2005.01.13 「シスプリ考察大全ラフの話と、挿絵描きについて」



これを書いてる時点で、じつはすでに冬コミは終了しており、私の中でのシスプリ関連の気持ちはすべて昇華されているので、正直いまさらな感はあるが、製作中に思ったことなんかをちゃんと書いておこうと思う。


ラフを描き始めたころに話は戻る。

「アニメ版『シスター・プリンセス』考察大全・改訂新版」の各章の扉に絵をつけるわけだが、はたしてどんな絵がふさわしいだろうか、また、それぞれの考察の扉において、12人+1名の妹の誰を描くべきか。既刊である初版を読み返しながら、そんなことを考えていた。
いろいろ理屈でも考えられたが、重要なのは、
わたしが考察文章から想起しているイメージはどんな絵か、という点だったと思う。

思考の表層にある人格が、文章を読みつつ無意識下に浮かんでいる映像をどうにか掴(つか)もうとする。掴んでみれば何かのパクリだったりすることもあるが、それを手放したり、あるいは変質させたりしながら、かろうじてビジュアルにできた印象だけが、唯一使い物になる絵だ。どんな理詰めで考えるより、
そいつを直接に描き写すことがもっとも正確な「わたしが理解しているシスプリ」だからである。


思えば「まこみし文庫」のときも挿絵を描くべき原文を、何度も何度も繰り返し読んだ。間違いなく作家の次くらいに繰り返し読んでいる。そういう意味では挿絵の絵描きほど熱心な読者はいないだろう。同じページを十回以上繰り返し読み返すこともある。だがそれも、
最初に想起した絵をどうにか正確に拾うためだ。文章をこそ目は追っているが、真に探しているのは、はじめて読んだときに無意識下に現れた幻影の輪郭である。(ある意味、失礼な話だ)


だが、考察本の文章量は、それだけで360ページに及ぶ。しかもシスプリのソレは
細かい字でみっちり書かれているのだ。そうおいそれと読み返せるものではない。一章一章を集中して読みながら、得られた輪郭を絵コンテのように、あるいは形にならなければ単語でメモにとっていく。

まあ、実際はそう大したことが書かれているわけでもなく、ある絵などはただ一言
「かわぐちかいじ」
としか書いてなかったりもするが。

そんなわけで実際に得られているのは、雑多なイメージの断片である。それをペインターの新規画面上ではじめて統合し、形としての絵にするのが、この場合の「ラフ」である。いつもはパパッとやってしまうが、今回は絵に統一感をだしたかったので、全部の絵のイメージが溜まるまで時間をかけて再読した。

その作業が終わってある程度のイメージこそあったものの、実は「ちょっとずつ形にしよう」と軽い気持ちで描き始めたラフ作業だった。だが、集めまくった断片は、不揃いながらもイメージを加速させるレールの役目を果たしてくれて、気がつくと
すごいペースで次々と展示される上に順次すてられていく模型を必死にスケッチしながら追いすがるかのような状態だった。しかも、ギリギリ描き留めることができるかどうかくらいのイヤなスピード感。だが、同時に「イメージを描き留めることができている」という波のような超人感覚もある。前にもだしたが「千影の寝姿」などアタリを取ったのはわずかに頭の○だけである。後半の方などはどんどん筆が加速してきて、開始4時間目あたりなど体力が尽きかけてるのにもったいなくて手が停められないという状態だった。推進力自体は、ずっとイメージにとどめて絵にしてこなかったフラストレーションの爆発かもしれないが、あきらかに「自分以外の誰かに描かされていた」という感覚があった。だがもちろん、それを止められたくはなかった。

そんなわけで、結局えんえん8時間。全ての情報を統合しつつ、47枚のラフを描きあげることになる。
それも、とりあえずは終わった。

先月の日記にあるように、これをあんよ氏に見てもらい、修正点を指摘してもらう。
このとき得られた指示は、的確であり、実に秀逸だった。


ちょっと脱線するが、挿絵描きとしてテキストライターさん(SS作家を筆頭に、今回のような考察文章書きさんを含む)に言いたいことがあるので書いておこう。

「SS書きは絵に飢えている」という言がある方の雑記があったように、多くの場合、SS書きさんは絵描きを有り難がる傾向にあるようだ。挿絵を描くと十中八九てばなしでべた褒めする人もいる。それこそ「わたしのSSに絵がつくだけで充分です」とばかりに。

だが、絵描きが一から自分で考えて描いたのであればともかく、別の人が考えた文章に対して絵をつけるとき、そこには作家と絵描きの見解の相違があって当然だ。それが出来上がった作品の幅とか味になるとも言えるが、それよりも私は、
作家が絵に対して覚えた違和感を、ぜひ指摘してほしいと思う。

べた褒めでは、挿絵描きとしてはちょっと困るのだ。
原作者の意図したところと微妙に違う絵ができたとして、絵描きとしてはSS書きの描き出そうとした世界こそがオリジナルなわけだから、そこからあまり逸脱してはダメなのではないかと思う。おおむね外れてはいないのかも知れないが、おそらくあるであろう微細な違和感。これをぜひSS書きさんから指摘してほしい。

絵描きは「こんなんでいいのかなあ、SS書きさんの思惑と微妙にずれてないかなあ」と不安なまま絵を見せるのだが、
たいていのへんじが「素晴らしい!」というステレオタイプなものであり、あまつさえそのまま入稿用に使われたりすると、どうにも消化不良を起こすのだ。

先に書いたように、挿絵を描くとき、イメージが湧いてくるまで、何度も何度もくりかえしSSを読みかえす。その末に浮かんできた絵というのは、実はSSの要素と自分自身の要素が混じっていて、微妙にベクトルが変わっている感覚があるのだ。言い方をかえると、絵描き本人にもどの方向を向いてるのか判然とせず、納得がいかない。このせいで、時にはせっかく本がでるのに満足感が薄いというときすらある。

SS書きさんが絵描きを獲得するのは、大変かと思う。SS書き同士の交流はあっても、間に立つ編集組織でもない限り、絵描きとの交流は自然発生しない。
絵を好んで見るSS作家と、SSを好んで読む絵描きの比率はものすごく偏っており、圧倒的に前者にとって部が悪いからだ。交流がない以上、獲得できた関係を大切にしてくれるのも分かる。だが、その次の段階として、双方に信頼関係が築かれたなら、絵描きにこまかな注文をつける、というレベルにSS書きさんは立ってほしい。

絵描きは、ただでさえ独り善がりになりやすいのだ。描きながらどんどんズレていくであろう原作との軌道修正は、その中心位置にある原作者にしかできない。

ちなみに、わたしは「遠坂凛の金属バット文庫」において文月さんと組ませていただいたが、それ以前から毎回彼のSSを読ませてもらうたびに辛辣な指摘をして凹ませている。
文中に微かでも感じた違和感があったら遠慮なく暴いて掻き出すのだ。たぶん、生きたまま丁寧に解剖されてるようで彼には死ぬほど辛かったことだろう。でも、その甲斐と思ってはおこがましいが、今回の凛と桜の話は、とてもよいデキだったと思う。いまはまだだが、彼にもわたしの絵から感じる違和感を、指摘して欲しいと願っている。

もっとも、なんだかんだ言って絵描きは基本的に頑固な生き物なので、結局指摘された箇所をなおさずに「これでいいんだ!」と入稿してしまうケースもわたしふくめたくさんあるだろう。また、絵描きの世は練れてないひとが多い世界でもあるので、相手がキレてしまうこともあるかもしれない。

だが、絵描きとしては原作SSとの観点のズレが認識できるだけでも、作品理解へのおおきな成長要素になると思う。SS書きさんには、いつか腹蔵無くいいあえる絵描きと組むことができたら、ぜひいろいろ指摘してやって欲しいと思う。

ただ指摘といっても「なんとなく違う」というのでは話にならない。物語への深遠な理解をもち、仮にも文章表現能力者であるなら、自分の違和感くらい分析し、その本質を見抜き、わかりやすく文章化して欲しいものだ。



そして、そういう意味では、ラフ絵につけていただいたあんよ氏の指摘は
恐るべき的確さだった。さすが、改訂新版の段階でコミケカタログに匹敵する厚さに至った考察本を書くだけはある。



彼の指示をもとに、ラフ段階でなおすものは修正し、あるいは本描きで反映させる点はメモに残す。

いよいよ線画と効果の作業である。







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2005.01.15 「シスプリ考察大全の本描き」


いよいよ本描きの作業である。

だが、ここまでひっぱっておいて何だが、特筆すべきことはあまりない。
ラフの段階でほぼ確定していたし、あんよ氏による修正の助けもあり、思い通りの状態で絵を描くことができたのだ。



ただ、ラフと本描きの間に、シスプリ関係の公式・非公式を含む絵をいろいろ調べてみた。
まったく同じ構図があったら、後発のこちらが変えなくてはならない。

その中で見てきた妹たちの絵には、はたして、ある種の共通点があった。
それは
基本的に媚びたポーズであったり、こちらを指さしてウインクしてるポーズであったり、片足がぴょんと跳ねてはしゃいでいたり、どの絵も口が三角に開いていたりと、普通の少女が日常生活では絶対にやらないようなポーズのオンパレードであった。オタ絵の文法どおりの様式物が圧倒的に多い。

こういう絵を描くことが
「シスプリ的」には正しいのだろうか、とちょっと思ってみる。

だが、この考察であんよ氏は、製作者の事情などではなく、あくまで物語られている部分から、
生きた人間の姿を浮き彫りにしようと試みている。
ゲームをはじめとして展開された「シスター・プリンセス」の目差すところは「キャラ萌え」だったかもしれないが、
その舞台の上で生きてきた妹たちの姿と心情を解き明かすものとして、あんよ氏は考察本を描いた。

なら、わたしもその深度に立とう。
幸いにして、いままでもそういう絵を描いてきたつもりだ。

このままでいい。



そうして、ラフをクリンナップする作業が続いていく。

ただ、悩んでいたのは線画のあとの効果である。
考察大全という内容から、あくまでもアカデミックに見せたいと考えた。なので、塗りの重厚感は逆に邪魔である。キッチリとした絵に仕上げたい。また、表紙とは違いモノクロページであることから、逆に
「白黒でありながら色彩感のある絵に仕上げてみたい」というひねくれた野望が湧いてきた。


「白黒」「キッチリしたアカデミックな絵」「色彩感」「生きた姿」これらが、今回の効果のテーマだ。

そしてそれを包むものとしての「愛情に満ちた暖かい空気」である。


ためしに、最初の数枚はいつもどおりの塗りで描いたが、やはり違う気がした。
小学校の頃にみた家庭科の教科書にのっていた白黒の料理写真がひどく無味乾燥で、すごく不味そうな、たとえるなら金属っぽい味に錯覚されたことをいまだに憶えているのだが、今度の違和感はこれにちょっと似ている。そしてこのまま描いたら、それと同じになりそうだった。

ここで思いついたのが「ランダムストライプ」である。
あるイラストレーターが鉛筆画でやっていたのを真似したのだ。
ランダムストライプといっても、ようするに適当な間隔で描かれた平行な直線のことで、これがある程度以上の密度だとスクリーントーンみたいにみえる。

ただ、トーンはただ濃淡を表現するだけのものではない。

白色と黒色がキッチリ分けられている模様の境界線上にプリズムを置くと、そこから七色が反射されるという現象がある。
「ふたりはプリキュア」で、白と黒の合体技が七色なのと同じ理屈(そうなのか)だ。この効果を期待して、ストライプを適当な幅で組み合わせトーン処理よろしく描いてみた。



テーマの条件をすべて満たしていると思う。

もっとも、これを見て色が見えるという人間はいないだろう。だが、色彩を知覚している脳の部位に、なんとなく影響があるような気が、わたしはちょっとしているのだ。



ラフが終わった段階で、のこり77日。
12人の妹を4枚の絵(見開き+2枚)に描くというページがあり、12枚分を4枚に圧縮できたので、挿絵ファイル自体は39枚だ。表紙絵は表裏と背を合わせて一枚のファイルなので、総40枚とキリもいい。
そして「二日に一枚かけば間に合う」というペースはまだ守れている。

だが、私にも仕事がある。翌日に疲れを残すような真似はできないので、実際のところ作業を進めるのは休日にしかできない。
従って自動的に、
二日で4枚のペースになる。

28ページの同人誌が二週間で描けちゃうペースである。(ラフ以降の仕上げに限るが)
一瞬すごいな、とも思ったが、これはしょせん週刊漫画家の半分以下のペースである。ましてやこっちは一枚に一人だ。やはりプロはスゴイ。

そして、3ヶ月のあいだ休みの日がフルオープンであるわけでもない。押し寄せるいろいろな用事の間を縫って、どうにかすべて描き上げた。

ともあれ。

当初の締切である11月20日に、キッチリと入稿完了である。


やり終えた感覚はあったが、真に解放感が得られるのは本ができてからだろう。
やや緊張を残しつつ、広げっぱなしだったシスプリ関係の資料をまとめた。挿絵描きの仕事はいったんおしまいである。




そして、実はこの翌日から、店長復帰が決まっていた。

それは、復帰先が初めて勤める店舗であったり、人事異動と新店オープン準備のため、
それまで11人いた社員が6人になってたり、年末年始の激戦がすでに始まっていたり、その激戦のなかで社員2人とパート1名が耐えられずに退職したり、ところでその店は本来7人で運営する店だったり、現存する社員数を計算するのが恐くてどうしても脳がイコールキーを押せなかったり、早朝に出勤して荷物を出し、寝に帰るだけのような日が続いたり、そうこうするうちに新店舗が開店し、毎週休日をつかって応援レジに立っていたり、たまに目がみえなくなったり、耳が聞こえなくなったり、幻覚が日常的にみえるようになったり、あまつさえその状況でコミケに行ったりするとかだいたいそーゆーよーな日々のはじまりであった。


つくづく、しめきりまでに仕上げてよかったと思う。
すべての編集作業をあんよ氏に丸投げして、わたしは仕事に没頭した。






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2005.01.17 「資料室の珈琲」


シスプリ考察大全の挿絵作業にかかる前の話だが、思えば今年の夏は同人誌関係の絵をたくさんかいた。

具体的には

「シスプリ考察大全(シスタープリンセス/あんよ氏主催で本誌の表紙)」
「まこみし文庫(Kanon/せいるさん主催でもりたさんの挿絵)」
「遠坂凛の金属バット文庫(Fate/久慈さん主催で文月さんの挿絵)」
「シスプリ考察大全・改訂新版(シスタープリンセス/本誌の挿絵)」

ととにかく紙媒体での仕事が多く、それぞれの製作期間が混み合っていたこともあったが、なかでも「資料室の珈琲(CLANNAD/美森さん主催で本誌の表紙)」だけは特別に締切がきつかった憶えがある。

そもそも、この「資料室の珈琲」の最終締切が、8/4でありながら、8/1の時点で決まっているのは利休さんと文月さんが小説・天野が表紙の「有紀寧本(CLANNADのヒロインのひとり有紀寧(ゆきね)さんのショートストーリー本)」という点のみ。(実際にはヒロイン確定にもやや時間を要した)
そして、二本収録されるSSが、このとき両方とも上がってなかったのだ。

すでに
「読んでから絵を描いてたら遅い」という因果律を超越した段階である。念のために書いておくが、SS担当を非難するつもりはない。文月さんなどは他にも締切を抱えていたし、この時期はみな大変だったのだ。何より私もこのとき絵を描くべきゲーム(CLANNAD)をクリアすらしてないという有様である。

順番的には、シスプリ考察本(初版)の表紙絵を仕上げた後である。とりあえずサンフェイスさんのリクエストである下着美凪絵を描きながら、いまさらながらCLANNADを進めつつ、ひたすら執筆者の原稿が上がるのを待つ。

最初はちょっしたチキンレースのつもりだったが、
だんだんシャレにならない距離感になってきた。気がつくと、文月さんと利休さんの書くであろうSSを予知して絵を描くしかないという日付になり、いよいよ超能力戦の様相を呈している。
そして、激化にともなって、締切がジワリジワリと伸び始めた。

結局8/5に文月さんの進行6割の原稿を見せてもらって
絵を捏造することに決定する。
いま思うと、別に原稿がなくても描けたかもしれない当たり障りない絵だった。だが、内容を一部でも得ておかないと、どうにもスタートが切れなかったのだ。このへん、まだ甘い。

余談だが「野生時代」時代の小説家・火浦功は、連載小説の原稿がどうしてもかけず、小説よりも先にイラストレーターが仕事を上げてしまい、
その絵をみて続きを書いたという「オシシ仮面」ばりの伝説を持っている。これは火浦功の伝説として一部で有名だ。私は火浦功の大ファンであるが、この伝説に関してだけは彼よりイラストレーターの行きすぎたプロ根性の方に感動せざるをえない。比べて、やはり私は甘い。

ともあれエンジンはかかった。会社からの帰宅後に作業開始。翌8/6の早朝にラフが完成する。

仕事の疲れが抜けずに意識が混濁。そのため作業中に幾度か絶叫した。たとえば「有紀寧の立ち絵ってやっぱりちょっとおかしいよ!」等。

8/6は休みのはずが仕事のトラブルが発生。休日が消失する。

やはり意識が錯乱していたため絶叫。「頭の形とか、目の形とか、異様ななで肩とか!」等。
昏倒。ややあって、覚醒。
いたる絵に引きずり込まれないように自分を保ちながら描くよう決意だけ固め、明日のために睡眠摂取。

4時間後に起床。

休日出勤してみたが、ほどなくして解決したので帰宅。ペンタブレットを用意するものの、記憶は混濁中。なんとなく絶叫。

「風よ、雲よ、教えてくれ!! 
・・・『まぶらほ』ってどういう意味?」





そして4時間後、イラストは完成した。




IRCにて編集作業担当の美森氏に報告。
「絵の方できました」
「あとがき100字おねがいします」

絶叫。

「いまさらですけど『ヤングメン』って笑うとこなんですか倉田先生ー!!」


15分であとがき執筆。





そして

真の締切にはSSも無事に入稿され、こうして世に出たCLANNADのSS本「資料室の珈琲」は、好評により夏コミの後に完売した。


思えば、Fateの挿絵を描くためにFateをプレイし、CLANNADの挿絵を描くためにCLANNADをプレイし、シスプリ考察大全の挿絵を描くためにシスプリを全話みた・・・という泥縄そのものの夏だった。

だが、縄を綯(な)うのは速くなった。
いま思えば、一連の絵描き作業の中で、私の画力は確実に上がったのだと思う。
単に入稿を前提とした絵を描く作業に慣れた、というだけでもやはりその成長は大きい。実際、一日かかっていたような作業が数時間で終わるようになっている。
そして、この技能的向上がなければ、考察大全の挿絵をあの精度で完成させることはできなかっただろう。

挿絵作業は大変だったが、決して無茶なことではなかった。完成を奇跡のように言う人もいるが、
立ち向かう前の段階で、わたしはこの大きな試練を乗り越える力を、すでに身につけていたのだ。

大変だったが、振り返ってみれば感謝である。





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2005.01.20 「全身像」


キャラクターを絵に描くとき、見る人によってはポーズやしぐさ、あるいはレイアウトなどに対しての「萌え」があるらしい。
で、ある人には
「全身像萌え」というのがあるそうだ。

いわく、半身像に比べて、全身像の方が
アピール力に格段の差があるように感じられる。全身像には、半身像では絶対に得られない生々しさがある。それは対象の全身が視界に入っているという事実が、人を安心させるのかもしれない…とのこと。

彼は「キャラクターの全身が写っている絵にずっと以前から強く惹かれていた」という。
もっとも、PCモニター上では全身をフレームに入れようとすれば必然的に絵が小さくなってしまうことはご理解いただけているようだし、また、ゲームのイベントCGなどでは「何が起きているか」を強調するために構図が決められるので、全身像がいかに魅力的でもそれが是とされないのもわかる。

だが数多ある萌え絵のなかに、「全身像」は意外に少ない(設定資料集は除く)。それが彼には不満であるという。
「手や足が見える=視界に入ってくることで、絵がいかに魅力を増すか」
彼はそう言う。だが、なぜそこに魅力を感じるのか、うまく説明できないという。


実はわたしも似たようなことを考えていたので、メールで返事を書いてみた。


「キャラの全身が描かれている絵」というものを、わたしも何枚か描いております。
全身絵に、描き手として何をもとめてきたか。それは一言で言うと
「生活感」です。

胸から上、あるいは腰から上しか見えないという極端な親近感ともいえる距離ではなく、
キャラがそこに息づいているということを「空気ごと」感じ取れるやや引いた視点。それが全身像だと思います。そのキャラが、そこでたしかに生きているという空気。それが描き手にとって好きなキャラの絵であれば、そこには自然と愛情に満ちたあたたかい空気があり、見る方もそこに距離があるからこそ甘い甘い切なさを感じるのかもしれません。わたしにそれが描き出せているという自信はありませんが、そういった絵を描きたいと思ってきました。

好きなキャラの絵を描く、というのはひとつの愛情表現です。顔しか見えない盲目的な距離感の愛もいいのですが、
そこにいるキャラを、自由なひとりの女性として愛したい、そういう愛情表現が全身像のひとつの動機なのだと思います。



これに、お返事をいただいた。


全身像についてのお言葉はたいへん興味深く拝読いたしました。
(中略)
ここで天野さんは「ひとりの女性」とは書かずに「自由なひとりの女性」と書いていらっしゃるワケですが、これは前段の
> キャラがそこに息づいているということを「空気ごと」感じ取れる
ということとぴったりと重なり合う表現です。

全身像を描くことの意味はまさにこの辺りにあるのだと思います。
つまり、例えばルイス・キャロルが(写真を撮る際、構図として)少女の全身像を好んだという時、そこにあったのは、少女たちを美的対象として見、またコレクションの対象にするような姿勢ではなく、自分の目の前にいる気まぐれな少女たちを…いや、というよりも、
いずれは失われてしまうであろう「少女時代」「少女の時間」というものを紙の上に留めておきたいという憧憬だったのではないでしょうか。
キャロルは、ある限られた季節だけの女の子の魅力というものがあることをよく知っていて、それを何よりも愛したのだと思うのです。

私たちが全身の描かれたCGを見るとどこかほっとするというのも、おそらくは同じことなのでしょう。
全身像は不思議と、ある自由さ、解放感を纏うもので、そういう雰囲気の中に私たちはキャラクターの息づかいを感じて、そこに心を打たれるのでしょう…。





自分はなぜ全身像を描いているのか。
表現したいことが表情だけで見せられる絵であればともかく、なぜ「この絵は全身をかかなきゃダメだ」と思うときがあるのか。
そのことが、一通目のメールを書きながら自分でもハッキリした。やや重複するが、レスは彼のサイトでこう語られた。



もし想像だけで語ることが許されるなら、キャロルが愛したのは「限られた時期だけ花開くような少女の魅力」というものだったのではないでしょうか。目の前にいる女の子の顔かたちの可愛らしさやちっちゃなおてての魅惑ではなく、ごく限られた時期の女の子だけが纏うことを許されているようなある雰囲気、女の子の無邪気さや気まぐれと言ったものをこそ、キャロルは紙の上に留めておきたいと願ったのではないでしょうか。なればこそ、写真は少女の全身が写ったものでなければならなかった。全身像でなければ、少女が身に纏う空気、時間と共に失われてしまうような少女の季節とでも言ったものを留めることはできないからです。

それは恰(あたか)も桜の儚さを愛でるがごときものでしょう。桜の花弁がそれ自体いかに綺麗であるとしても、桜の枝の一振りがいかに表情豊かであるとしても、
私たちを切なくさせるような桜の儚さは、そういう“部分”では表現され得ません。桜はあくまでの木全体として眺められなければならない。(後略)


本当にいい喩えをされるものだと感心する。

全身像を描くのは、技術的にも時間的にもいろいろ大変だ。
だが「だから顔だけにしておこう」と考えたことは、たぶんない。

それこそ百万語を費やしても語りきれない少女がまとう「空気」を、全身像は表現することができるからだ。


そしてその空気をあたたかく描くことが、わたしの愛情なのだ。







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2005.01.22 「一冊」


ハードディスクの中に「画像」というフォルダがある。
これは誰かに紹介されたり、ニュースサイト経由でみたり、あるいは画像掲示板に貼られていたり、そうして目にとまった画像で、美しいと思えば保存してきたものだ。
たぶん「葉鍵板最萌えトーナメント」あたりから支援画像を集め始めて、「Kanon」や「AIR」のフォルダを作り始めたのが最初だった。最近だと「マリみて」フォルダが潤っている。だいたいわかると思うが、画像といっても写真は少なく「絵」ばかりだ。

ログが流れてしまう掲示板では即保存。サイトで作者自体を気にいれば「お気に入り」に登録して日参したりするし、なかでもとりわけ気に入った画像があれば、ローカルに保存しておく。別にそのサイトが消えるわけでもないのだが、なんとなく
宝石でも見つけたような気がして、とっておきたくなるのだ。

これは、絵に限ってよくやる。とはいえ、それすらもよっぽど美しいもの(あるいはおもしろいもの)でないと保存はしなかった。

だが、あるシスタープリンセスに関する感想を書いているサイトに出会ったとき、わたしは管理者である「彼」が書いている
テキストそのものを、思わず切り取って保存した。HTMLを別名で保存、ではなく、テキストをである。初めてのことであり、振り返っても、ほとんどここが唯一だった。


それは本当に宝石のようなテキストであり

いままで保存したどんな絵よりも美しかったからだ。


ことシスプリに関して、学術的な考察文章の確かさでは考察大全を執筆したあんよ氏の右に出るものはいまい。だが、文章芸術としての美しさでは、圧倒的に彼だった。

憧れた。

いま客観的にみれば、彼は決して有名人ではなかっただろう。だが、シスプリ界隈において新参者である自分は、彼と堂々と話をするために華々しくデビュー戦を飾る必要があると思った。絵描きの能力をずるいくらいにでも駆使して、どうにか知り合いになりたいという期待があった。初版の表紙を描いた情熱には、そんな夢も含まれていたと思う。




だが、絵においてこの二人と同じ深度に征こうとしたとき、彼はもういなかった。
本ができたときには、もう、とっくに間に合わなかったのだ。
そして、その人は、もう本を手に取れる世界にいなくなってしまった。




どうだ、こんなすごい本をつくったぞ。
悔しいだろう。

そう言って、あんよ氏とともに彼に見せつけてやりたい。

あなたが負けたとすれば、それはどんな事情にでもない。
この本を読めなかったことが、あなたの最大の敗北だ。

そう、言い放ってやりたい。
指さしてバカみたいに嗤ってやりたい。




初版は60分で完売。改訂新版も100冊以上売れ、残部の通販がはじまったものの初回搬入分は瞬く間に完売して販売ページが消されてしまった。再出荷分が受領されたら通販は再開されるだろうが、それすらも長くは保たないだろう。


でも、彼がこの本を買っていない以上、

「シスタープリンセス考察大全」の完売はないのだ。

もう、永遠に。






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2005.01.24 「感想を求めること」


「わたし、CLANNADの藤林椋の『椋(りょう)』の字が『小椋(おぐら)さん
(知人)』の『ぐら』にしか読めなくて、しばらく『ふじばやしぐら』って読んでました。したがって姉の『藤林杏』は『ふじばやしぐり』

最近はせいるさんとよく会う。
もとはまこみし文庫ではじまったつきあいだが、実はいまの家が近所なので、ファミレスなどで上記みたいなCLANNAD感想とかを語ったりするのだ。

お互いの作品に対する感想を差し向かいで話したりもするのだが、たまに作品に対する姿勢の話になる。このときは
「感想を求めること」についてだった。

これはもうどうしようもないことなのだが、クリエイターは、本質的に
感想が欲しいものなのだと、わたしは思う。

だが、それを求めないというストイックな姿勢がある。せいるさんがその位置にいるのだが、とはいえ欲していないわけではない。彼の場合は
「感想がこなくて当たり前」という認識だったのだ。


「それにしても、せいるさんに『ストイック』って
似合わない言葉ですよね。いつもぱんつくんくんはあはあ言ってる人とも思えないです」

「ほっといてください」


まず、パッと見て観賞が終了する絵と違い、小説はじっくりよまなくてはいけない。そのためそもそもの間口がせまく、感想が発生する可能性自体が少ないという事実がある。
また「自分のために文章を書く」というスタンスで書いてきた人は、そもそも感想が得られること自体が望外のことだったのだろう。

だが、描き続けることで文章力は向上し、やがて「人にみせるに値する作品」が生まれるようになる。これでも感想に対する認識は変わらなかったそうだが、あるとき外部から事情が変わってきた。

ゲーム「Kanon」のファン層がピークだった時期に、
SS(ショートストーリー)コンペというのが開かれた。コンペティション、わかりやすく言うと「勝負」である。期限とテーマが設定され、それにそって投稿されたSSに、読者から感想と点数がつけられ順位が発表されるというものだ。もっとKanonの世界を読みたいと思ったファンがこれに興味をもち、また発表の場を求めていたSSライターがこぞって参加し、最近になって閉鎖されるまで、ここはおおむね大好評であった。ちなみに、せいるさんも第何回目かのコンペティションで優勝している。

そして、これ以降において
「SSに感想がくる」という事実が常識化しはじめた。
それは多くの古参ライターにとっては感動すべき望外の喜びであった。だが、ブームの発生に従い書き手の人口も増えており、当然ながら「コンペ以前の感想がこない時代を知らない」書き手も多くなってきた。

せいるさんは、
感想がこない時代のことを忘れたくはないと言う。
だからこそ、感想の来ることが当たり前であるかのように求めはしない、と。


「こ、今回なんか真面目な話ですね。あなたホントにせいるさんですか」

「非道いな天野さんは・・・」


ところで、わたしは絵や日記に対して、幸い多くの感想をもらえている。
そして恥知らずかも知れないが、
やはり感想は欲しいと思うのだ。

それは虚栄心だろうか、と自分のこころを分析してみる。
これは、認められたい、褒められたい、もてはやされたいという気持ちだろうか。
精神の一部において、たしかにそういう気持ちはある。
そして「感想クレクレ」とがっつくのは、恥ずかしいことだという考えもある。

だが、そういった気持ちを否定するより私は、ある少女の話を思い出す。



ここにひとりの少女がいる。
彼女は明日、恋人と初めてのデートをするために前日の夜遅くまで鏡の前で着ていく服を選んでいる。
持ってる服、アクセサリー、靴、鞄、化粧品、ありとあらゆる組み合わせを試して一番きれいでかわいく見える組み合わせを探している。雑誌で明日のラッキーカラーをしらべたり、晴れたら、あるいは曇ったらと天候のことを心配して上着も決まってないのに帽子の心配をしたりする。ほとんど寝られないくらいの時間まで彼女は迷う。

ぜったい恥ずかしくないように。
いっしょに並んで似合うように。
できるだけ綺麗に、できるだけ可愛く。

彼女がそこまで気合いを入れているのは、その胸のときめきのせいだ。

そうして迎えた朝。
恋人は、髪型にも化粧にも爪にも服にもスカートにも靴にも香水にも鞄にも気を留めはしない。自分を気づかってくれるのはわかる。「寝不足なのか?」とか心配してくれるのもわかる。

でも、選びに選んだ服を、ひとことでも褒めてもらえないと、
成仏できないのだ。

あのときめきが。


気がついてほしい。
あなたの横に立って似合うように、あなたのことを考えて着飾ってきた。
この服を、この感じを、ほめてほしい。

「褒めて欲しい」という気持ちは、一見すると虚栄心と同じかも知れない。だが、
少女がかけた情熱とときめきを「ただの虚栄心」と切って捨てることができるだろうか。それが例えどんなに純粋な動機で相手のことを思いやってのことであっても、それに対して報われることがなければ、たとえ動機においてそれを求めていなかったとしても、ひとは傷つかざるを得ないのだ。

理論や実績だけの世界ではなく、芸術・創作がその根底において情的活動である以上、
情的なレスポンスこそがその報いとなる。

もちろん人間のやることだ。虚栄心もいくらか混じっているだろう。
だが基本は、誰かを、何かを好きだと思って、愛情こめて準備した結果である。
それを認めて欲しいと思うのは、恥ずかしいことかもしれないが、頭から否定すべきことではないと思うのだ。


「そういうわけですよ。感想を求めたいと思うのは、きっとこれに近い心情です。その女の子のせつない気持ちをだれが否定できますか」

「なるほど!」

「わかってもらえましたか、せいるさん!」

「せっかく履いてきた勝負ぱんつ。これをめくってほしいわけですね!」













しばらくおまちください。






















「天野さんが言いたいことは、とてもよくわかりました!」

「いや、たぶんちょっと違うような気が」

「でも、ぼくは思うんです。
自分でめくるのははしたないって!」

「・・・」

でもめくってほしい!

「・・・」

「わかりますか天野さん、
ぼくのこのせつない気持ちが!!」

「あぁうんもういいよ、それでこそせいるさんだよあんた本物だよ
こんな珍獣は日本にひとりしかいねえよ」



話をもどすが、ただ
「勘違い」というのもある。感想をもとめる気持ち以前に、気合いはやたら入ってるけど、結果としてダサいとかだ。
そのへんを客観的にみれていたらいい。感想を求める資格として最低限必要なのはそれだけだ。
そして
「この娘はもっと恋人に褒められるべき」と思うような、そんな作品であるならば、感想を求めてもいいと思う。

でも、そこであせったり、積み重ねた努力だけを売り物にしては、
虚栄心のそしりを受けてもしかたがない。


いままでに「この娘はもっと褒められるべきだ」と、どうしても成仏できない絵はいくつもあった。「どこをさがしてもきみはいない」なんかは、サンフェイスさんからあれだけの感想をいただいてもどうにも成仏しきれないものがあり、実際にあの絵を描いたことを忘れられるようになった(=解放された)のは、ほんの数年前のことだ。あちこちからリンクされたり紹介されて、やっと成仏というかんじである。それに公開しておらずメールで打診してくれたひとにだけ見せている「AIRのフラッシュ」も、どうも成仏していないらしい。たまに「見せてください」というメールがくるとすごく浮かれてしまう。

最近だと、
超強力な浮遊霊として「シスタープリンセス考察大全」があった。
あれだけの情熱を注いで完成した本はいままでないせいもあるが、この情熱が成仏するには、
コミケで直に売れているところを見なければならないとまず思った。それが、無茶してでもコミケに行った理由である。
結果として、目の前で次々に売れていく様子と、そしてあんよ氏による詳細な絵の解説・感想、これを見ることで完全に成仏することができた。

コミケ直後に、
あれほどあったときめきがきれいサッパリ成仏していた。前に更新したコミケ後のシスプリ日記も書くのはいまさらという感じで、正直なところ心の底からどうでもいいと思っていた。この本にかけた情熱は完璧に昇華されている。その理由は、あんよ氏によって書かれた絵に対する解説だ。これこそが、絵に投じた情熱への最大の報いだった。

39枚におよぶ絵のその一枚一枚への解説。
人物の指の表情にまで言及したこまやかな感想
愛するとは対象に感心をもつことであり、そうして絵描きが絵にこめた心遣いを発見してくれた。その羅列はこれら絵を深く愛してくれたことの証しである。

報われてあまりある光栄さ。そして絵描きとして原作者に対する尊敬。

私の中の少女は満たされて、やや浮かれながら、もう次をみている。




「そういうわけでせいるさん、感想を求めないというのもわかりますが、情熱が昇華する意味もあって、わたしは恥ずかしいことではないと思います」

「そうかもしれないですね・・・」

「感想を得られると言うことの素晴らしさを、私もあらためて知りました」

「うん」

「ですから、
わたしもできるだけ感想をお伝えしようと思います」

「え゛」

「そして
言うからには全力で、秋山瑞人とか山本周五郎とかあのへんのレヴェルを基準にして、遠慮なく具体的に細かく細かく切り刻みますからね。じゃあ、とりあえず新作の『たんぽぽ少女』についていきましょうかまず女性のキャラが立ってません反応もステレオタイプでオリジナリティに欠けます主人公視点で物語が進むにしても展開を物語ることに文章がかまけていて描写に面白みがなく前半はまのびして全体に冗長な印象をうけますし再会シーンでは情景描写の溜めが不足していて」

「き、切り裂き魔だーっ!!」









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2005.01.26 「感想を求めること・後日談」


注:

先の日記を見せたあと、せいるさん・文月さんとIRCで話をした。

夜想曲で、
常に一方的に描写されているこのせいるさんというキャラが、一面的なものでないことを示すために、本人の発言を中心に、先の日記についての会話を掲載しておこうと思う。

話が通じる程度の解説や説明を挿入して補正、あるいは天野のこころのツッコミなど書き足してはあるが、おおむね当時の会話ログをそのまま流用(特にせいる氏の言についてはほぼまる写し)していることを、ここに保証しておく。



「天野さんは!」

「うわ、なんですか」

「せっかくぼくがいいことをいったのにオチをつけている!」

「いや、あれ
リアルで言ったのまちがいなくせいるさんだし」

「(でもあれじゃ)みんな
落ちしか頭に残らないヨ!」

「おちないせいるさんにいみはあるのでしょうか」

「まるで
滑落するダメ人間みたいにいわんでください」

「しかし会話はまさにそんなかんじなんだが」

「ときに文月さん、あいかわらずすごいアクセス数よ」

『好き好き大好きっ』はおかしい」 
※当時『好き好き大好きっ』さんに、文月さんとこで公開中の代筆みしおさんが捕捉されていたのだ。

「文月さんとこから500は来てる」

「ということは文月さんとこはそれいじょうに」

「うちなんて、きのうからもう2000は越えてます」

「ひええ」

「くそう、
せいるさんネタを書く(正確には、世に広めるチャンスなのに!」 ※実際に会話してる時点は更新の機会を逸しつつあった。

「シスプリ考察本表紙初公開の
アクセス爆発のときには、トップにせいるさんの日記があったので、いきおいあまって表紙絵といっしょに紹介されたりしたねえ」

「狂ってるとか言われた」

「『さんばいはやいひと』の話とかでしたね。でもその『狂ってる』の半分は私(天野)とか全体の雰囲気に対してだと思うな」 
※ただし過半数を単独で奪っているのはせいるさんである。



「天野さん、ぼく(前回の日記で)いいこといってるのに」

「せいるさんいいこといってるねー」

「この日記からは
ダメなひとという印象しか残らないのはなんで?」

「それは『おいしい』という感情よ」

「そう……これが、おいしい……」

「いや、せいるさんはちゃんと
本質をついたコメントしてますよ!?」

「情熱こめてきたことを見せたいけどソレを自分で宣伝するのは恥ずかしい…というクリエイターの心情を見事に表現してます。
ぱんつで

「見事すぎるわ」

「あとごめん、本質をぱんつに例えたのぼくは
確かにダメだったとおもったよ!!」

「でも、あの流れであんな風に
みもふたもなくひっくりかえすのは、すでに芸の域だと思う」

「てんさいねえ」

「曲芸射撃でも的は外さないせいるさん」

「おそろしい子……!」

「『感想をもとめるのは恥ずかしいけど、もっとみてほしい!』という気持ちを
勝負ぱんつとセルフスカートめくりで表現してしまうなんて……!」

「さすが珍獣。にほんにいちこたい」

「『せっかく履いてきた勝負ぱんつ。これをめくってほしいわけですね!』か」

中途半端に的確なのが凄い」

「でもこれだと『スカート』という単語がないんで、ぱんつめくりみたいでは…」

「では
『「……勝負ぱんつ。これをたくしあげられてふゅふゅしてほしいわけですね!」に訂正希望』
 
※本文中の会話は基本的に転写であり、またせいるさんの言葉についてはほぼ完全複写であることは既に明記してありますが、上記の『』内に関してはことさらに、2005年1月21日午前1時20分42秒に発言されたログを間違いなくまるごとコピーしていることを、ここにしつこく保証します。

「せ、せいるさん、
つっこむところはそこなんですかっ!」

「そこだけでいいんですか!」

「あ、ちがうの?」

「・・・」

「天野さん、時々ぼくの
ぱんつに関する姿勢が正しくとらえてないからなぁ」

「それはきっとわたしの
潔癖中枢が拒否してるんだと思われます」

「せいるさん」

「なに」

「貴方、
ホンモノですね」

「それ褒められてるのカナ? カナ?」

「超ほめた」

「わーい」

「わたしも何度
『この本物野郎!』と罵りそうになったか」



「さて、ちょっと明日のための限界時間なので、そろそろ落ちますー」

文月さんの解剖(SSの感想)はまた今度ー。」

「ほいほい」

「お疲れ様」

「と言っても三箇所くらいしか言うことないけど」

「ぬう」

三発も急所にくらったら致命的という話も」

「まあ、(天野さんからの感想には)大概免疫あると思うけど…。
死なない程度のな!」

「だって、言わないと! 大事なことだし!」

「……それいうんですかほんとに。(笑」

「せいるさんには、話してあったねー」 
※かなりキツイ感想らしい

そういうところが天野さんは邪悪なんだよ(笑」

「せいるさんだって『ぼくにもあてはまるなあ』っていってたじゃん!」

「はい、文月さん。死にそうになったら右手をあげてくださいねー」 
※切り口を変えるだけである。

「鬼だし。(笑」

「ほいじゃーまたねー」



日々、
だいたい、こんな感じである。

おもてうらのないせいるさんの魅力がわかっていただけただろうか。







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2005.02.08 「其は恋に近く」


1/13に書いたことに、あちこちから反応があがっている。
これは、せいるさんによってこのへんにまとめられているが、この一件ではやはりSSライターさんや読者さんに
自分のスタンスをこうだと示してもらえたこと、それを知ることができたのが、なによりの収穫だった。否定も多く、また肯定もたしかにある。次いで感想に対する考え方も、先述の日記において自分で示すことができたし、それに対してもいろんなレスポンスをいただいている。自分がこう思う、ということを示せることと、それに対してこう思うという意見を参考にできるのは、ネットのありがたいところだ。

ただ、「だから何が正しい」という結論は出しようがないと思う。
それぞれがそれぞれのスタンスで創作活動をしているのだ。それは芸術活動であり、
芸術に「正しい」という概念は(いまのところ)ない。芸術にあるのは、ただ愛と美だけだ。動機としての愛と、結果としての美である。

もっとも、これを商売として成立させようとした場合は、利益をあげるための正しい基準が生まれる。今回の小説と挿絵の関係でいえば、もっとも近いのはライトノベルの編集・出版だろう。
「どう考えるべきか」という結論は、活動が商業か芸術かで、出し方が違う。まあ、これは今回かんがえないでおこう。

ただ、ともに人に見せるものである以上
「うまい見せ方」というのはあると思う。それを考えるのが「小説を書く」でも「挿絵を描く」でもない「本をつくる」という立ち位置である。



反応を拝見していると、SSライターさんから挿絵描きにあてた関係には、おおざっぱに
「ともにつくる」という姿勢と、「まかせる」という姿勢があるようだ。
圧倒的に多い後者は、絵描きについては、最初から選びに選んでお願いするし、この段ですでに信頼しているのだから、文句をつけるつもりはない、という姿勢。同じく、絵は小説単体には必要なく、絵の表現を借りなければ成立しない小説というのは、本来ないはず(ゲームノベルがそれかもしれないが)であるという姿勢がある。したがって絵については特に言うべきことはない。

たしかにそうなのだ。だが、なぜそこに挿絵が絡んでくるかというと、本になる上では、現状どうしても
目をひく要素が必要だからである。特にアニメ・ゲーム系の二次創作同人関係では、きらびやかな美少女が表紙に描かれ、挿絵も豊富で、パラパラと内容をみているだけでも挿絵から物語に興味を覚えそうな本と、表紙は単色で文字だけの本とでは、売上(またはメインである小説を読んでもらうという目的)において勝負にならない。後者はまず手にとってもらえないからである。

小説を書く、というところで完結し、そこにこそ全力を傾注する作家にとっては、絵のことは本当に望外のことだろう。自然とそれは「絵に対してとやかく言わない」というスタンスになる。今回のことでそれはよくわかった。

ただ、絵で目を引く小説本を作る、というスタンス、いわば編集・出版・販売・実績までを考えている人の一部には、絵に意見を欲しいという考えは肯定されている。この場合の絵は売るための道具かもしれないが、同時に軽くは扱えない大きな武器となりうるからだ。

目的は、いいものを作るということである。そこに向かって小説担当と絵描き担当が歩み寄れば、信頼関係も近しくなるし作品レベルも上がるはずだ。二等辺三角形の底辺の両端にSS書きと絵描きがいるとして、お互いがただ親しい友人として距離を保つだけでなく、頂点を目差して意見を交えつつ近づいていけば、本づくりを重ねるうち、高度な位置で融合できるのではないだろうか。

それが「ともにつくる」という姿勢であると思う。
わたしも、まこみし文庫シスプリ考察大全では、ここに立たせてもらっていた。

なので、先の日記に関しても、正確には「SS書きに対しての絵描き」ではなく
「ともに本を作るための絵描き」という立ち位置であったとあらためて思う。なので、1/13の日記には、このことを明確に示しておくべきだった。(もっとも書いてないおかげで幅広い意見が得られたわけだが)





そうして、まこみし文庫をはじめ、私はさまざまな小説本に挿絵(時には表紙絵)を描いてきた。

わたしは正直なところ
自作絵の方が好きである。自分一人で自由に描けるし、楽だからだ。だが、キャラクターに対する愛情をこめても、自作画では、結局は自分のために描いている、という位置になる。内部で完結してしまい発展がないのだ。

その点、まこみし文庫や考察大全などの
依頼画は、共通の目的のためにキャッチボールしながら、そして螺旋を描いて昇っていくような喜びがある。そして、依頼画というのは、お題をもらって描く「しばり」そのものも面白い。このおかげで、描き始めの位置と、軸的にも異なるより高度な位置で絵が完成するのだ。

それは拘束であり制限であり、自由な芸術活動とは違うのではないか、とも考えられる。
だがわたしは、いまひとつある依頼画の魅力を知っている。

それは(もちろん割り切った依頼もあるだろうが)「ともに本をつくる」というスタンスにおいてSS書きと絵描きの間にできる関係が、
恋愛に近いということだ。

このことは前からずっと思っていたし、今回の騒ぎでもあちこちで同様の見解があった。「SS書きは、絵描きに恋している」という言葉も散見される。ただ、ほとんどの意見がSS書き側のものであり、絵描きからのコメントが無いのでこれは
私に限ってと断っておくが、絵描きもまた、SS書きに憧れをもっているのだ。

わたしは絵を描く前に何度も読み返して原文を愛する。愛することはよく理解することに通じ、
理解したからこそ描ける絵がある。これは先月かいた少女の話に合わせて考えてもらってもいいだろう。原文のことをひたすら考えて準備し、本をつくるという「デート」に望むのだ。そして、できあがった本を見る楽しみ。顔がにやけてくるところもちょっと恋に似ている。だがそのあと、その情熱は、どうしても成仏を求める。それは同じく絵を愛し理解してくれたという原作者の感想によってのみ果たされる。そして、あんよさんをはじめ多くのテキスト書きさんは、わたしが惚れ惚れするような感想を書いてくれた。

眠ないで選んできた服を、ズバリその狙い通りに褒めてもらえたその女の子のような、そんな喜び。
それは、ほんとうに想いが成仏してしまうような感動だった。




あらためて、感謝とともに告白しておきたい。


私は、おもしろい物語を紡げるひとを尊敬している。

そして、おもしろい物語や文章に絵をつけられることがうれしかった。

絵が描けるからついでに描いてやったとでも思われていたら、それは心外である。
そんな気持ちで、たとえば一冊あたりに40枚もの絵が描けたりするわけがない。

いままで絵を描いて捧げたすべての文章作家に、あらためて告げたい。
あなたは自分の話に絵がつくなんてもうそれだけで素晴らしい、と思っているかもしれない。
だが、同時に私は、
あなたの描いたおもしろい物語や素晴らしい文章に絵をつけられることがうれしかったのだ。

わたしは喜んで挿絵を描いてきた。

あなたの話に似合うように。
あなたの話の助けになれるように。
あなたの話を、わたしはここまで読み解きましたと告白するために。



挿絵を描くきっかけに、そして感想をくれた方に、あらためて感謝を。

できれば、そんな風に「ともに本を作るため」に描いていける関係を大切にしたいと思う。
これはやはり、恋に似て喜ばしいのだ。










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2005.02.15 「絵と文章の立ち位置」


挿絵の話で思いの外ながく引っ張るようで恐縮だが、せっかくなので、もうちょっと余談を垂れておこうと思う。

「文章表現ではどうしても埋められない欠落を、挿絵がいともあっさり、綺麗に埋めてしまう。そのことにSS書きは畏敬の念を覚える」がゆえに、文章作家は絵の方を尊敬するという意見があった。

だが、テキストと挿絵について、わたしは
絵よりも文章の方が上位であると思う。
たしかに、読者にあたえるインパクトや、伝達性能自体は、絵の方が優位かとは思う。絵は、文章よりもプリミティブというか、原始的だからだ。

だが、
文章で伝達できるのはもっと高度なものだと思う。
そもそも、絵自体の力は、じつはそう大したものではないのだ。一度文章で説明された土台の上にたって絵を描くからこそ、その絵は理解されやすいのである。挿絵もしかりで、何の説明もなく、また二次創作であるとするなら一次の前提もなしに、絵だけで描ける範囲は、実際とてもせまいのだ。近距離戦闘用もいいとこであり、戦略的、あるいは長距離・広範囲にわたって影響を与えられるのは、やはりテキストであろう。

文月さんや、あるいはあんよさんも「絵にはかなわない」という意味の見解があったが、
挿絵に関して言えば、それは二次創作文章に対する三次創作であり文章の上にのっかった上での「ずる」なので、文章以上のものを表現できるのは履かせてもらってる下駄の分、当然なのではないだろうか。モトネタを知らずにわたしの絵をみても「なんか感じる」とは思うが、それ単体ではさほどの説明能力をもたないのは事実である。


そう前置きした上で「挿絵」には、文章作家とは違う個人(この場合は挿絵描き)の、そして絵という別次元の視点を提示することで、読者は一面的な理解ではなく物語を立体的に把握できる、いわば
作品に立体感を生み出す効果があると思う。

そして、まず何より読者の
内容理解を華やかにするものであるし、読書に疲れを感じた読者がひととき左側の脳味噌を休ませ右側を潤す、マラソンの給水みたいなものだとわたしは考えている。

実際、シスプリ考察大全の初版は、360ページにわたって延々と文章のみであり、内容こそ大いに読ませるものの、これの完読には無補給フルマラソンのような疲労感があったのだ。
最後まで心地よく読んでいただくためには、やはりあの枚数の挿絵は必要だったと思う。


マラソンで得られる感動はやはりマラソンそのものによるものであり、ドリンクは、その助けとして重要という位置でよいと、わたしは考えている。







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絵描きと管理天野拓美air@niu.ne.jp