、サンフェイスさんとデートだ。
再会を喜び合った後、家族連れや、カップルや、百合カップルや、真性ホモカップルなどがうじゃうじゃいる山下公園を、男二人でのんびり歩く。我々は周りの目にどう映るだろうかとか、片方はヒゲヅラなのでもう決定的ですねとか、いやむしろサンフェイスさんとなら望むところだとか話す。話題はともかく、彼と話しながら散歩するのはなんとも楽しかった。
GWのときにはあまりお話ができなかったので、この度の再会はなにか久しぶりな気がする。一年前に会ったとき以来という感じだ。そして、あのときとの違いと言えば、何と言っても
「ごきげんよう、サンフェイスさん・・・いえ、ゆみすけ」
「ごきげんよう、天野さん・・・いえ、お姉さま」
これである。
思えば、のっけから挨拶がこうだった。このごろのサンフェイスさんのサイトは、完全にマリみて化が進行していて、一年前の面影は皆無に等しい。そして現在、二人はチャットでも「お姉さま」「ゆみすけ」の仲だ。性別とかの委細はともかく、ハマちゃんスーさんの仲みたいなものだと言えよう。(・・・そうか?)
実年齢もひとつ違いとは言え、サンフェイスさんを「ゆみすけ」呼ばわりするのは失礼極まりないとは思う。だが、そこはそれ、冗談の範囲はお互いに心得ているので、日常会話もこれで通した。
「お姉さま、山下公園はいかがですか? はじめてですよね?」
「なかなかよくってよ、ゆみすけ」
この段階でかなり終わっている感もあったが、この日記に書いてあることはあくまでウソなので、おかまいなしにそのまま海沿いを歩く。
視野の彩度がくっきりと上がるほどの快晴であるためか、山下公園には家族連れも多く、幸せを絵に描いたような風景だった。
「核ミサイルでも落ちてきたら、絵になるわね」
「お、おねえさま・・・」
ちょっと見ない間に歪んでしまわれたのかと心配そうなゆみすけである。
でも、つい破滅を夢想してしまうのは、この街全体がどこか偉そうに見えるからだと、あとで思った。
横浜は、どこか街のセンスが違う。神戸や長崎に共通した港町独特のセンスのよさ、というか、どうもちょっとスカした感じがあるので、ついミサイルによる爆破とかに思考が流れてしまった。
ところで、横浜といえば「ポーリン橋」という井上喜久子さんを偲ばせる魅力的なスポット(名前以外なにも知らないけど)があるが、この近辺でいちばん行きたいのは何と言っても中華街である。横浜中華街は、実は10年くらいまえに素通りして以来なので、今回とても楽しみだった。
道程によっては気がつかないうちに中華街入りすることもあるというが、サンフェイスさんの案内のおかげで、ちゃんと門をくぐって街に入ることができた。
それにしても「中華街と言えば愛想の悪い給仕の姉ちゃん」という印象があるがなぜだろうなあ、などど考えながら中国趣味の街を歩き回る。とにかく暑かったので、よく店先でアイスクリームなどを買って食べた。甘栗アイスとチーマーカオが美味である。サンフェイスさんは杏仁豆腐を注文。だが、買い食いしながら美味い美味いとあれこれ食べたせいで、噂になっていたひとつ500円するという豚まんに辿り着いたときには、胃袋が限界で諦めざるをえなかった。今度きたときには必ず食べようと誓う。500円とは高い気もするが、食べる価値は充分にあると思うのだ。中華街の食べ物は総じてやや高めだが、旅先で遊ぶのに金をケチるのはつまらない。ほんとうに欲しいと思ったものは、食べ物でもアイテムでも、ちゃんと買おう。
「そうよね、ゆみすけ」
「まったくですわ、お姉さま」
そういうわけで、チャイナドレスの店に二人で入った。
「お姉さま、このスリットが手で止めたくなるくらい深いとこまでキレ上がったチャイナドレス、きっと似合いますわ。こっちのロンググローブを合わせると、ちょっとどうしたことかと思うくらい萌えましてよ?」
「そう? ゆみすけも、この着たら最後一歩も動けなくなるような丈(たけ)の短いミニチャイナきてごらんなさい。中身ごと麻袋に詰め込んで持ち帰りたくなるくらいかわいくてよ?」
お互いを牽制する姉と妹。でも気になる服があったので、結局、天野が一着を手にとった。試着し、鏡の前に立ってみる。
※ 功夫服の一種。
「どう? 似合うかしら」
「素敵ですわ、お姉さま。まるで二〜三回は死に損なった闇社会の暗殺者みたいによくお似合いです」
「そうかしら、なにか恥ずかしいわ」
「そんなことありません。素手で自然石くらい叩き割れそうなくらい素敵にみえましてよ」
「うふふ。じゃあ、これいただくわ」
ゆみすけに誉めてもらえたので、一着つつんでもらった。ブルース・リー師父の包(ぱお)である。フリーサイズなので体格のいい私でもちゃんと着れる。短髪、グラサン、ヒゲ、そして黒い包(ぱお)。セットで売れるくらいに素敵なコーディネイト。なので、これを着るときにはこの組み合わせにしなくちゃいけないと思う。こうして、どこにも着ていけない服がまた一着ふえてしまった。
※ 包(ぱお)は、ふつうの功夫服とちがい、ロングコートくらいまで丈があるものです。・・・しかし、サンフェイスさんも、ゆっこさんも、よくこんな奴とデートしたよな。
中華街のマップがプリントされた紙袋を抱えて、ホクホクしながら店をでる。
その後、サンフェイスさんの案内で外人墓地ちかくの洋館を見に行った。
横浜は坂が多い、というか傾斜がキツかった。喉も渇くので自販機でジュースを求める。以前にマンデリンさんに薦められた「ゴクリ」を買った。
「あら、すごく美味しいわ」
「そういえば『ゴクリ』は飲んだことありませんわ」
「ゆみすけのも美味しそうね。ちょっと交換しない?」
「はい、お姉さま」
「それっ 間接キスよ! ぶぢゅずちゅるるるっ」
「んもう、お姉さまったら!」
「うふふ、照れることはないわ、ゆみすけ」
この日記にかいてあることはあくまでウソですと誰となく断りつつ「港の見える丘公園」に到着する。
展望台にてしばし休憩。展望台の手すりにつかまっていると、ゆみすけがこんなことを言う。
「おねえさま、とても絵になります」
「あら」
「海と港が背景になってて、まるでイベントCGみたいでしてよ」
「そう? 萌えるかしら?」
その後、かぶりつきで見た広場の大道芸が面白かったので、チップに1000円札を出す。
大道芸ワールドカップのときに感じたことだが、最後の帽子がまわるこのとき、100円玉がたとえば12枚投じられるより、1000円札の1枚の方が、はるかに価値があるように思えた。以来、1000円分くらいに面白いと思ったら、素直に札を出すようにしている。
「まあ、1000円も」
「それくらいは面白かったわ。それに、自分の分相応をわきまえている限りにおいて、遊びや楽しいことにお金を惜しむのは粋ではないのよ、ゆみすけ」
「さすがです、お姉さま」
そういいつつ、さりげなく500円硬貨を差し出してワリカンにしてくれるゆみすけ。
1000円札の意図が伝わっていたのかと思うと、すなおにうれしかった。
休憩を切り上げて、目的の「横浜市イギリス館」へ向かう。正確には「山手111番館」だ。
サンフェイスさんが、以前から紹介したいと言っていた所である。
着いてみて、驚いた。
薔薇の館がそこにあった。
デザインの統一感がステキな築77年の館であるが、それ以上に、これはもうどう見ても、あの、マリみての舞台である「リリアン女学院」の生徒会執務室「薔薇の館」そのものだった。いや、実物などみたことはないし、学生の施設としては豪華すぎるが、それでもこのイメージは、私が勝手に抱いていた山百合会のソレそのものである。周囲が薔薇園になっているあたりも、雰囲気は実にいい。
靴を脱いで、スリッパで館に入る。このあたりのいくつかの洋館は、観光用に解放されているのだ。
それにしても、内装がすばらしい。さすがに築77年だけはあるというか、デザインのセンスにすごく風情がある。欧米文化への憧れみたいな感情以外に、単純にセンスとして素敵だと思う。朝日がたっぷりと取り込める一枚ガラス窓の寝室なども、実に一見の価値ありだ。全室そうだが、このガラスの造りがまたいいのだ。
あちこち歩き回ったが、どこの部屋も素晴らしくいい雰囲気だった。ここになら、山百合会の誰を立たせても絵になる確信があった。もう横浜方面で「マリみてツアー」をやるなら、ぜひ入れたいスポットである。
吹き抜けになっているホールから見上げる2Fの張り出しなど、あのイメージそのままだ。ほんとうに凄い。筆が鈍るからと、カメラを持ってこなかったのが心から悔やまれるほどにピッタリの館だ。あまりにイメージにシンクロしてくるので、ヒロシマの海で身につけたスキルが開花し、あちこちにリリアンの制服が見えだす。「おお、見える見える」と呟きながら、老朽化のために体重制限のある二階廊下をそろそろと歩いた。自分でも変な客だったと思う。
窓から見える、薔薇を中心に構成された庭園には、石造りの東屋みたいなの(なんていうのかな)があって、すごく雰囲気がよかった。ロザリオの授受には最適のロケーションというものである。
「しまったあああ!!」
思わず素で頭をかかえ、天を仰ぐ私。
「どうなさったの、お姉さま!」
冷静なサンフェイスさん。
「こ、こんなことなら中華街でインチキロザリオ(2ヶ)を買っておくんだったわあああ!!」
「お姉さま、何をおっしゃっているんです。わたしたちはもう心と心のロザリオを交換してるじゃないですか」
「ゆみすけ・・・」
「さ、お立ちになって」
「そうね、わたしたちは、去年の夏に・・・。そうだったわね・・・」
この日記がウソかどうかはさておいて。気を取り直し、一階の喫茶店にいく。
館の一部を改装して作られたこの喫茶店は、その半分が庭園に面している。土曜で混んでいたため、眺めのいいそちらには座れなかったが、屋内席も凄くすてきだった。
ウェイトレスは、やはり英国の文化というものだろうか、メイドさんである。
正確には、この日記を見に来るような連中がたいてい頭に思い浮かべているような、まほろさんとかハンドメイドメイとか花右京メイド隊とか大須のコスプレ物語とかゆー感じのアレではなく、ごく質素であり、エマやシャーリーよりも地味な、とても印象の薄い制服である。たとえば「まほろまてぃっく」のまほろさんがガンダムだとするなら、そのままジムのような感じだろうか。ベルトラインから下のみの白いエプロンに、ささやかに膨らんだ肩袖。そして何のポイントもない地味な黒色のワンピースという、ごくごく質素な制服であった。ヘアタイもない。ホントにジムである。
「あら、でもお姉さま、あちらのウェイトレスさん、眼鏡ですわよ」
「ほんとね、MSVかしら。ジムスナイパーと呼んでさしあげましょう」
そのジムスナイパーの運んできてくれたお茶がまた、とても美味だった。
それに、ケーキがまた抜群においしい。チーズケーキは濃厚でありながら、あくまで上品に舌に媚びる。いい薫りのする薔薇のシフォンは、空気だけで作られたようにすごく軽かった。
この館と、窓から見えるこの庭園。この好環境にあって茶が安っぽいわけにはいかない。そういう自覚がちゃんと店にあるのもちょっと感激した。
文月さんが合流できそうな時間になってきたので、名残を惜しみつつ、イギリス館を出る。
この近所は、横浜双葉学園やフェリス女学院大学があり、なんとなくマリみての雰囲気でもあって、駅まであるくのも楽しい。
途中、箱座りで寝ているネコをかわいがったりしながら、サンフェイスさんといっしょに、横浜の坂道をあるいた。
一緒に歩いていて、サンフェイスさんが、今日のこの時間をとても大切に扱ってくれているのが、よくわかる。
だから今日はとてもたのしかった。あれだけ急勾配を歩き回ったのに、いささかも疲れた感じがない。疲労はあるが気持ちよく運動した感覚だった。彼といることに、なんの気兼ねもなかったからだと思う。嬉しい気持ちと、それに満たされた、胸がいたむほどの貴重な記憶。得難く大切なこの一日が、ほんとうにたのしかった。
最初に書いたように、この日記に書いたことはウソである。
ただ、サンフェイスさんと過ごした時間があまりに充実して楽しかったから、そして、それをそのまま書くのがなんとなく惜(お)しかったから、だから「ゆみすけとお姉さま」で誤魔化した。
この日記はウソである。そして、どこまでほんとうかは、わたしと、サンフェイスさんだけが知っている秘密だ。
電車にのったまま、なんとなく、「マリみて100質(マリアさまが見てるファンへの100の質問)」などを勝手に考えた。よしづきさんの「ノワール好きへの100の質問」を思い出して脚色する。
「もし無人島に何かひとつだけもっていけるとしたら、祥子様はなにを持っていくと思いますか?」
「ゆみすけ」
「もし無人島に何かひとつだけもっていけるとしたら、祐巳はなにを持っていくと思いますか?」
「祥子さま」
また、横浜に桜木町に中華街にイギリス館に来ようと思った。そのときも、きっとゆみすけといっしょに。
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美しく終わったような感じの先日分だが、実は、そのままサンフェイスさんとともに、次のオフ会会場へ向かった。
本日は、オフ会のはしごである。というかむしろ一日中オフ会である。
桜木町で文月さんと合流し、近所のバーミヤン(中華料理のファミレス)へ。ここでお会いする予定なのは、MK2さんと、その奥さんのまゆみさんである。
お仕事でいそがしいお二人があらわれたのは、だいたい7時頃。一時間前から陣取っていた我々だが、すでにサンフェイスさんと文月さんはビールで出来上がっていた。
「あー、MK2さんとまゆみさんだー」
「お久しぶりです」
「おお、はじめまして天野です!」
「MK2です。天野さん、立派なヒゲですねえ」
「まゆみさんが『見てみたい』というので生やしてきました! というのは冗談で、サンフェイスさんから洋館下の喫茶店が『男二人ではいると誤解されそう』ときいていたので『なるほど、ホモのハッテン場か』と推察し、あえて生やしてきました! いや、もてるかなーって思ってうははは」酒も入ってないのに天野もできあがっていた。
MK2さんと会うきっかけになったのは、サンフェイスさんが紹介してくれた「どこをさがしてもきみはいない」に、MK2さんが日記でレスを付けてくれたときのことである。その後、何通かのメール交換をし現在に至った。
ところで、このオフのきっかけでもあるのだが、彼の伴侶であるまゆみさんが「ウワサの天野さんを見てみたい」と言っているとメールでうかがった。
思えば、過去の日記でも特徴的だったX(守護月天の某氏)さんや、S(矢島晶子さんの某氏)さんについて語った後にも「見てみたい」という感想がちょこちょこ来ていたものだ。
そう「見てみたい」なのである。
なぜか、「見てみたい」とは言われても「会ってみたい」とは言われないのだ。
ほとんど珍獣あつかいである。
わたしもようやくその部類に入ったのかと感慨深かった。
適当に注文した中華を、適当につつきながら、とりとめもない話をする。
「いや、しかしクラナドいつでるんでしょうなあ」「もうね、なんかいつまでも出ないゲームってことで、都市伝説になりそうですよ」「SFC版の『ああっ女神さま!』が、いつまでもいつまでも発売予定表にのってた時代があったけど、あんな感じになるんかもしれませんね」「大丈夫ですよ、いまも寝食を削るスタッフによってクラナドは作られているはずです!」「いや、それにしてもサンフェイスさんが、ほろ酔いなんて珍しい」「たいてい酒がはいると青くなっちゃうのに」「今日はいいね」「運動したからね」「たのしいし、なによりお姉さまといっしょにいたから」「うふふ、ゆみすけったら」「てへっ」「この日記に書いてあることは嘘です」「サンフェイスさんとラ・ブ・ラ・ブ」「Bee氏がハンカチ噛みしめて悔しがりそうだ」「そうそう、わたし(MK2さん)、Beeさんの日記すきなんですよ、いや、なんかあの雰囲気が」「Beeさんがきいたら喜ぶでしょうね」「ところで、最近よみはじめたんですけど村上春樹の『ノルウェーの森』って純愛小説なんですか? 帯にそう書いてあったけど」「いや、その分類だけは違うと思うな」「関係ないですが、うちのアクセス解析で、最近『バニラコークたん SS』で来る人がいるんですよー」「バニラコークたん、って、炭酸飲料の擬人化ですか?」「おお、じゃあキャラつくってSSかいてよ文月さん」「うーん、でも『バニラコカコーラ』ってイマイチ味が普通だし、個性に欠けるなあ」「キャラはどうでもいいから、まずものすげえ子煩悩な父親がいるって設定で」「ああ」「あれね」「公式サイトにあった、賞讃以外の感情を許さないアンケートね」「たしか飲んだ感想の選択肢が『けっこうイケル』『ハマりそう』『こんな味はじめて!』『友達にも教えたい』しかなかった」「全部の回答の頭に『ある意味』ってつけたい」「だれもが新しい不味さを期待して飲んだのに」「普通の不味さだったね」「でもなぜか、けっこう売れているみたいですよ」「ぬう、普通のひとの考えることはわからんなあ」「最近、極端にまずいジュースが無くて寂しい」「赤メロンソーダとかね」「あれ、むかし近所で110円→100円→60円になって、最後に姿が消えた」「なんで変動相場制なんですか」「そういやバナナウーロン茶(「金魚屋古書店出納帳」より)って、ホントにあるのかな」「ところでバナナ茶はバナナの皮の味がしますね・・・」「緑茶ソーダってのもあったっけ」「しかも無糖」「あれはなんだったんだ」「売り物じゃないけど、麦茶でカルピス割るやつがある」「人呼んで、麦ピス」「もしくはカル茶ー」「舌にものすごく残るんだよね」「ところで天野さん、カレーヨーグルトって知ってます?」「東海地方では比較的メジャーですよ」「そうなんですか?」「いや、わたしの周りだけかもしれないけど」
一見まったりとした会話に見えるが、みなさん出来上がってるせいもあってテンションの方は、実際のところかなり高かった。
MK2さんとまゆみさんはスパスパと煙草を燃している。まゆみさんとはあまり喋られなかったのが、いま思うと残念である。
MK2さんからは「天野さんは、もっと押しの強い人かと思った」と言われた。「うふふ、日記の上ではわかりませんわよ」「天野さん、天野さん」「ああ、すみません。別の地が・・・。でもいまのうちに謝っておこう。何を書くことになるか自分でもわかりませんが、いまのうちに謝罪しておきます。すみませんでした」「・・・書いてないのに過去形なんですか」「天野さんは、そんな酷いことを書くひととも思えませんが」「いやいや、その場では、にっこりわらってるのに後ろから刺したりしますから。いや後ろからってのは、日記のことですが」「あと、サンフェイスさんにも謝っておきます」「は?」「今日のことは、その場にいたのに想像もしなかったような日記に仕上がっていることでしょう。なにせ日記脳がそれなりのギアに入って執筆するわたしのことですから、いまは信用できても、筆の方を信用してはいけません」「はあ」「ところで天野さん、田舎暮らしはどうでした」「いや、最高ですがあるいみ退屈でした」「ほほう」「楽すぎるっていうか、若いときはもっと仕事とかで苦労したいなって思いましたよ」「天野さんはマゾですからね」「そう?」「マゾなのかなあ」「志摩子さまに踏まれたいって言ってるし」「最近だと、素子少佐に手加減無しで背骨を踏み砕かれるのもステキかしらって思うの」「まず『踏まれたい』ですか」「どうしようもないくらい離れた存在を愛してしまったらもう降参するしかないわけですよ」「ううむ、そこだけきくと、そこそこイイ話っぽいんですがねえ」「ところで話はもどりますが『ホモのハッテン場』といえば、某所には、落書きのホモ率がとても高いトイレがありますね」「うわー、見てみたいような入ってはいけないような」「入館するときに『ホントにいいの?』って訊かれるそのスジの映画館とかのトイレかな」「話がやな方向になってきたので方向性を変えますが」「はいはい」「脳内オフ会すごいことになりましたね」「いや、あれ実はちゃんと終わったの初めてだったんですよ」「そうなんですか」「天野さんのおかげで終われた」「というか天野さんいきなり終わらした」「いや、話を聞いたとき、こんな得意な分野ないと思ったから、つい」「ところで、MK2さん。みさき先輩はどうなったんですかあれから」「え・・・。いや、その、ねえ?」「そうそう、帰ったらいよいよアレですよ」「書店の仕事ですか」「ちがいます。鉄騎を買うんですよ!」「そっちかい」「いいですねえ、自分(MK2さん)も、大きくてゴツくて動きまくるの好きですよ」「ガオガイガーとか好きです」「キングジェイダー変形時の、肩関節機構部が収納されるとことか好き」「ブロークンマグナムとかも」「あなたもロケットパンチニストですね、仲良くしましょう」「あと笹本佑一も好きです」「ああ、こういう組み合わせの知人ってけっこういるよなあ」「『星のダンスを見においで』が一番すきです」「あれ、評価たかいですねえ」「わたしは妖精作戦なんですが」「あれ読んでいいなと思った人は、絶対にイリヤ(「イリヤの空、UFOの夏」/電撃文庫・秋山瑞人)も読むべきですよ」「というか『妖精作戦』は20年前のイリヤですよ」「そういうつながりってありますよね」「わたし大学の頃はアニメとかから離れてて、エヴァで戻ってきたんですが」「ああ、わたしも」「で、いまKanonとかにはまっているのって、なんかアレですね。ガンダムでこっちの世界に目覚めたオタクが、『ビューティフルドリーマー』でうる星やつらの潮流にのまれていった構図みたいですね」「なるほど」「じゃあ、そのうち『あ〜る』みたいなのも出てくるのかな」「『妄想戦士ヤマモト』や『辣韮の皮』や『げんしけん』あたりがそうなんじゃないかな」「しかし、天野さん。本屋にもどるとゲームとかやる時間がまたなくなるんじゃないですか?」「いや、かなりキツい時期でも毎日やってましたから大丈夫でしょう」「でも考えてみればよくやってたよなあ」「人間なんとか生きていけるものです」「でもそれも極限状態になるといろいろ変なことをやりだしますよね」「ぼく(文月)なんか追いつめられてくると、仕事以外のことに異様に執着するようになっちゃって」「たとえば何に?」「いや、ネコを追うんですよ」「はい?」「こう、街を歩いてて、ネコがいるじゃないですか。何の気もないふりして歩きながら、いきなりネコに襲いかかるんですよ!」「しかもノーモーションで直角に! 無理矢理からだをねじ曲げて!」「なんかデンプシーロール破り破りみたいですね」「骨とか筋肉とに無茶させて大追跡!」「ネコすごいびびるし!」「気力も体力もないのに、ただネコをなでるためだけに鬼みたいな顔で爆走してネコを追ってましたね、あのころは」「よくやってたといえば、天野さん、あのマクドナルドの話とかすごいですね」「いや、飢えてましたからね」「コンビニの電源かってに持ち出して御飯たいたり」「MK2さんはそういえばコンビニの店長さんでしたね」「・・・・もうしわけありませんでした」「いやいや」「そんなそんな」「実はアレだけじゃないんですが、もうすぐ時効なので黙っておきます・・・」「でもお金が無くて、マクドナルドとかは、もう、しかたがなく・・・」「で、攻撃型ボランティアですか」「たいがい凄い名称だけど」「ボランティアといえば黒柳徹子」「るーるるー、るるるるーるるーるるるるーるーるーるーるるっるー♪」なぜかバーミヤンで「徹子の部屋」のテーマ合唱「CMで『いま、天野さんが飢えています』」「ぢぇーしー(高音)♪」「徹子さんも応援してくれますよ」「うれしいような気もするけどなんかいやだ」「自分でできることは自分でしたいですし」「それでマクドを襲うのはちょっと違うような・・・」「いや、たしかにマクドナルドの店員さんには、悪いことかも、ってチラリと思いましたが」「思いましたが?」「かわいそうだが、わたしのためだ、と!」「うーん」「動機だけはボランティアだ」「いまのそうなのか?」
明日も仕事なMK2さんとまゆみさんが、残念ながら途中で退席する。「名古屋の方に行ったときには、また会いましょう」そう約束して見送った。
初めてあったMK2さんの印象は「謙虚なひと」だった。
自分にできることとできないことが、よく分かっている感じの人物に思える。本人は鬱だ鬱だと言っているが、この世の中でも、正しい大人の部類にはいるとおもう。まあ、そのなかには先のらむださんとかも入っている天野基準なので、社会的な保証の限りではないし、なにがどう正しいのかよくわからないが。
この一年くらいで、日記にかいたり、出会ったりした人は、そこそこイタい人が多い。(いや、なんか酷いことを書いてるなわたしは) でも、いまどきイタくないひとには、会ってもそれほど面白くないと思うのだ。イタいイタいと書いたが、それだけ真面目で、繊細で、なにかを深く愛している人たちなのだとおもう。だから、魅力的なのだ。
たとえばエンターテイメントやテクノロジーの世界でも、現在活躍している人や、面白い生き方をしている人で、なんらかのマニアでなかった人などいないと思う。マニアな人は面白い。そして、マニアなだけでは話にならないが、ひとのこころのことがある程度わかっていて、そして真面目なひととは、つき合っていて安心できる。
そうでないひと、いわば普通のひととは、あまり積極的に、個人的な時間までおつき合いはしたくない。
そして、いまどきの普通の人ほど、面白くない人種はいないと思うのだ。
その後も、文月さん、サンフェイスさん、天野は、しばらくファミレスに残って遊んだ。
それも気がつくと午前様である。思えばサンフェイスさんとも13時間フルタイムでいっしょにいたオフだった。彼を神のようにあがめるBeeさんもハンカチ以下略であろう。そんなことを考えながら、文月さんが終電を逃したことに気がついたころには、深夜1時を楽にまわっていた。先日からの強行軍で、ここまでくるともう「にんげんっておもしろいなああはは」とかいう感想しかでてこない。
気分転換に、夜食がわりの冷やし中華をたのむ。分け合って食べていると、「101」みたいに一本の麺がつながった。
だが、すでに健全な思考能力などドブに捨てた我々にしてみれば、

これにしか見えない。(田中松太郎さん好きです)
「あらうわきはいけませんわおねえさま」「うふふゆみすけったら」「わーたのしそーじゃあぼくつたこさまー」
ここまできて半徹夜の脳味噌でやる「マリみてごっこ」は、奇妙に面白かった。
桜木町の夜はふけていった。
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「天野さんのメモはアレですね、あのMP(マジックポイント)ですね」
「はい?」
「天野さんの『メモをとる』という行動は、すなわち、魔法の詠唱なのです」
「はあ」
「とくにオフ会のときのような、長い長い詠唱で蓄積されたMPは、日記化するときに、まるで突然巨大な魔法陣が出現したかのような衝撃をもって、我々を驚かすわけです」
「ううむ、なるほど」
「その場にいて詠唱されていることがわかっているのに、日記の方よむととんでもなかったりしますからね。これは魔法ですよ」
「じゃあ、このリングメモの記入済みページの厚さが、そのままMPですね」
「おー、わかりやすい」
せいるさんのときにも書いたが、最近はたまに見えないところでメモを取っている。
気心の知れた人には、目の前で書かせてもらったりするが、やはり面と向かって断りもなくメモをとるのは、ちょっと失礼な気がするのだ。
いや、気心が知れてるひとでも目の前でメモすると、過去の学習からか会話がとまってしまうからでもあるのだが。
桜木町の「カプセルホテル都」にて宿泊する。
昼間のうちに旅行荷物だけ預けてチェックインしておいたのだが、このちっこいカプセルホテルの受付にいたおばちゃんがすごく素敵なひとだった。やさしいし、なにか、ここにとまっただけで満足感があるほどにいい感じだ。常連のひとも、このおばちゃんを慕っているようにみえる。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
チェックアウトするときでも、そんな風に言いたい感じだった。
某メイド喫茶では「おかえりなさいませご主人様」とか言ってお迎えするそうだが、そのへんのメイド風情には、ちょっと出せないであろう味が、ここのおばちゃんにはあった。
こっちにきたら、また泊まろうと思う。
最終日。
ヨコハマ買い出し紀行オフ会でおなじみの「三崎口駅」へむかう。
KAZZさん、その相方さん、えるらさんとのオフ会だ。
しかし、ちょっとオフ会というか、旅行のしすぎだとおもう。
岐阜の山中に住んでいるのに、海が珍しくなくなってきてしまった。
前から気になっていた三浦のプロペラ型風力発電施設を見学する。
実は巨大建造物好きでもあるため、モビルスーツくらいに大きな風車がぶんぶん回っているのを下から見上げていると、その迫力にうっとりしてしまう。よく見ると、ブレードの先端はすごい速度で圧力のかかった空気を切っているのがわかって面白い。近くによると風車の大きさが実感できないのが、逆に楽しかった。
ところで昼食をとった三崎口は漁港である。そしてマグロ料理で有名なところだ。なので昼間はどこの店も混む。
空いているという理由で適当にはいった店は、壁面に龍虎のタペストリーや、レーザーカラオケセットなどがあり、かなり持ち崩した感じのする飲み屋風だったが、だされた「漬け(づけ)丼」はすごく美味かった。漁港というのは、どこもこんなにうまい魚が食べられるものなのだろうか。うらやましいことである。
四人で海を見ながら、あるいはファミレスでデザートを食べながら、いろいろ報告する。
田舎暮らしのこと、ゆっこさんのこと、これからの書店のこと。
できれば、応援してくれた関係者には、こうして直接会っていろいろ話をしたかったが、実際にできたのは彼らとくらいだった。このあと渋滞の関係で、えるらさんとは別れてしまったのが残念だったが、ファミレスではちゃんと話ができてよかった。
天野の都合で桜木町まで送ってもらった帰り道に、KAZZさんの相方さんと、漫画の話でもりあがる。
ここ数年の少コミ(小学館の雑誌「少女コミック」)はいったいどうなっているのかとか、他の漫画と明らかに一線の越え方が違うというか、レディコミなみに青少年問題なんですがだいじょうぶなのかとか、これのせいで変な規制がかかったらいやだなあとか、それでも売れているのが情けないとか、そんな話をしているうちに、桜木町についた。
手を振って、車を見送る。
KAZZさんと、相方さんとも、去年の夏以来でちゃんと再会できた。
次はいつ会えるだろう。いつもそうかんがえる。これが最後になるかもしれないと、毎回かんがえる。
でも。
最後だと思ったあとでも、こうしてまた会うことはできているのだ。
だから、我々は、その気にさえなれば、いつでも会うことができるのだと思う。
そう思う。
電車の時間にあわせて休憩し、切符を予約しておいた電車に乗り込む。
持ち帰ったのは、三崎口で買ったマグロの塩辛と、中華街で買った包(ぱお)である。
でも、こんなの街では着れないなあ、どうしようかなあ。
紙袋をごそごそやっていると、「この夜行列車に乗り遅れたお客様のために停車します」とのアナウンスがあった。しばらく電車がとまる。
迷惑な人がいるなあと思っているうちに、件のお客様が乗り込んできたようだ。停車中の静かな客車通路を、騒々しい足音が近づいてくる。
その姿を見てか、夜行列車独特の疲れた空気が、ほんのすこしざわつく。
乗り遅れて夜行列車を止めたのは、四人の若い女性だった。
そして、ひとりはゴスロリで、ひとりはスーツで、ひとりはメイド服で、ひとりは赤いランドセルを背負っていた。四人とも20歳前後くらいだった。
あー、そういえば三連休だしなんかイベントがあったんだろうなあと思う一方、この服装で電車まで止めちゃうんだから、別に包(ぱお)くらい着ても迷惑という点ではまったく問題ないよなあ、とよくわからない理屈を考えながら、わたしは眠りにおちた。
この旅行ではじめて利用した大垣夜光。ある時期の別名をコミケ列車。
日本で最も痛ましい路線と言われる年二回のオマツリ時期の「ムーンライトながら」は、そのすじでは有名な交通手段である。
しかし、単発的なイベントがあった日にも、これはこれでイタい列車のようだった。
今回も、無事に帰ることが出来ました。
絵描きと管理:天野拓美(
air@asuka.niu.ne.jp
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