スーパー・ロサ・ギガンティア
S.R.G.
(2005.02.05)
スーパー・ロサ・ギガンティア。略号はSRG。(後半がフランス語なので、あわせるなら「スーパー」ではなく「シュペール」だが)
高山みなみが声をあてた佐藤聖の先代のことを、便宜上こう呼称しよう。
彼女は「あの」聖のお姉さまという存在である。すごい人ぞろいの山百合会だが、すごいひとがさらに敬愛しているお姉さまが、ちょっと前の時代までいたわけである。
だが、当然、以前にはさらにそのお姉さまもいたはずだ。これを便宜上スーパー・スーパー・ロサ・ギガンティアと呼ぶ。
すると、当然SSRGのお姉さまもいたわけで、これを便宜上SSSRG・・・と、スール制度を単純な段階で考えるとすぐに人格者のインフレが起きてしまう。とりあえず初代の白薔薇さまのみ「ゴッド・ロサ・ギガンティア」とでも呼んでおくが、別に彼女らは、時代を遡るほどに神のごとき人格に近づいているわけではないだろう。そこにいるのは、まちがいなく一介の女子高生であり、ただの個人なのだ。
では、なぜ彼女らは人格者(あるいは尊敬に値する人物)に思われたり、なれたりするのだろう。
それは、姉という存在を、妹が作るからだと思う。
妹の前でよき姉でありたいと思う気持ちが「お姉さま」の背筋をピシリとのばすのであろうし、妹が居るからこそ「妹を善く愛する理想の姉」であることができるのではないだろうか。
くりかえすが、リリアンの生徒は誰しも、ただの女子高生である。とくべつな能力も人格ももってはいない。
だが、妹を愛そうとするとき、彼女は「姉」という立場に立つ。
妹のためにその位置にたったとき、彼女は「立派な姉はかくあるべし」という人格者になれるのだ。
しかし、誰しも、基本的な姉能力を備えているわけではない。それでも妹を姉らしく導けるのは「お姉さまから愛された」という伝統が彼女の中に残っているからだ。「姉」という立場に立てたとき、先代から受けたのと同じように彼女は妹を愛することができる。
その関係性のなかで、彼女らは受け取った愛情を実践し「ひとを愛する」ということを体得していくのだろう。
リリアンにおける愛の人格は、個人が装備しているものではない。
その伝統のなかで、受け継がれていくものなのだ。
そう、だからこそ思う。
SRGは、とても落ち着いていて、しっかりしたひとで、聖を愛してくれたひとだ。聖をはじめ薔薇さま方をみていると、その上位にあるひとは単純にスゴイ存在に思える。
だが、ほんとうは一介の女子高生にすぎず、彼女らにそれができたのは、ただ愛すべき妹がいたからなのだろう、と。
ところで、マーガレットコミック版の「マリア様がみてる・3巻」を読んだ。原作本の「いばらの森」に相当する巻である。読んでいて、ずいぶん前に「白き花びらレビュー」を書いていた頃の気持ちが甦った。
あのときにカットしてしまった話があるので、ここに書いておこうと思う。
「レビュー」では久保栞の事情を描いてみたのだが、その動機には、佐藤聖に対して「あなただけが苦しんでいるわけじゃないんだ」と言ってあげたい気持ちがあった。
だが、その感情はある台詞で清算されてしまう。
先代に栞の出立を告げられて、聖の口からでた言葉
「わたしに会いさえしなければ」だ。
人間は身勝手なものである。普通あの状況では「栞がついてきてくれさえすれば」と思ってしまっても、なんら無理はない。だが聖は、去らざるを得なかった栞のことをまず考えた。聖は栞にすがっていたと描かれているが、彼女も真に栞を愛していたのだ。でなければ、あんなことばは出るものではない。
あのときの聖に、どうして栞が来なかったのかなど理性的に考えられるわけがなかった。
先代が来るまでの間、彼女の思考はほとんど停止していたはずだ。栞がくるかもしれないという微かな望みにすがって、それを否定した瞬間に彼女がこないことが決定してしまうかのような強迫観念のなかに、聖はいたのだろう。あたかも栞がくるかどうかは、自分が彼女を疑うかどうかという戦いだったと思う。
だが、後の述懐では彼女がこないことを、脳の冷静な部位がみとめていたとも言っている。状況判断はできていたのだ。そして、聖はちゃんと分かっている。自分が水の中に引き込んでしまったことを。
そして、先代によって「久保栞はこない」という確定情報をもたらされたとき、はじめて聖の精神は動くことを許された。そのときの聖の言葉が「わたしに会いさえしなければ」なのである。
このとき、アニメ版では放送時間の関係か「ため」がほとんどなかったが、コミックにはひとコマだけ先代の表情がある。聖の言葉を受けての表情、そして優しい微笑み。それは慰めるための笑みでもあるが、同時に、先代は自分の妹が誇らしかったのではないか、と思えた。
栞を失った直後、聖はつよがったりもひねくれたりもしなかった。
まちがいなく一滴の余裕もない極限状態にあって出た、彼女のまごうかたなき本音。素直な聖の、栞を思いやる言葉。
その愛が真実かどうかは、その根が自己中心的な感情か利他的なものであるかで決まる。道はどうあれ自分の妹は真に相手を愛していた。それが、先代には誇らしかったのではないだろうか。
誇りに思えるような妹がいる。
だからこそ、卒業までの短い期間で、先代は聖を愛し抜くことができたのではないだろうか。
単独でもすごい人物であるように見えるアニメ版のSRGだが、一見して普通の容貌であるコミック版のSRGを見ていて、あらためて思った。
ロサ・ギガンティアは、ロサ・ギガンティア・アン・ブゥトンがいてこそ、ロサ・ギガンティアたることができるのだと。
わたしはそう思う。
ところで、上記の文章だと、なんとなく「SRGは、ホントは大したことない」とか言ってるように捉えられそうだが、それは違うと言い訳しておく。
SRGのことは、いつぞやでも書いたようにものすごく好きなのだが、それ以上に私は、このリリアンの「スール制度」というものを評価したい。
これは、体育会系でよくあるしごきやいじめの伝統が恨みとともに受け継がれていくという悪しき風習の、本来的に然るべき理想型なのだ。
このスール制度の良いところは、先述のような「愛し方の相続」にあるし、また、たとえばどうみても薔薇さまとしては力不足におもえる妹でも、その伝統の中に組み込まれれば位置に立たざるを得ず、結果的に役目を果たせることにある。最初のころ我々の代わりに驚いていた祐巳すけが、徐々に立派になってきているのは、祥子や聖から愛されてきた伝統が彼女の中にあるからだ。そこにいられることの幸運は、愛されることだけではなく、プレッシャーのかかる環境かもしれないが、確実に成長できるという点にある。そしてそれは、祐巳に妹ができたとき、はじめて定着するのだ。
彼女もまた、ロサ・キネンシスになり、そして伝説のSRKになっていくのだろう。
それが寂しくもあるが、リリアンのスール制度とはそういうものなのだと思う。
ところで逆に考えると「あの」SRGにもきっと祐巳のような時代があったわけで、姉や先輩から愛されながら立派になって卒業していったのだろうと思う。いや、そう考えると、なんか急に萌えますねというだけの話なのだが、どんなもんだろうか。
佐藤聖が敬愛する姉、という先代を前から描いてみたく、やはり尊敬するなら下から見上げる構図であろうと考え、こんな絵に。
なんとなくどこか(ガンダムSEEDあたり)で見たような角度になってしまったことと、あいかわらず色が変なことが反省点。いや、それ以前に、あのアニメ版SRGの完璧超人っぽさが出てないことと、関係性の中での姉なのに孤高に見えてしまうあたりが、適当に描いてた結果の失敗である。