990531mon


5月の日記をふりかえる。

あまりの濃さに少しめまいがした。




990530holy


棚卸しがあった。
年に一度、決算のために、店内の在庫金額を計算する業務だ。

書籍に関しては、業者に依頼するので、それほど大変ではない。ただ、閉店後から翌朝に行うため、ずっと店長がついていなくてはいけない。
そのことを話すと、社員の一人が「じゃあ、出勤は遅くてもいいですよ」と、涙が出るようなことを言ってくれる。充分な睡眠をとって、棚卸しに臨んだ。

とはいえ、作業自体は業者がやるため、私は自分の仕事をしながら、たまに書籍の分類について相談を受けるくらいだった。休憩をとりつつ、日記などもついでに書く。

今日一日を振り返るとき、仕事での辛いこと、大変なことばかり思い出すこともある。
だが、必死に思い出さなければ見つけられないような「今日の面白かったこと、ほっとしたこと」こそ、日記に書く価値があると思う。

苦しいことに埋もれてしまう、楽しい思い出を、ちゃんと掘り返すのだ。

日記には、後から懐かしむためだけでなく、そういう大きな意味もあると思う。




990529sat


井上喜久子のCDを聞く。
ラジオのように、トークを中心にしたCDだ。

そのなかで、リスナーの葉書をもとに、即興で歌をつくるという企画があった。

今回は「ウナギと仲良くなるための歌」だった。なんとなく、CDの全体像がつかめると思う。

ところが、歌の趣旨を、歌っている途中で忘れたらしく、歌詞の最後で「ウナギはー、とっても不思ー議な、生き物だーけど、食べると美味しいよ♪」と歌われている。



日本中から

「友達だったのでは・・・?」

という突っ込みが聞こえてくるような気がした。

プロデューサーが頭を抱えているのが、目に浮かんだ。




990528fri


井上喜久子のCDを聞く。
ラジオのように、トークを中心にしたCDだ。

そのなかで、フルーツパフェを作って食べる、という企画があった。お料理教室のような解説をしながら、くだんのパフェが出来上がった。

食べている。

CDの中で、井上喜久子がパフェを食べている。



無言である。



たまに食器がカチャカチャいったり「んふふ」とか「おいしー」とか呟くだけで、CDでありながら、聞き手に何もアプローチしない時間が続く。
ほとんど放送事故である。

一分ほどの不思議な時間が過ぎた後、さすがにまずいとおもったのか、こんな発言があった。

「あ、ごめんね。そうよね、喋らなくちゃ。あ、でも、ちょっとだけ、皆さんごめんなさい。瞑想とかしていてくれますか? わたしが食べてるあいだ。ごめんね。そうだな、じゃあ、自分の未来について瞑想なんて、しててください」

プロデューサーが頭を抱えているのが、目に浮かんだ。




990527thu


角川書店という、出版社がある。
今日は、そこの企画説明会に行ってきた。中部地方の、250人ほどの書店関係者が集まっている。

そうそうたる顔ぶれだ。
私のように最前線にいる店長職のひとは、あまり来ない。おもに経営幹部が出席している。
書店の規模や売上、知名度、実績などでは、比べるべくもないが、本とお客様を愛する気持ちという点では、自分はこの中で何番目なのだろうか、とおもう。

その条件でも、私は決して上位にありはしないだろう。

中部には、まだまだ凄い本屋が、たくさんあるのだ。




990526wed


この世の中に存在するあらゆる物事は、三つの事柄に分類することができる。

井上喜久子に関係のあるもの

井上喜久子に関係のないもの

井上喜久子



こ、
これで世界が括(くく)れるほど重傷ではないが、もしこうなったら、かなりやばいな、という自覚はある。
自覚がなくなったら、もうダメだろう。

久しぶりに「魔女の宅急便」を見た。7年ぶりくらいだろうか。
不意に井上喜久子の声が出てきて、死ぬほど驚く。ファッションデザイナーのきれいなお姉さんの声をあてていた。

キャリアのある芸能人にハマると、こういうことがあって面白い。
ビデオを見ながら、上述のようなことをふと思った。




990525tue


3DCGというCGの分野がある。
私は、興味はあるが、まだその分野に踏み込めないでいる。
柔らかくて、暖かいものを描きたい(描けているとはいえない)私としては、今の3DCGは、ツールとして使えないと思っていた。

3DCGには、とにかく不自然さがつきまとっていた。肌の継ぎ目が目立ち、荒いポリゴンが、いかにも「作ってます」という感じで嫌だった。そして冷たく感じるのだ。

ところが今日発売になった「バーチャルビューティー」のサファイア編を見て、考えが変わる。
タイトルから見てもわかるように、3DCGで美少女(この呼称も、たいがい恥ずかしいが)を作る本である。この中で、「絵」として通用する美しさの3DCGが作られているのだ。正直、ここまで来たか、と驚いた。

G3のパワーマックを購入したら、一度、Shade を使ってみたいと思う。




990524mon


井上喜久子のDVDが販売していた。
4500円である。
しかし、我が家にはDVDを再生できるハードはない。
たとえこれを購入しても、見ることはできないのだ。こればかりは根性でどうこうできる問題ではない。

私は以前、ザンボット3のLDが出たときに、デッキも持っていないのに、ボックスで購入してしまった前科がある。「とにかく買っておこう。あとは根性で観る!」というくらい欲しかったのだが、結局、再生するまでにずいぶん時間がかかってしまった。

いまは金銭的にも余裕が少ない。購入はあきらめて、帰宅する。

少しだけ、自分の井上喜久子熱が下がったような気がした。

ところが帰りの車中で、DVDプレーヤー搭載のG3パワーマックの購入を本気で考えている自分に気がつく。

症状は、依然として進行中のようだ。




990523holy


バイクに、ひどい乗り方をしている人を、ときどき見かける。
深夜の、しかも住宅街で、むやみに排気音を大きく改造したバイクを蛇行させ、あまつさえ、その排気音で「チューリップ(さーいたー、さーいたー、チューリップーのー花が〜)」や、いまどき「ゴッドファーザー・愛のテーマ」をクラッチワークで音階までつけて奏でるなど、彼らの行動は、目に耳に余るものがある。

上半身裸で、カウルの割れている盗んできたよーなスクーターに二人乗りして、後ろに車がたくさん詰まっているというのに、偏執狂的に蛇行運転をする、ノーヘルの若者たちもいた。
対向車線から顔は見ることができた。笑顔ではあるが、むしろ焦りやムカつきのようなものも感じられる表情だった。



ふと、むかしチェッカーズが歌っていた歌を思い出す。

仲間がバイクで死んだのさー。とってもいい奴だったのにー。

彼も仲間内では「いい奴」なんだろうなと思う。だがあんな乗り方では、いつ死んでもおかしくない。


春になって、街にバイカーがふえる。
その多くは、キチンとした乗り手だ。だが、彼らと、先の若者の区別が付くようになったのは、残念ながらバイクに乗るようになってからだった。




990522sat


この寝言日記は、その時期に、私が考えていたことの記録である。
従って、出来事などは、あまり重要ではない。

よその日記や文芸関係のサイトなどを回るなか、文章を書くことを趣味としている(または職業としている)人たちを見ていて思うことがある。
文章を書くことで、ひとは、自分がいま生きて、何かを感じていることを必死に確認しているようだ。

生きていることを確認するために、人間は日記などの文章を書く。

だから「プロにならなければ、文章能力を磨く必要はない」などと言うことはない。

けっして、ない。




990521fri


誤変換という現象がある。
ワープロ機能が、変に気を利かせて、誤った漢字変換を行ってしまうことだ。
最近まで単語登録を怠けていたので、うちのパソコンではよくあった。

「宝くじ」を変換しようとしたら「多空くじ」と出す。
「経済波及効果」とやれば「経済は急降下」と出たりする。

このパソコンは、なにか分かってやっているんじゃないか。
そう感じもする。

「無所属」の変換が「務所族」
「内閣総理大臣」が「無いか糞売り大臣」
「引火温度」が「インカ音頭」

なんだか、楽しそうだ。

「おみやげ期待してます」が「お宮撃退してます」

撃退してどうする。

仕事の書類を作っているときも「キている異臭」は、実は「規程類集」なんてことがあるし、「諸経費」は「処刑日」

このパソコンは、うちの会社に恨みでもあったのだろうか。

「使用停止」が「死よ撃て医師」、「鼻水も出る」が「鼻水モデル」さらに「つまり遠足だ」が「妻離縁即だ」おまけに「今だけの苦しみ」が「未だ毛の苦しみ」だとー?

なにか、こう、パソコンの中に、世を恨んだ霊でも入っているような気さえする。

そのひとは多分、景気が回復しないため事業に失敗し、奥さんともわかれ、宝くじは全部はずれ、お金に困ってお宮を襲撃し、医師を撃ち殺し、死体の臭いから足がついて刑務所に入り、いつ処刑されるかというストレスで髪が薄くなった、鼻汁の美しい、もと内閣総理大臣なのだろう。趣味はインカ音頭を踊ることだ。きっとそうだそうにちがいない。

「礼拝堂」と打とうとすると「霊は移動」になるあたりいよいよである。

ほら、言ってる端から「埋蔵金」が「マイ雑巾」、「マスカレード」が「増すカレー度」、「見に来てください」が「ミニ着てください」、「ちぎっては投げ」が「ちぎって鼻毛」に・・・・。

(APM vol.6 より抜粋)




990520thu


「ヨコハマ買い出し紀行」の芦奈野ひとし氏が、2ページほど漫画を描いていたので「逮捕しちゃうぞ プライベート・ファイル M&N 」を購入する。
一応、5/20日発売だ。ノベルズなので、気軽に立ち読みできると思う。

芦奈野さんは「逮捕しちゃうぞ」原作者の藤島康介氏のアシスタントをしていたこともあるそうだ。
同人誌も作っていたし、いまも作っているらしい(しかもヨコハマの)。結婚もしてらっしゃるとか。(すべて未確認)

ところで、私は、この人がヨコハマ以外の漫画を描いているのを見たのは、実にはじめてである。(CDブックレットの4コマは別にして)感想は

「舞台が現代の墨東署で、みゆきとなつみでも、ヨコハマにみえる・・・」

だった。

あらためて、ヨコハマ買い出し紀行は、設定や演出であの雰囲気を出しているのではなく、芦奈野氏が漫画を描くと、もう、とにかく「あの雰囲気」になってしまうのだ、とわかった。
「あの雰囲気」をナチュラルに、しかも強力に打ち出すためには、「ヨコハマ」という設定は最適に思える。
氏が、たとえ「デビルマン」や「ナニワ金融道」を描いても、ヨコハマになってしまうかもしれない。(想像できないが)

「逮捕」のノベルズには、アフタヌーン系の漫画家さんが多数寄稿しており、けっこう見物だった。沙村さんとか、すごい。




990519wed


今日は、エメラルダスの睫毛なみの・・・いや、なんでもない。

5月22日に、ハーメルンのバイオリン弾きの28巻が出る。
連載を追いかけている人はご承知のことと思うが、たぶん、オカリナの話が収録されることだろう。

そこでオカリナの絵を久々に描いた。現時点では、ハーメルンのキャラクターの中でも、最も好きなキャラクターなので、もう、美化が凄い凄い。

ところで、オカリナの腰についているエプロンのような前掛けは、いったい何と呼称するのだろう。

「ふんどし」

という説が個人的には有力だが、絶対にそうは呼びたくない。絵はできたが、この呼称が判然としないため、解説の方が進まず、苦労している。原作者の渡辺先生に聞いても、たぶんご本人も分かっていないだろう。ファンタジーの世界ではたまに見るデザインなので、知っている方は、ぜひ偉そうに教えてください。




990518tue


鼻毛を抜いた。
一本だけ、とにかく長く伸びていたのだ。

抜いた本人が、しばし目を奪われるほど長い鼻毛だった。どれくらい長いかというと

「メーテルの睫毛(まつげ)なみ」

である。実に、ものすごく長いことが、よくわかっていただけると思う。

メーテルの睫毛といえば、マッチ棒どころか、菜ばしくらい乗ってしまうのではないかと思うほど、強靱なコシを持っている。髪の毛がかかっても、スチールウールのような睫毛はビクともしない。

しげしげと、抜いた鼻毛を見つめながら、メーテルの睫毛は、鼻毛を移植したものなのではないか、という仮説を立ててみたが、なんだか悲しくなったので考えるのを止める。

忙しい仕事の合間の、ひとときだった。




990517mon


ネット上で、私はよく女性に間違われることがある。
女性的な画風のためか、あるいはチャットでの会話が、丁寧だったためだろうか。

日記に自分のことを、いろいろ書くようになってから、この手の誤解も少なくなったようだが、今日、最近まで、チャットの知人に「主婦」だと思われていたとゆーことが発覚し、ショックを受けた。

困ったものである。いったい私のどこをみて主婦だというのか。あたしはこれでも28才の男性ですよ。ほほほほほ。おほほほほほ。おほほほほほほほほほほほほほほほほほほ。あらやだ、お鍋が吹いてる。




990516holy


いまさらと思う方も多かろうが、いまさら「プリンセス・ーカーゆめみる妖精」をやる。
(今日の日記は記録的に長いので、プリメを知らない人には苦痛かと思うが、遠慮なくすすめる。)
プリメは、妖精の女王から預かった娘を、プレイヤーがその父となり、八年間そだてあげるというゲームだ。

まず娘の名前をつける段階で「キクコ・イノウエ」とつけたくなる衝動に、かろうじて打ち勝つ。とりいそぎ「カチュア・イシカワ」と名付けた。はずみである。意味はない。

ゲームがはじまると、会話を楽しんだり、スケジュール管理をして、時をすごしていく。
ゲーム中、音声入力などないことを十分承知しながらも、

「おとうさん、おはよう」といわれると

「うん♪ おはよう」と口で答える自分がいた。ゲーム時間一年目で、既にハマっているのを客観的に感じる。

名前が気に入らなかったのか、カチュアは最初、ちょっとすねたような顔をしていた。それでもじゅうぶん愛らしいので、「カチュアはかわいいなあ」などと、べた褒めの状態で数年を過ごす。

すねた表情=非行化なのだと気がついたのは、アルバイトに行った先で、断られたときだ。「ちゃんとした子でないと任せられない」と言われ「うちの娘のどこがですか!!」と半ば本気でゲーム画面に食いつく。だが、このままでは、鉱山や、酒場などしか働き口がない。事実を認め、教会へ通うようになってから、素直ないい子になってきた。だが、この娘はもともと良い子だったのだ。ただ、名前のせいでひねくれていただけさ、と、名前はステータスやパラメータに影響しないことを知った上でも、そう納得する。親ばかである。

四年ほど経った頃、カチュアは、とにかく良い子になった。
よく働くし、誕生日にちょっと厳しいことを言ってやると「私、きびしいお父さんも好きだよ」という。言われた方は、もうメロメロである。

この頃には、子守のアルバイトも、できるようになった。
人気があるようで、子供に「お姉ちゃん、大好き」とか言われるのを我がことのように喜ぶ。
「どこが好き?」ときくカチュアに「お姉ちゃん、綺麗だから」と子供は言っている。
「この子供は、本当に嘘がつけないね」と感心する。

ステータスは、かなり良かった。知力もセンスも気だてもモラルも気力も気品も良好で、おまけに鉱山でツルハシをかついでネコ車を転がしていただけあって、腕っ節も必要以上に強い。並の男では歯が立たないくらいだ。

汗ばむ手にラブレターを握りしめて交際を申し込んできた学生がいたが、父親との信頼数値も高いため、カチュアはまったく動じない。
とにかく信頼関係があるのだ。このくらい信頼しあっている状態の父娘のなかに割って入れるような男はいない。

さらに魅力のパラメータも充分ある上に、バスト93である。「胸が重いから肩がこっちゃうの。お父さん、もんで♪ 」という娘の肩を大喜びで揉む。信頼があるので、それでカチュアのストレスもなくなる。

後半くらいから、もう何の文句もない状態になった。習い事もひととおりやったし、お金もそこそこある。
その時、わたしはこの娘には、必要な点がまだあると考えた。



まずはパラメータにないが「根性」である。
たとえ王女(プリンセス)になるにしても根性は必要だ。だが、このゲームに根性という概念は存在しない。不眠不休でどこまで働き続けられるか、という条件を勝手に設定し、娘を、朝は鉱山、昼は市場、夜は酒場と、血の小便がでるまで働かせる。見ていることしかできないこちらは、とても辛い。だが、いまこれを乗り切れば、何ものにも代え難い(ていうかパラメータ自体が存在しないが)根性が身に付くのだ。涙を飲んで、ストレスをため続けていく娘を見守る。

ところが土木工事などで鍛えたスタミナは、無尽蔵かと思うほど横溢していおり、結局カチュアは、夏のバカンスまで約半年間、働き抜いてしまった。この子はヒトの子ではないと、確信する。(だから妖精の子供だって)


そして、もう一つ、気になることがあった。この子は、できすぎなほど良い子に育ったが、それを生かせる天命に出会っていない。将来の道が決まっていないのだ。

いろいろ考えた結果「根性のある音楽家」という道に決定する。

いざ、音楽学校に通わせようと思った矢先、とつぜん所持金が底を洗った。

そんな馬鹿な。

血を見るまで働いたのに、なぜだ。

不条理な怒りを感じながらも、娘の収入でバニーガールのコスチューム(しかもストッキングはシームレス)などを調子に乗って買いまくったのがいけなかったのだろうかと、反省もする。

そういえば、お金がたまると服を買っていた。誕生日がくると、少しづつ容姿も変わるので、そのたびに、大喜びで持っている服を全部着替えさせたりした。

親ばかである。

だが、この子のために親が馬鹿にならないで、だれがなるか



とにかく、うちは貧乏になった。
娘がマクドナルドやドーナツの残飯をあさったり、電気を止められてコンビニの看板の電気を拝借して御飯を炊いたりしないかと、心配になるが、そんな親の不安をよそに、カチュアは働きだした。

できれば働きながらでも、音楽の才能がのばせる仕事がよい。
センスというパラメータがあがる大工の仕事を、中心的にさせる。うっかり飯場にバニーガールの格好で出勤させたりしてしまったが、カチュアは、なんとかお金をためつつあった。

そんなある日、娘が「欲しいものがあるの」という。なにかと聞いてみたら、「10Gの靴下がほしい」という。
あまりの貧しさといじらしさに目頭が熱くなる。遊びたい盛りの、16才の女の子が、靴下が欲しい、というのだ。うちは靴下も買えないような経済状態だったのかと、悲しくなる反面、堅実な良い娘を持ったと感動した。

八年間すごしてきて、最後の私の誕生日(※6/27 プレゼントは前後六ヶ月間受付中)に、このド赤貧の状況で、「お父さん、誕生日おめでとう」と、ハーモニカをプレゼントされる。涙でゲーム画面がくもる。

娘は18才になった。ゲーム上では、あと数日で成人となり、親元を離れることになる。
たぶん最後のおねだりになるだろう。カチュアは「ぬいぐるみが欲しい」という。

たとえ借金をしてでも、いままでは欲しいと言うものを買い与えていたが、最後のこのときは「だーめ」と断った。手が震えた。娘は、ちょっと残念そうに「はーい」と答える。

この娘は、自分の元をはなれていくのだ。
そして自分一人で生活していくことを憶えなければならない。
自分に縛り付けるようなことはすまい。
あと数日で、この娘の進路、新たな人生が決まる。
親としては、この子が好きな音楽を充分学ばせてあげられた。
ゲームがデータで判断する未来だが、どんな結果がでてもいいさ。

私は、一呼吸おいて、おだやかに、決定ボタンをおした。





娘は大工になってしまった。

どんな結果がでても・・・とは思っていたが、せめて酒場で歌を歌うとか想像していただけに、ショックだった。
音楽学校へ通うお金を捻出するためにさせていた大工仕事で、人生の道を見つけてしまったらしい。
いさましく釘をくわえて玄翁をふりかざす姿を、なかば呆然とみつめる。

しかし、すぐに思い直した。
たとえ、どんな道であろうとも、生きて成人してくれたことは、それでも、とても嬉しい。
こうして、娘が生きているということだけでも、感謝すべきことだ。

額に汗かき労働する娘を見ながら「こんなに立派になって・・・」と、わたしは涙声で呟いていた。




990515sat


NATOによる空爆の報道が、連日のようにある。
そして、つきものなのが誤爆とデモの報道だ。

デモをする学生は「戦争は悪」と考える。戦争で多くの人が死んだとなれば、正義感に燃え反対運動を起こす。正義の側にくみしている彼らは「気持ちがいい」はずだ。気持ちよく大使館の窓ガラスをぶち破り、気持ちよく生卵を人に投げつける。大便を投げる学生もいたようだ。気持ちよかったのだろう。

とにかく戦争は悪なので、立ち上がって、やめさせなければならない。
彼らはそう思う。

もしデモ学生が勝利をおさめ、空爆が廃止されたら、彼らは達成感と満足を得て、このデモ活動を終了させるだろう。
空爆のされなくなったユーゴ、コソボで、その後なにが起きようとも、たぶん彼らの知ったことではない。たいしたデモは起こらないだろう。学生たちは、いい思い出を胸に就職するのだ。


かつてベトナムで戦争があった。
ベトナムの共産化を阻止するためにはじまった戦争だったが、合衆国側の死者が20万人(うろおぼえ)も出たこと、戦争反対運動の激化、大統領の妻と娘が「世界一、人殺しの好きな男の妻と娘」と、陰湿にいじめ抜かれたこと等により、アメリカ大統領はベトナムから手を引き、この戦争は終わった。

そして共産化されたベトナムでは、共産主義にもとづき、300万人が粛正された。

この事実は、それほど知られていないらしい。デモは少なかった。



学生の正義は単純だ。

彼らは分かりやすい悪とでなければ、闘えない。

そして、決して責任をとらない。やったら、やりっぱなしである。

私が悪魔だったら、世界平和のために本当の意味で尽力している人間の足を引っ張るために、デモ学生を使う。
彼らは純粋で、護るべき弱者であり、本質的には問題意識の高い善人なのだが、政治的には無能力者である。世界平和を真剣に考えている人間は、志において彼らを理解できるため、単純に非難できないが、学生は狂ったように破壊的なデモ活動を行ってくれる。

まったく、優秀な兵隊である。

テレビを見ていて、そう思った。
コソボ紛争の終結には、まだ時間がかかりそうである。




990514fri


いまごろバイオハザード(しかも1)をはじめる。
中古のゲーム屋で、1980円ほどになっており、お得だったのだ。
最近はあまり新しいゲームをしていないので、昔のゲームでも、安価に充分楽しめる。ゲームずれしていないというのは、素晴らしいことだ。

バイオハザードに関しては、

「夜中に電気を消してやると、座り小便をするほど怖いぞ」

とずいぶん前にプレイした友人に聞いたことがある。

小型のプロジェクターで、ゲーム画面を、1メートル×1.5メートルほどのスクリーンに投影し、密閉式のヘッドホンをかけ、部屋を真っ暗にした上に、どこからでもゾンビが侵入できるように(笑)部屋中の窓とドアを開けた。兄か誰かが音もなく部屋に入ってきて「何をしてるの?」と肩でも叩こうものなら、思いっきり悲鳴を上げるかもしれないとワクワクしつつ、考えつく限りの演出をほどこして、バイオハザードの世界に突入する。

そんなわけで、昨夜わたしは、二度ほど悲鳴を上げた。




990513thu


書店、それは誰もが憧れる神秘と混沌の世界。
あんた気は確かかと思うくらい、短いスカートをはいた女性のお客様をみた。
パレオタイプで、フロントにスリットが入っているところなど、正気の沙汰とも思えない。

あきれながら彼女を見ていたとき、同時に私の脳裏にひらめくものがあった。
それが何かは判然としなかったが、ミニスカへの嫌悪からか「ロングスカート」という概念だけが、残った。



その数刻後。

「あ、きたきたきた・・・」と小さな声で呟きながら、わたしはメモ帳をポケットから取り出してうずくまった。
絵のネタが与えられるように浮かぶので「天使が降りる」と勝手に呼んでいる現象だ。
仕事に集中するなど、公的な立場に没頭していたり、話していてリラックスできる人といるとき、あるいは風呂やトイレなどでよく起こる。

突然、ほとんど何の前ぶれもなしに、頭に絵が浮かぶのだ。それは実際おそろしく鮮明で、人物のポーズや背景、あるいは小物までキッチリそろっている。とっさにメモをとるが、その場で描き止められるのは、ほんの50%ほどでしかない。あれほど鮮明に映し出された脳裏の映像は、ほんの数秒で消えてしまう。

あとは仕方がなく、すこしでもその感じに近くするように描いていくだけだが、けっして100%復元できるものではない。残念だ。(これと似たようなことを、漫画家のSUEZEN さんも、「マリンカラー」(角川書店)で書いていたっけ)

だが今日の「天使降り」はちょっと違った。昼頃あった現象なのに、深夜となった今でも、ちゃんと絵が頭に残っている。人物はベルダンディー。絵の中で彼女は、地を這うようなロングスカートをはいていた。




990512wed


世界には男と女、この二つのセックスしかない。
そして時に「男は馬鹿だ」
あるいは、「女は馬鹿だ」という話を聞く。

「男が馬鹿なのか、女が馬鹿なのか」

答えは簡単。
ただ、馬鹿な人間がいるだけなのだ。

たまたま、その馬鹿が男であったり、女であったりするに過ぎない。
彼らが、男のやりやすい間違いをおかし、あるいは女のやりやすい間違いをおかす。
それを見た人の中で、男の株が下がったり、女の株が下がるのだ。まあ、ひいきもあるし、理解しがたいということもあって、たいがい異性を馬鹿にする事が多い。

実際には、ただ、馬鹿な人がいるだけ。
という、この答えを自然に感じられるのは、わたしが、尊敬すべき男性と、尊敬すべき女性が現実にいることを知っていて、そして彼ら彼女らをよく知っているからだろう。

彼らを見ていると、男性とは、女性とは、こんなに凄いことができるのか、と思う。そして人間そのものを尊敬する。

もし彼らに出会っていなかったら、わたしは出会っていない方の性別を、馬鹿にしただろう。

もしあなたが、どちらかの性自体を馬鹿にしているのだとしたら、それは不幸にも、本物に出会っていないだけなのだと思う。




990511tue


かなしい絵を描くときは、かなしい音楽をかけている。

やさしい絵を描くときは、やさしい音楽をかけている。

常に、というわけではなく、むしろ何も聞かないで描くことの方が多いのだが、絵のイメージにぴったりの曲があると、とても助けになる。

ところが最近は、絵の内容を問わず、問答無用で井上喜久子さんのCDを、つい使ってしまうこともある。
このあいだ描いた絵は、傷ついたサイザーが血の流れる肩を押さえ、それでも闘志を失わない強烈な眼光で敵をにらみながら廃墟にうずくまっている状態を、赤を基調に描きあげようというものだった。

これに対して、わきのスピーカーからは、井上喜久子の、どうしてここまで楽しそうに歌えるのかよく分からないが、とにかく幸せそうな声

「ポーリンという少女は ラーメンが大好きで
 朝も昼もおやつも夜も
 チュルチュルチュルチュルチュルチュルチュルチュル
 あー おいしい♪」

と、ポーリンの歌が流れている。
曲が終わる頃、この絵はお蔵入りになった。




990510mon


最近どうも日記が長い。
無駄な形容詞などは極力はぶいて短くしようと思っていたのも4月頃の話だ。最近はもう、垂れ流しのように長い。
だが、わたしは本来、異常に長い日記を書く癖があったのだ。
大学時代など、感極まると、一日にA罫ノートで20ページもの日記を書いていた。

感極まる日々が続くと、一週間ほどで一冊のページが全滅する。ほとんど週刊誌のような勢いで日記を書いていた。
それを考えると、この短さこそ驚異といえよう。




990509holy


サイザーの新作「にくしみ」を完成させた。
泣き顔といえば、最近ビデオで見た「銀河鉄道999」で、トチローを喪ったトリさんが、ハーロックにすがって、ぼろぼろぼろぼろ泣くシーンが印象的だった。

それにしても、メーテルは凄い美人だ。私たちくらいの年齢の男性は、たいがい一度はメーテルに恋をしたことがあるという話も、うなずける。ちなみに如月ハニーや、峰不二子にドキドキしたこともある年代だ。

まあ、それはともかく。

あまりにも毎度のことなのだが、今回のように良い絵ができると、しみじみと「絵が上手くなったものだなあ」と感嘆する。
惜しむらくは、完成の喜びを、ある人と分かち合えなかったことが残念だ。




990508sat


父の話である。
こうして月イチで紹介していると、五年ほどで一族郎党の秘密が、あまねく世界に発信されることになるだろう。困る人もいると思うので(いるに違いない)、身内の話は、ひとまずこれまでにしようと思う。

あらためて父の話である。すでに故人なので、遠慮なく書かせてもらおう。
私に絵の才能があるとするなら、それは間違いなく父からの遺伝である。
父は絵を描く趣味をもっていた。
まもなく創業90周年をむかえる、呉服屋の二代目として働きながらの、趣味である。仕事を持ちながら、という点では、私と同じだ。


本当は絵描きになりたかった・・・などとは、ひとことも漏らしたことはない。

その気持ちも、私と同じである。
今の仕事に感謝し、そして趣味として、絵を楽しんでいた。

だが、絵への情熱が高まってしまうこともあったようだ。
私が小学生の頃である。得意な図画の宿題で、私は風景画を描いていた。現在のような技術もないので、ただ見たままを写生した稚拙な絵である。家に絵を持って帰り、少し手を加えて完成させ、その日は休んだ。

翌朝、提出のため絵をまるめようと手にしたとき、戦慄が走った。

何者かによって、絵に手が加えられていたのだ。

こどもらしい、素直でのびのびとした絵が、当時の私から見たら超絶的なる技巧によって、ものすごい完成度の絵に仕上がっているのだ。絵自体が光って見えるほど、うまい。だが、うますぎる。

父に文句を言おうと思ったが、本人は気持ちよく眠っている。

起こすのが惜しいくらい幸せそうな寝顔だ。

今から、この絵をレベルダウンさせるという屈辱的な作業の時間もないので、やむなくそのまま提出した。
その絵は、かがやかしくも学年一位の評価を受け、いつまでもいつまでも学校の廊下に張り出されたばかりか、地区展にまで出品された上に、かなりいいところまで勝ちあがってしまったらしい。
表彰こそされなかったが「残念だったね」と先生から絵を返してもらったときは、心の底から安心したものだ。

後にきいた話だが、兄も姉も、この洗礼を受けたらしい。

その父も、病に倒れ、入院したときは、病室でひたすらに絵を描き、友人に配っていた。
仕事を引退したら・・・、そして病気が治ったら、アトリエを建てて、そこで思うさま絵を描いていたい。
そう、私にだけ夢を語ってくれたこともある。

だが、父は夢だけを残して、逝ってしまった。
いつか、父の描きたかったものを、この指で描き、この眼で見るときが来るだろうか。

兄も姉も、現在、絵を描く趣味はない。
それだけに、この才能は、父の遺産だと思っている。




990507fri


光琳社出版という出版社が自己破産した。
ここは「空の名前」や「宙の名前」を出したところなので、知っている人もいることと思う。

商品自体は素晴らしいものが多い。

仕事は良くても、経営が悪いと、会社は潰れてしまうというケースなのかもしれないが、わたしにも詳細は、わからない。




990505wed〜990506thu (二日分)


部屋の掃除をした。
とにかく本が多く、またそれを積み上げる癖があるため、読みたい本があっても、まずそれを探さなければならない。さいきん読んだ本なら、わりと上の方にあることぐらいは分かるが、探すのが大変である。その上いよいよ足の踏み場がなく、入り口からパソコン、または布団までは、つま先立ちで移動しなくてはならない。この状態も、限界がきたのだ。

まず書籍類から整頓をはじめた。
このとき、まだ読んでいない本などが出てくると、作業は中断してしまう。
おもしろかった本でも、そうなる。
「本につかまる」という状態だ。
部屋にある本が、あまり面白いと、作業がはかどらない。
そして残念なことに、私の部屋には、求心力のある本が、多い。
実に多い。
ボルテスファイブの最終回で、すがるカザリーンを蹴落とすプリンス・ハイネルのように(わかるひとがいるだろうか)未練を断ち、あるいはついつい最終巻まで流されながらも、整頓が続く。

一日の大半を費やしながらも、なんとか部屋が片づいた。
急にすっきりして、床が見えるようになった部屋は感動的である。





若い時分、ひとはなんでも大げさに喋る傾向がある。とくに男性は。
実験までに、様々な形容詞を書き込むことで先の日記を「若く」アレンジしてみよう。





昨日は、徹底的に部屋の掃除をした。
とにかくものすごく本が多く、またそれを、うずたかく積み上げる癖があるため、たまらなく読みたい本があっても、まずそれを必死に発掘しなければならない。さいきん死ぬほど感動して読んだ本なら、比較的あたらしい地層にあることぐらいは分かるが、探すのが大変である。その上、足の踏み場が小指の先ほどもなく、入り口からパソコン、または布団までは、つま先立ちで、狂ったように踊って移動することを絶対的に余儀なくされるという、極限状態になったのだ。

まず、天をつくほどの堆積物の大半を占める書籍類から、移送を開始した。
このとき、まだ1ページたりとも読んでいない本などが出てくると、作業は完全に中断してしまう。
感動に打ち震えるほど、おもしろかった本でも、そうなる。
「本につかまって石にされる」という状態だ。

したがって、作業効率は「部屋にある本のおもしろさ」で、大きく変わってくる。
そして残念なことに、私の部屋には、凄まじく求心力のある本が、ものすごく多い。
実にもう、ホントに、脳がはち切れそうなほど多い。

「1991年、地球はボアザン星人の侵略を受けていた! 」というナレーションではじまるため、最近ビデオで見た人は「おいおい、八年も前かい」と突っ込みを入れざるを得ない、昭和のアニメ・ボルテスファイブの最終回で、号泣しながら、愛しい人にすがる美しい侍女(?)カザリーンを、苦悩しながらも蹴落とす、やはり美しきプリンス・ハイネルのように(わかるひとなど、いるわけがない)、手にあった本を壁にたたきつけて未練を断ち、あるいは読書という、とめどない快楽の奔流に、ついに最終巻まで流されながらも、はてしなく整頓が続く。

驚くべきことに、まる一日を「読書」に費やしながらも、なんとか部屋が片づいた。

急激にエントロピーが減少し、床どころか、節分にまいた豆までが見えるようになった部屋は凄まじく感動的である。
わたしは超ド級の感動にむせび泣いた。

・・・・・・。
・・・うーん。
・・・これが、若さか。




990504tue


日記を公開しているひとは、けっこういる。
ちょっと前から作家の日記を出版するのも、流行っているようだ。

ネットの日記のように、誰かに見せることを前提とした日記というのは、親しい人に「元気でやってます」と伝える、手紙のようなものでもあると思う。
ぜんぜん更新されないHPなどを見ていると「このひと死んでいるのではないか」と不安になるものだ。
ついでにぜんぜん新刊が出ない作家さんの近況も然り。

作家さんの場合、新刊がでると「ふー、やれやれ何とか生きてるようだな」と安心する。
作家というのは、なかなかそれだけでは生計が立たないときく。かの法月倫太郎(作家)も、東名高速で白線引きのアルバイトをしたそうだ。真面目に小説を書いていても、生きていけるかどうか怪しいだけに不安がつのる。

一方、週刊連載をしている漫画家のHPにある日記も凄い。締め切り近くになってもちゃんと日記は更新されるのだが、一行だけ「ぎゃーーっ」とか「うわーーっ」とか「ひいいいい」とか「体を赤く塗ったら通常の三倍のスピードで漫画が描けたりして。シャア専用ザクみたいに。あ、でももう間に合わないや、三倍のスピードで描いたとしても」とか読んでるこちらが辛くなるような日記が続く。

こうして、毎日のように、のんびり日記が公開できる自分は、幸せなものだと思う。




990503mon


TDMさんと会う。
ヨコハマ買い出し紀行のHP「喫茶・夕凪」のチャットで出会った人だ。

ネットで会った人と、オフラインで会うというのは、一年ほど前のハーメルンのイベント以来である。
社会人というのは、なかなか会社関係以外での出会いがない。そのなかでのこういう出会いは貴重だ。

楽しかった。私が仕事中でなければ、そして彼が先を急いでいなければ、もっと話をしていたかった。本当に残念である。
バイクで店に寄ってくれたTDM氏とは年齢も同じで、しかも結構な漫画者なため、同じ時代に流行っていた漫画のこと(あ〜るとか)で話ができた。もっと突っ込んで話せば、かなり濃い会話もできたであろう。

彼は、チャットで話したときの印象どおり、落ち着いた感じの穏やかな人で、責任感があるというか誠実な感じのする良い人だった。そして、バイクをとても愛していることも、良く分かった。

おそらくは氏の分身であろう、TDM850という美しくて立派なバイクを見ていると良く分かるのだ。最後はあいにく仕事に追われて、窓越しに見送ったが「ああやって、バイクとひとつになって走っているときこそ「TDMさん」なんだな」とほのぼの思った。

見送りながら、旅の安全を祈りながら、ああ、自分は、人と会うのが本当に好きなんだな、と実感する。特に、波長の合う人とならば、本当に楽しい。

また是非あいたい。今度は、同じチャットで知り合った、COBRA氏もまじえて、際限なく話がしたいものだ。




990502holy


良い芝生にであった。
いや、正確にはまだ芝生はできておらず、土に芝生をしく準備をしている場所に出会ったのだ。

そこは、大きな川沿いの堤防で、ゆるやかな斜面になっており、しかも、とても大きな樹が生えている。「ここに芝生が生えてきたら、吸い込まれるように寝転がってしまうなあ」と思わされるほど心地よさげな木陰ができていた。そして極めつけに静かなのである。「芝生で寝転がり」マニアには垂涎の環境だ。

とつぜん時間ができてしまったときに、偶然みかけたスポットである。神の導きを感じた。
芝生が生えそろうまで待っていられないので、近日中にビニールシートでも持って寝転びに行こう。




990501sat


風邪も治ったようなので、ちょっと前から、絵を描く。
ヨコハマ買い出し紀行のアルファさんで、三枚一組の絵だ。

だがどうしても、二枚目がアルファさんに似ない。
また、しばらく寝かせておこうかと思う。










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