絶望的な恋愛だった。明日なんか見えなかった。

les petales blanches

(2004.03.19・23)




アニメの「白き花びら」を見たあと、聖と栞の絵を描こうと思った。
しかしどうしても佐藤聖の顔しか描けない。
とりあえず、タイトルも、聖の心情にちかいものをつけてみた。

だがこのとき本当に描きたかったのは、後に描くことのできたこの久保栞の絵である。


佐藤聖が過去を語った「白き花びら」は、原作・アニメともに彼女自身の視点で描かれている。
一人称小説の「主人公の知り得ない情報は決して書かれない」という宿命的な縛りのため、もう一人の主人公・久保栞の内面については、あくまで聖の憶測でしか語られないことになる。そして物語自体は佐藤聖視点で、ひとつの表現を完了させている。

だが実際のところ、「白き花びら」において、栞はどういう心情のなかにあったのか。
作品が完了している以上、これを問うのは蛇足以外の何ものでもないだろう。だが、白い花弁の裏側にあって語られなかったもうひとつの世界、実際に対していた聖にすら「言いたいことが理解で きなかった」という別れのとき、栞がどんな気持ちであったのかを、この物語へのオマージュとして解いてみたいと思った。

久保栞の設定に関しては、やはり聖が語る情報をもとに推測するしかないのが現状だ。
したがって、原作とアニメから勝手な想像を膨らませるしかない。「解く」などと書いたが、あくまで筆者の受けた印象という、その程度のものとして読んで欲しい。





世を嫌い、居場所を探せず、自分がなにをしたいのかさえ分からなかった聖。
乾いた荒野を歩くように、彼女は途方に暮れていた。
そんな彼女が、お聖堂で会った久保栞にひと目で惹(ひ)かれてしまう。

聖は栞のどこに惹かれたのだろうか。
栞の事情は、くわしくはわからない。「小学校三年生のとき両親を交通事故で亡くした」という彼女が、どんな過酷な状況を通過したか。それは、聖の述懐にわずかに記されているだけだ。
そんな少女が、16才という幼さにして将来は修道院に入ることを希望する。リリアンへの入学以前、家族を失ったときから彼女はその道を目指していたという。

あくまで推測だが、彼女には両親を失ったとき、どうにもならないほど過酷な状況に立たされた経験があるのではないだろうか。具体的には何の資料もなく説明できないが、あるとすればそれは、おそらく絶望せざるを得ないような、逃げ出したくなるような状況だったと思う。

しかし、彼女はそのなかで信仰と出会った。
絶望のなかで出会った、彼女だけの神がいたのだろう。逆境にあって出会ったそれは、彼女を新生させた。感動の宗教体験。その詳細は彼女にだけしかわからないが、それまでの自分自身が生まれ変わるような喜びとともに、彼女は自分自身を捧げ、神様のものとなった。
家族を失い、寄る辺をなくした彼女は、逃避でもすがるのでもなくして、信仰に目覚めたのだろう。もし逃避を動機として選んだ宗教の道であったなら、より逃げ心地のよい存在が現れたら、たやすくそちらに流れてしまうはずだ。

その全存在を信仰に根ざして出発した栞という少女は、シスターになる以外の道を考えることもなく、信仰的喜びのなか、リリアンに進学する。彼女は、神様のもとへ近づく喜びの生活だけを、ただ一本のその道のみを歩くと信じていたのだろう。


そして、聖と栞は出会った。
彼女は、聖と同じような救われない状態を幼い頃に通過し、信仰によってそれを乗り越えた存在である。
だから自分と同じように地に堕し、そして救われた彼女に、聖は救いをもとめたのではないか。
二度目に会ったときの、すべてをさらけ出した聖の告白。理屈ではなく、魂が渇望した慰労の根源を聖は栞に発見してしまったのだ。

この世界で息もできずに溺れている聖は、岸にいる栞に。
あたりまえのように岸にいる(ようにみえる)リリアンの生徒ではなく、かつて溺れたことのある栞に。

「ただ一緒にいたい」
聖は、栞とひとつになることで救われたいと願い、彼女を求めた。
もし栞が聖のすべてを受けとめるほどの高度に宗教的な位置にいたら、あるいは聖を救えたかもしれない。だが、そんなことは実際、誰にとっても不可能なことだろう。

共通点を無意識に見いだした二人は急速に惹かれあう。うち明けることでうち解け合う二人。栞の事情にこころから胸をいためる聖。二人はお互いの事情や時間を共有しようとする。

二人の関係は同性愛のそれであると言われるが、実際には、同性愛者同士の出会いというわけではないだろう。聖は後に発言するように素質があったかもしれないが、それはむしろ初めて愛したひとが女性だったという、栞との出会いで思い知っただけかもしれない。
そして、栞は彼女自身の純粋な愛情の対象として聖をみとめたのだ。ふたりは、そうして惹かれあっていく。

だが、栞は決して盤石な土台の上に立っていたわけではなかった。
栞は聖よりは救いに近かったかもしれないが、決して安定した導き手ではありえなかった。
まだ16才という幼く不安定な少女である。彼女もまた岸でも水面でもない、いわば泥濘(ぬかるみ)にいたのだろう。
この状態で惹かれ合うことは、ともに落ちる関係だ。物語では性別を嘆く場面があるが、たとえ、このふたりが異性であったとしても、救いが認められる関係にはなりえなかっただろう。

秋。永遠につづくと思われた関係が崩れ始める。蓉子から「シスターになる」という栞の進路を聞いて驚愕する聖。ふたりはお聖堂ではじめて衝突した。
自分を岸にすくい上げてくれた信仰を大切にしたい栞。彼女の人生の根幹にあるのが信仰であり、彼女は信仰なしに彼女の生活も、彼女自身のことも考えることはできなかっただろう。それを捨てられるわけがない。
問いつめる聖。マリア様の前で、ぎりぎりで聖を拒絶する栞。

そして冬。親や学園によって引き裂かれ迫害されて、別々にいながらも逆に彼女たちの恋情は燃えあがる。
栞は愛するものに何もかも捧げてしまう娘だ。そして間違いなく聖を愛している。だが、聖とはどうあっても祝福され得ない関係にある。

学校からの呼び出し。ながく会えなかった日々。
そしてミサの後の再会。瞬間に燃え上がった情熱が信仰を駆逐した。


彼女は聖とともに溺れ死ぬことを選んだ。


愛には盲目的な突破力がある。そこが滅び以外に行く先をもたない道であるとわかっていても、彼女はそこに飛び込まざるを得なかった。自分でも抑えが効かないおおきな力によって、巨大な波に呑まれざるをえなかったのだ。

遠いところへ逃げようと言う聖。あまりにも魅力的なその申し出。もしそうできたら。もしそこで幸せに暮らせたらどれほどいいか。
たとえそれが一瞬の幸福でもいい。それでも自分には永遠に匹敵する価値があると、聖は思っていたろう。おそらくは、そのときの栞も。

だが、絶望から逃げても決して救いはない。栞は、かつて信仰を持つ前に自身が陥った、あるいは陥りそうになったことと同じ罠がそこにあることに、途中で気がついたのだろう。
修道院に入ることを決めたそのときの決心。神様を愛し、人を愛そうと誓った祈りがよみがえる。

聖とともにいきたいという狂おしいほどの情熱と、それこそが自分だけならまだしも聖を破滅させてしまうという事実。二つの巨大な力に、彼女の胸中はすさまじく軋んだ。

半身をもぎとられる苦痛は、栞も同じだ。
そのなかで、もし揺れている自分がいま一言でも聖と言葉を交わしてしまったら。
このバランスはあっけなく崩壊する。ここまで来てしまったのだ。一度流されてしまえば後戻りは不可能である。ただ真っ逆さまに落ちていくだけしかない。そこに幸せなど、あろうはずがないのだ。

血を吐くような思いで、踏みとどまる栞。M駅ホームのベンチに座っている聖を、どれほどの想いで彼女は見ていただろう。自分と同じようにうちのめされ、震えている彼女を。できることなら、いますぐ駆け寄って暖めてあげたい。でも、私はそれをしてはならない。

彼女の本質は信仰に根差している。だが、聖についていかなかったのは、彼女の愛こそが動機である。それは厳密には信仰による愛ではなく、ましてや怯えなどでは決してない。

会うことはできない。でも、この想いを、どうにか伝えたい。
そこへ聖との接点である蓉子が現れたのは、はたして偶然だったのだろうか。それは後述するとして、駅で手紙を書かせたのは、彼女の思いつきでもあり、栞自身の望んだことでもあったのだろう。

もし、彼女の気持ちが整理されていたなら、これでいいとクールに割り切れていたなら、手帳にビッシリと思いを綴るようなことはできない。また、迷いがあったとしたら、論旨があやふやになってしまっただろう。

聖のもとにとどいた手紙。それを書かせるために蓉子があらわれたのは、栞が聖のもとを去る決断をした直後、最後の未練を断ち切った後だったとおもう。

もし、栞が聖のことを省みず、あるいはこの土壇場で自らの欲望にまかせて逃避行を選んでいたら、蓉子は彼女を見つけられなかったろう。ここが最後の選択肢だったはずだ。破滅をもたらす悪魔につかまったふたりは、友の助けのとどかぬ速度で、いばらの棘(とげ)成す地獄に投げおとされたはずである。かつてのセイとカホリのように。
栞が、聖のために身をひくと決意したその瞬間に、栞を導いてきた神が、栞と聖をまもるために蓉子と先代を動かしたのだと思う。でなければ、どうやって蓉子が栞を捕捉できたというのか。

もし、栞が中途半端なまま逃げていたら、聖や聖との未来を恐れて逃げていたら、聖はうちのめされたまま曲がってしまったのだと思う。栞を失ったという傷口から、血のように流れでようとする涙を必死にこらえる聖のもとに、まさにあのタイミングでふたりが駆けつけ、護ることができたのは、栞が聖のぶんの痛みをも引き受ける決意をしからだ。神様が、それを理由に先代と蓉子を動かしたのだと考えたい。

彼女自身のあずかり知らないところとなってしまったが、栞はけっきょく聖のことを救ったのだ。



卒業までの期間、お姉さまに愛され、それを聖はしっかりと受けとめた。
卒業後に、志摩子との出会いで彼女が変わったのは、それまでの愛される立場から、愛する立場にたったからだろう。愛されることで満ちた思いは、次いで愛する喜びをもって安定するようになる。栞が聖を愛したことが、そして先代の愛情が、彼女のなかで生きているのだ。

ただ、聖が抱きつき魔になってしまったのは、やはり寂しいからだと思う。
そして祐巳にだきつき、志摩子に抱きつかないのは、志摩子があまりにも栞に近いものを持っているからだろう。一種の恐怖であるといっていい。そういう意味では、彼女のなかに傷は残った。

だが、傷はかならず癒える。
その傷は、よかったと思える未来を、かならずもたらす。
それは、何十年かの時を経て再会した、もうひとつの聖と栞が暗示してくれているのだ。

リリアン女学園の伝統の中で、姉に愛され、妹を愛す。その流れの中に彼女たちがいる限り。



いまの聖を、どこか遠くにいる栞にみせてあげたい。
あの冬、東京を去る列車のなかで、胸がつぶれるような罪悪感に苦悶したであろう栞に。











最初に原作「白き花びら」を読んだときは、それほど感動しなかった。
だが、二回目でなにか大切なものをえぐられた。どうにか絵にしたいと右往左往した覚えがある。
そしてアニメ。声の演技による破壊力倍増。だが、そのなかでどうしてもハッキリしないのが栞の気持ちだった。

ただ表層を眺めるだけでは、栞という存在は不透明である。彼女自身が信仰という理解不能な世界に生きているということで、多くの場合は事情の推察を放棄されてしまう。どこのレビューをみても、たいていそうだった。
わたしは一度、アニメを見る前にそのままの状態で久保栞を絵に描いてみたことがある。だが、さんざん線にまよったあげく、けっきょく絵にならなかった。
アニメを見た後にも挑戦したが同じである。わたしも彼女がなにを考えてそこにいたのか、ほとんど分からなかったからだ。

彼女の視点から描いたこの物語が必要だと思った。それがこの考察(というかレビュー)を描いた理由である。

推察でありながら、断定口調で描いている部分が多いのは、単に文体のくせである。当たり障りのない表現で濁してもよかったが、どうにも伝わらない気がしたので、そのまま描いた。これは私の中の推論であって、決して事実関係ではないことを、念のためにお断りしておく。


久保栞の絵は、いまだもって描くことができていない。
同じキャンバス上で描いていた聖の絵だけが残った。

次の休みまでに描くことができたら、このページのトップに並べておこうと思う。

(2004.03.23 00:20 久保栞の絵(表情のみ)を更新・トップに並列)
(2004.03.23 12:20 完成絵を更新・レイアウト変更)



最初に描いた聖。「絶望的な恋愛だった。明日なんか見えなかった」はこの絵につけた言葉。














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