■ 2005.10.24 「ものすごくいまさらな感じの2005年夏のコミケ日記・1」 日記の書き方にはいろいろあると思うが、なかでも私がメモを頼りに日記を書いていることを、ある深度のお客さんは知っているだろう。 メモに書かれているのは、 実際に起こった「現象の記録」と、 誰かが喋った「会話の記録」と、 そして様々な事象をみて天野が思ったり感じたりした「感慨の記録」である。 メモには、これがごく簡略化した単語で記録されているだけだ。なぜなら自身が経験した事実であるだけに、単語を頼りに思い出し、再構築すればだいたいの記憶は文章として復元できるからである。 ただ、ここで再構築された日記が、はたして正確かどうかについてはふたつの要素が絡んでくる。 すなわち、天野は再構築の際に「日記の創作」(ツッコミ禁止)に都合のよい事実をより積極的に膨らます癖があることと、しかも「なんかひと味たりねえ」と思ったら「調味料程度」と称してあきらかにレシピに書かれてない異物を意図的に混入したりすること。あまつさえ、あくまでそれが事実からどれくらいはみ出しているかは天野の良心に委ねられていること。そして付け加えると、経験からあまりに日が経ってしまったため、どう再構築するのが正確なのか本人にもわからないことがあること。 特に最後者の場合「どうせ真実は自分にもわからないのだから面白い方が読者のためでは・・・」という方向に落ち(逃げ)込みやすいことを付記しておくが、これから書かれるすでに2ヶ月が経過したコミケについての日記は、だいたいそれくらいの信憑性であることを、あらかじめお断りしておく。 今年のコミケは、当日出発である。というか当日と翌日の二日やすみを取るのがせいいっぱいであった。 昼の12時ごろ現着するよう出発する。前の日が店舗駐車場の草刈りで寝不足のためボンヤリするかと思ったが、興奮で眠気はなかった。 この時間だと、ビッグサイトにもすんなり入場できる。サークルスペースまで行き、まずはこの夏に原稿や委託での関係者である、せいるさんとか、広瀬さんとか、依頼を断ってしまった峻さんとか、あちこちに挨拶をした。今回参加させてもらった同人誌は、パン食グランギニョルさんの「夢の終わりに君を願う(表紙絵・口絵)」・みりんぷれいすさんの「Dolls Polyphony (もりたさんの小説に、扉絵・挿絵)」なのだが、肝心のサークルスペースの方は、日や場所が遠くて見に行けなかった。ほか知り合いのスペースを回ったが、彼らも挨拶に出ているのか、けっこう空振りである。 せいるさんのサークルスペースで休んでいると、ジャンクヤードの林氏から声を掛けられる。挿絵についての日記に反応してくださって、少しメールでやりとりしただけだった人から声をかけられたのは驚きだった。ほとんど偶然いただけの場所なのに幸運だった。名刺をいただいたのが、なんとなく年賀状に似た気分でうれしい。オンライン上の友好関係と、まとめて実体で会う機会というのは、やはり我々の場合はコミケだろう。年に一回(もしくは二回)ここでしか会わないという関係も多いに違いない。初詣とか年始の挨拶みたいなものにある意味で例えられると思う。 他にも、鉄子さんとこのみささぎ教官や、くわねさんなど、イマイチ顔とハンドルが一致しないながら談笑して過ごす。ところで「ペルシャ湾に派兵されてる知り合いの自衛官に頼まれたから」とリスト片手にサークルをかけずり回っていたのは誰だったろう。オタクというのは、ホントにどこにでもいるものである。 ところで、夏のコミケは、とにかく暑いとか匂いが凄まじいとか聞くが、正直それほどでもなかった。 不快といえば、それはむしろ「辻汗」であろう。 ちなみに「辻汗」とは、場所がらか全身に汗びっしょりな参加者同志が狭い通路を歩くとき、すれちがいざまに本来ぶつかるはずの互いの剥き出しの腕が、汗で「ヌルっ」と潤滑されてしまう現象を言う。まさに「辻汗」である。 経験のある人にはわかると思うが、両者ともに熱帯雨林な体質だと、一瞬、ハイドロプレーニング現象かとおもうような見事な通過がある。見事と言っても、お互い理不尽に忍耐するような嫌な気分になることは変わらないのだが。 まあ、これは私の方も原因側なので文句は言うまい。むしろ言われる方だろう。 さて、今年は前日にカタログチェックもしていないので、目当てのサークルさんは少ない。 なのでむしろ「発見買い」を狙って絵やテーマが目につくブースを回る。 単純に絵にひかれて手に取り、内容を確認して買うという作業をしばらく続けた。しかし表紙がいいのに中がしょぼいというのはやはり多い。 「表紙に半裸の女の子を丁寧に全力で描きましょう。中身は落書きで充分です」という風刺のけっこう刺さってしまう本が多かった。 せっかくコミケで本を売るんだから、もっと丁寧につくればいいのに、とはいつも思う。 まあ、わたしももっと手を入れた絵が描けそうなものだから、人のことは言えない。 途中で島本和彦先生のブースに遭遇した。生まれて初めて、敬遠していた壁サークルの行列にならぶ。というのも、ブースの奥に島本和彦先生本人がいたからだ。 OVA「炎の転校生」の映像特典でみたまんまのお姿だった。 もっとよく拝見したかったのも並んだ理由だが、それ以上に本を買う決意があった。 先生の本には、なんども救われた憶えがある。直接の面識はないが、先生はわたしの魂的な命の恩人だ。 それもあって、わたしは先生の本はすべて買う主義である。当然、ここでも売られているものは全て買った。 普通に書店で買える以外の本が手に入ったことが、単純にうれしい。 コミック担当などやっていると、一般に流通する本はほとんど手に入る。なので、そこに流れない本は段違いに魅力的に見える。 島本先生のところを通過して、なんとなく蒸気が抜けた感じになった。ややまったりとサークルスペースを見て回る。だいたい、島の端をながめつつ歩む感じだろうか。知ってるジャンルがあると島の中のほうまで入っていく。 そんななか、島の中程ですごくセンスのいい、Kanonのポストカードを発見した。画像データ集のCDRもいっしょに販売されているので即購入。あとでしみじみと見返したが、やはりすばらしい出来だった。サイトはないらしいが「LOOSE LEAF」というサークルの「andante」というディスクである。アクセス数の膨大なとこや、壁や名の知れた大手以外にも、わりと平凡な扱いのスペースにもメジャーではないが個性の光る面白いアイテムがあったりする。こういう出会いがあるから好きだ。 目当ての本が入手できて余裕ができてくると、会場でのコスプレが目に入るようになる。このころには余裕もあったので、背の低いイリヤ(Fate)がひょこひょこ歩いていたり、ホンモノかと思うようなメイドガイ(仮面のメイドガイ)がのっしのっし歩いてるのを見ているだけで、なにとはなしに癒された。 そういえば、去年の話だが、F店のバイトが、雑誌に載るくらいソックリな、デスノートのLのコスプレをしていたらしい。今年はなにやってるか聞けなかったし、広場にもいけなかったので確認はできてないが、彼女もきっと会場にいただろう。そういえば、彼女の相棒でシャレにならないくらいにものすごくよく似ている「リューク」がいるという話でその人間ばなれっぷりを見てみたかったが、残念だ。 コスプレといえば、どっかのスペースで、憔悴しきった顔で握り飯をもそもそ口にする有彦(月姫)と凛(Fate)が並んでるのが、実に味があってよかった。なぜかふたりとも両手の指でおにぎりを支え持ってて、同じタイミングでついばむようにたべてたのを、おもわず足をとめて眺めてしまった。なんというか、二人とも目が死んでいて、ものすごくシュールだった。 半分以上が島本先生の本でトートバッグがいっぱいになったころ、撤収の時間が近づいてきた。関係各所にお別れを告げる。買い物を確認したが、想定外にたくさん買った。そして予想外にいいものが買えたと思う。島本先生関係とFate系を除くと、わたしの買い物はおもに画集だ。同人誌を、絵を目当てに買う場合、「自分好みの画風で、自分より上手い絵のひと」という基準で線を引いていて、そこから選んでいるのだが、いや、なんというか改めて世の中には上手い人がいっぱいいるなあと思った。技巧もセンスもすごい人が、ホントにいっぱいいるのだ。ネットとはやはり違って現実的にそれが分かる。即売会ならではの感慨だった。
■ 2005.10.26 「ものすごくいまさらな感じの2005年夏のコミケ日記・2」 さて、帰りの道連れは、サンフェイスさんである。 いつもなぜか西日暮里にホテルを取るのだが、その近所のルノアールに退避してサンフェイスさんと話す。 まずは、新刊「夢の終わりに君を願う」のポストカードをお渡しした。「ポスターに使いたい」と言っていた美鈴さんに原画を渡すついでに刷ってもらったポストカード版である。 背景は、描いたときは湖らしく描けたと安心していたが、コミケの熱もおちついて今みるとゴルフ場みたいだった。 「夢の終わりに」を挿んで、いろいろ語り合う。 筋肉少女帯の歌でこういうイメージの曲があること。レイ・ブラッドベリの「みずうみ」もこんな雰囲気に通じること。その「みずうみ」は、湖で死んだ初恋の少女と少年が出会う話とのこと。そして、月光、湖、少女というのは、サンフェイスさんにとっても弱い組み合わせだということ。 「この絵は、ジュンの視点で感情移入して見る情景だから、ホントは真紅の後ろ姿を、我々はみているはずなんですよね」 そんなことをポツポツと話す。徐々に絵の中に分け入りながら、話はつづく。 年齢を重ねると、いまと昔が連続してないような、そんな感覚が不意に襲うときがある。 今は今だけでここに取り残されていて、過去がまるで別の島のように離れて浮かんでいる距離感。 ふと、記憶の中に沈んでしまった、あるいは置き忘れた一瞬みたいな情景がどこかにあったような、そんな気がするのだ。 ノスタルジックな絵に、いろんな目にあってきた男がひかれるのは、きっとそのせいだろう。 置き忘れたその情景や同じ匂いの空気を、そこに感じ取ってしまうのだ。 それに似た感慨が、この絵から感じられると、サンフェイスさんは言う。 わたしの他の絵のいくつかにも、そんな匂いがあるらしい。他のひとからも似たようなコメントをもらったことがあるが、記憶の不連続面に埋もれた何かという観点からは初めてだった。 ただ、これが写真だと、逆にやりきれなくなるときがある。 写真は、一切の譲歩も許しもなく、ごく正確に、そして残酷にその時間を写し取ってしまうからだ。 過去の、そしてはっきりした情景は、逆に断絶を強く感じさせる。 断絶を知っていて、昔のことだと分かっていて、それでも触れていたいと思うせつなさを、写真の残酷な正確さをもたずにそこにとどめるのは、絵の役割だ。 さわっても痛くない柔らかさや許しが、絵にはある。そしてそれを意図的に描き出せる手段でもある。 自分が絵描きであることからも、ノスタルジーを感じる絵が生まれる理屈はわかる。写真では出せない匂いが、絵では出せる。 だが、サンフェイスさんは、それでも写真で、ノスタルジックななにかをたくさん撮ってきている。不思議だ。 彼はどんなふうに写真をとっているのだろう。絵描きとカメラマンは、やはり何か違うのだろうか。 絵描きは描かれる情景に感情をこめて描くが、サンフェイスさんは、写真を感情移入して撮ることはないという。 彼は写真を撮ることで「思い出す」のだと言う。 無自覚に得ている感情、思い出していない記憶、明確になっていない表現欲。 自分の中にあった、意識にも昇らない不可視の愁訴のようなものの「これを求めていたんだ」という訴えが、なぜか現実を切り取っただけの写真に出現することがある。 正確には、シャッターを切った結果と現像後に出会って、撮影者もしくは鑑賞者は、自分の求めていた判然としなかったものをそこに「思い出す」のかもしれない。 どうやるのかは、わたしにはわからない。サンフェイスさんは、ある程度は意図的にそれができる人なのだと思う。彼の写真からは、不思議と郷愁に似た感覚を呼び起こさせられる。これも魔法の一種だろう。 そして「写真は二次創作だ」とサンフェイスさんは言う。 それはきっと、自分自身の内面を一次とした、二次創作なのだろう。 そしてそれこそを、創作というのかもしれない。
■ 2005.10.28 「ものすごくいまさらな感じの2005年夏のコミケ日記・3」 ホテルで汗を流してから、せいるさん主催の飲み会に出席する。 前日にあった飲み会と場所を間違えていて、遅れて参加することになったが、着いてみると宴もたけなわだった。ぱんつの話で。 「せいるさんから、おみやげに紙袋をもらったんですけど、サークルスペースで開封してみると、これが、あの、ちょっとその場では袋から出せない種類の『白』な『綿』で・・・」 「せいるさん、また関係者にぱんつ配ったのか」 「ふふふ」 「というか、せいるさんイベントで人と会うたびごとに、名刺みたいに配ってるよね。毎回ぱんつ買ってるの?」 「今回も『し@むら』で。領収証も毎回発行してもらってる」 なぜか自慢げに語るせいる氏。 「領収書? 『まこみし文庫』でですか」 「ええとね、今年は『小学館』!」 「やめとけ」 「いいや、そして来年は『ば@スィー』で! 但書には『苺ましまろ作画資料』か『アナ・コッポラ専用』とか書いてもらう予定!」 「あー、オレも恥ずかしい本かうとき領収書で『ビジュアルアーツ』とか名乗ったことがある」 「逆に、アスキーの社員は『上』と書いてもらって、それを『キ』になおして『アスキー』にするって話があったな。こっちは社名隠しだけど」 「アニメの『苺ましまろ』は素晴らしいんですが、唯一、テレ東規制でぱんつがでないのが・・・!」 握り拳ふるわせて悔しがるせいるさん。 「ぱんつは素晴らしいのに!」 焼き肉テーブルがバシンとばかりに叩かれ、ぱんつ神の演説がはじまる。 「ぱんつは創作の助け手ですよ! 創作に行き詰まったらぱんつを被るんですよ! 創作の女神はぱんつのまたぬのに降り立つのですよ! 具体的には布のよじれ具合のその陰にですよ! よく目をこらせばバイストンウェルくらい覗けますよ! 見えない場合は、そうです匂いを嗅ぐんですって、ちょっとみんな引かないで! もしもーし!?」 今回の飲み会は大人数なので、あちこちでいろんな話が進行している。たいていが取り留めもない話だ。 「男性で女性心理がわかるひとのなかには、実はちっこい女の子がはいっているのではないかという説が最近有力なんですが」 「そうなんですよ。天野さんや高橋むぎさんには実は背中にジッパーがついてて、1人になると「ぷはーっ」って言って姿をあらわすんです」 「『オタの男の子の真似をするのも大変だよー』って」 「ちなみに、天野さんのなかの娘は、かみのけ青色です」 かなり取り留めがない。 「ところでせいるさん『トロンボーンの擬人化』はどうなったんですか」 「いや、人のついていけない方向性の話は書くなって、ある人に釘をさされたので」 「いつもおもうけど、神様じゃないと言えない台詞だよね」 「トロンボーン擬人化って? スウィングガールズの?」 「いや、関口さんは実はアキバ系な訳ですよ。で、友子達がイベントに連れてこられて、ブースを出してる関口さんがそういう本描いてて、『ダメっ、そんなトコ吹いたらヘンな音出ちゃうっ』とか――。そういうお話」 「・・・・」 「あー」 「なるほど、ついていけないな・・・」 「それは、いったいどこの国の萌えですか」 「国じゃなく、これはもう星のレベルだよ」 「綿の国星」 「いま誰か悲しいくらいうまいこと言った」 「その星では、綿すなわちこっとんが市場価値なんだよー。従って通貨は一般的にこっとんぱんつ。同人誌の売買もこっとんぱんつで。壁サークルになるとテーブルの後ろに段ボール箱が口開けておいてあって、そこに無造作にお客さんから受け取ったこっとんぱんつが放り込まれてたり、造幣局ではぱんつが製造され、政治家の賄賂にも使われてて和菓子とかおにぎりにぱんつが握り込まれてたりするんですよもちろんぼくはそのまま食べますがって、ちょっとみんな後ずさらないで! もしもーし!?」 そして、せいるさんが「ドロワーズの裾の部分はゴムじゃいけないんです!」と、かぼぱん談義(かぼちゃぱんつについての討論)を締めくくったあたりで、宴会の第一次が終了した。 ひとまずの解散である。会計をすまして店を出、ゆったりと駅までの道を歩きながら、せいるさんが自慢げに天野に言った。 「今日は、はじめてのひともいっぱいいましたから、ぱんつの話は抑えましたよ!」 まだイケる。天野さんはそう思いました。せいるさん「で」まだ充分に爪は研げる。 もうイイ時間なので、年輩組はそれぞれのホテルへ。そして「ホテル代がないから」と徹夜カラオケに向かう組を見送った。若いってすごい。 休むつもりだったが、まだ時間があるので、アンナミラーズへ。 アンミラといえば、制服が有名だが、それ以前に、とりみきとか火浦功とかゆうきまさみあたりが好きな私には、彼らが好んで集まった店という認識だった。来るのは初めてである。見た途端にとりみきとか火浦功とかゆうきまさみあたりが吹っ飛んで制服の素晴らしさだけに感動した。 せいるさん、風見さん、せあらさんの偉いひと3人は今日の反省会らしきものを。 天野はラックラックさんがこのコミケで出した100円イラスト本のデッサンを「肩関節の構造がおかしい」「女の人の服は、あわせが逆なんだよ」「二人の構図で、片方は下からのパースで片方が正面になってる」「この角度だと眼球はこうなるはず。角膜が盛り上がっているから瞳孔は反対側に引っ込む」など、遠慮なくズバズバと切り刻む。 人体のデッサンをなおしているので当然のように半裸の女性の絵を描いてるわけだが、そんなテーブルに何度も珈琲を運ばなければならなかったウエイトレスさんには、とりあえず同情しておく。 骨の位置や、女性の着る衣服の構造など、勘違いを正すところからはじまり、骨格やパースの指摘。 絵の上にコピー用紙を重ねてデッサンを取り直し、比較検討する。 思えば、前はそれすらできなかったが、いまは修正でどうにかなる位置まで登ってきている。 ラックラックさんもコピー誌ではあるが、売る本を作れるところまで来たんだなあと感慨深い。 11時ごろだろうか、閉店になり解散。ホテルにもどり、同人誌を読みつつ就寝。明日は秋葉原よって広瀬さんと帰る予定だ。
■ 2005.10.30 「ものすごくいまさらな感じの2005年夏のコミケ日記・4」 思えば、前回いきなり書かれていた広瀬氏だが、彼はKEY系やFateのSSを書いている大学生で、今回のコミケにもサークルで同人誌を発行している。せいるさんからのつながりで、先日の飲み会にも来ていた。だが、夜想曲のことは以前から知っていたらしい。帰りの新幹線が方向いっしょなので、最終日にはつき合ってもらうことになったのだ。 予定通りにホテルをチェックアウトし、秋葉原で広瀬さんと合流。彼の、コミケにサークル参加してそのまま徹夜でカラオケして秋葉原へ、というこの若い体力のすごさに驚嘆しつつ、駅から繰り出して見た光景は、なんというか コミケ四日目という様相だった。 具体的には「とらのあな」で同人誌を買う先日とまったく同じ客層の行列ができてることと、それをさばく店員の姿が。 「とら」をあきらめて、あちこちに寄ってから「じゃんがららあめん」にて昼食をとる。大昔の水玉螢之丞さんの漫画で「秋葉原に来たら、じゃんがららあめんの『全部』」と描かれていて、そのころから憧れだったのだ。ちなみに「全部」とは、メニューに書かれた膨大なトッピングアイテムをぜんぶ乗せるというオーダーである。実際、天野はとても食べられなくて数種に控え、「全部」をたべたのは広瀬さんだったが。 秋葉原をぶらぶらしつつデニーズで休憩し、広瀬氏と、創作のことや、彼が夜想曲とであったいきさつ、KEYやTYPE-MOONの次回作への期待のことなど話す。 それと、広瀬さんの作品についての感想を求められた。いつぞやの日記から期待されてるらしい。ホテルにいるうちに読んだ分をこの場で少しと、帰りの新幹線で広瀬氏の新刊を読み、その場で感想や、表現の世界について話し込んだ。否定したところも多く、切り刻まれたような感じだと思うが、広瀬氏はめげずに違和感を覚えた部分を聞きたいという。彼のこの素直さは美徳だと思う。 昼のラーメンもどうにかこなれてきたのでデニーズを出発、メロンブックスを冷やかして、広瀬氏と会うことにならぶ本日のイベントである「武装商店」へ赴(おもむ)く。 武装商店とは、だいたい火縄銃くらいの時代までの刀剣や装具の模造品を販売している店で、実は出発まえからいきたくてウズウズしていた。物語やRPGなどで見たような武具が、あくまで装飾品としてだが、販売されているのだ。 狭い階段を昇った先にやはり狭い店舗があり、その壁一面に、映画で見たような西洋剣や、坂本龍馬の愛刀レプリカや、手裏剣、鎧、斧、槍、古式銃、はては琥珀さんあたりが持っていそうな仕込み竹箒などが並べられている。あと、火縄銃と書いたが、銃器に関してはそこから一気に飛んでなぜか対戦車ミサイル(RPG-7)まである。手に取ると、どれも鉄材を使用しているため重く、レプリカながら本格的である。 天野はそこで、テンプルナイツの剣(武装商店さんに画像がないので山海堂さんより)を購入した。 ところで、日本刀(の模造品)は天野の実家でもある岐阜県関市でほとんど手に入るという。 西洋のものは、刃が引いてあって斬れないとはいえ、それでも一般空港で刃物の類を輸入するのは難しいのだが、なぜか関市経由だと手に入る舶来の刃物もあるらしい。かつて世界の三大刃物都市と言われ、その生き残りである関市には、まだイロイロと融通のきく闇っぽいコネクションがあるのだろうか。 ちなみに、西洋刀は国内に加工業者がいないため、スペインから仕入れるのだそうだ。 セイバーの剣とか、干将・莫耶などのオーダー(ともにFateネタ)は、ちょっと難しいらしい。国内であればまだよさそうなものだが、スペインとなると気軽に発注はできそうにない。思えば日本ではちゃんと、るろおに剣心の逆刃刀とか作られているだけに、理解と市場はあっても技術のないのが残念だ。 さて、件の剣のお値段は18000円。ポイントがもらえたので「ひのきのぼう(3G)」に換える。薪雑棒(まきざっぽ)の表面を火であぶって固め、焼き印を押し、なめし革を巻いて握りにしたものだ。こういうのを用意してる遊びが楽しい。つきあってくれた広瀬さんと、あとmanieraさんのおみやげにする。 剣の会計が終わったのと、新幹線の時間までの余裕がピタリだった。いざ東京駅へ。 袋いっぱいの同人誌と、もとからもってきた着替えなどの鞄、そして細身とはいえ鉄のカタマリである刀剣(段ボールで梱包されている)。持てるだけの荷物を持って移動してるような天野を広瀬さんが「重くないですか」と気づかってくれる。だが なんだこの充実感は・・・! 天野はこのとき、よろこびに震えていた。 右手に男の魂(剣)。 左手に美少女(同人誌)。 オタの魂が、だいたい一年分くらい満たされている。ぜんぜん平気な自分を観察してみて、自分が何を原動力に稼動しているのかイマサラながら分かった気がした。 そうこうするうちに、名古屋駅に到着。ここでお別れだが、広瀬氏は好青年だった。 さて。 名古屋駅で広瀬氏と別れて、manieraさんと会う。実に久しぶりだ。東京のイベント帰りでは、たいてい名古屋までくるとかなり気が抜けるものだが、出発の朝から上がりっぱなしのテンションがいまだに落ちない。ここまで持続しているのは、たぶん剣のせいだろう。 でも、実際のところは体力が底を洗いかけている。カラオケへ行くつもりだったが予定を変更し、manieraさんの部屋でダベる。しかし彼の部屋は不思議と居座ってしまう魅力がある。なぜだろう。 さて。 駅構内から振り回したくてしかたがなかった剣を、ここで抜く。 真剣にウズウズしていた。ああ、いまここで「けけけけけけけけけけけけ」と笑いながらコレ抜いて振り回したらポリスが何人くらい飛んでくるかなあと、名古屋駅の天井の高いエントランスでふと思った。 そういえば渋谷のスクランブル交差点での話だが、ヤクザ然とした男がやにわに日本刀をぬいて、歩行者横断時に交差点の真ん中で振り回すという映画のワンシーン撮影が、エキストラ無しでゲリラ的にされたことが昔にあったらしい。このため駅前は大パニックになり、それ以後、渋谷駅での映画撮影には警察から許可が下りなくなったという話を聞く。そのため現在までの渋谷ロケはすべてゲリラ撮影なのだそうだ。大衆のリアルな反応を撮影したかったのだろうが、迷惑な話でもある。私もやめておこう。 理性がそんなエピソードまで動員して抑え付けにかかるが、実際のとこ秋葉原からこっち自制できたのは広瀬さんの心配そうな目があったおかげである。ライオン丸の鎖みたいなものだろうか。 それはともかく、段ボールを解いて、木鞘の長剣を取りだす。ニタリと帝愛グループの会長みたいな笑い方をしてから柄(つか)を握った。 じゃららら・・・んという鞘から刀身を抜くときの音に、思わず魂をぬかれそうになる。「げんしけん」の田中氏も「この音がいい」と言っていた、あの音である。 しゃららら・・・・チン、という剣を収めたときの鍔鳴りがまたイイ。 「んくはぁ、たまらん・・・」 「うわあ」という顔で、半分ほど脱魂した状態でメロメロになってる天野を眺めるmaniera氏。 購入したのは、両手で握る長大なダブルハンドソードではなく、左手で盾を保持した上で使用する片手刀だ。前者の方はデザインが露骨すぎて避けたのだが、片手剣の、この細身ながら「カタナ」ではなく「ブレード」としての主張がちゃんとしてる造形がいい。西洋刀には時代に応じたスタイルがあって、基本は軽装の鎧に盾と片手で扱える剣だったそうだ。これが鎧の発達によって盾の代用になる硬度が実現したため、両手で扱う剣が登場した。これは、同じくらい硬さを実現してしまっている敵の鎧を打ち壊して斬るために、やがて肉厚で、重く、大きな剣になっていったという。細部はおぼえてないが、武装商店の店主から聞いた話を延々とmanieraさんに語り続ける。 「これ刃は研がれて無いんですよね」 「そう、だから美術・工芸品あつかい」 「しかし、印象もアレだから外で持ち歩いたりはできないですな。美術品と言い張っても、どう見ても殺傷用の道具だから」 「これ(細く尖らせた鉄の棒)で突かれたら普通に死ねますしね」 いくらなまくらの飾り物とはいえ、やはり視覚的な印象は強い。 今度、お店で万引が捕まったら目の前でこれ抜いて説教しようと考える。素晴らしい効果があるに違いない。 ひとしきり抜き差しして恍惚としたあとで、買ってきた同人誌の報告などする。それから、前から気になっていた映画を見せてもらった。 manieraさんといえばゴジラである。 で、見たかったものというのが、天野が小さい頃みてたまらなくカッコイイと思ったメカゴジラの擬装が暴かれるシーンだ。「ゴジラ対メカゴジラ」である。2003年の釈由美子出演のではなく、1974年の、後半でベルベラ・リーンが歌うミヤラビの祈りによって、キングシーサーがでてきちゃうアレだ。 30年ぶりくらいに見る件のメカゴジラ出現は、わりと最初の方のシーンなのだが、いま見ても実にいい。音楽も燃える。 「メカゴジラー!!」 天野が女性だったら黄色い悲鳴だったろう。心情的には、くんくんを愛する真紅にちょっと近い。 「リベット打ちの装甲がカッコイイー!」 やや絶叫である。まだテンションが落ちない。というか、だんだんと上がってきた。ロウソクが燃え尽きるときのおおきな燃焼がふと想像される。 やや呆然とした声で、manieraさんが段ボールケースに戻してある剣を一瞥してから聞いてきた。 「天野さんひょっとして金属とか好きですか」 「すきー」ほとんど脊髄で喋っている天野である。 「金属製の巨大な構造物がシリンダーとかで動いてるのも好き。そういう意味ではロボットの脇のしたとかすげえ萌える!」 「天野さんは脇フェチですね」 「そう、脇フェチ。ロボットの脇フェチね! あははっ あはははっははははっ あはははははははははははははははははははははっ」 どのあたりから脳がヤバいギアに入っていたのか判然としないが、気がつくと帰宅していた。 各線の終電をのりついで、ギリギリの帰宅だった。考えてみるとmanieraさんのところで5時間も話してた。まあ、普通か。 簡単に収穫を確認してみる。いっぱいイイものが手に入ったし、いろんな人に出会えた。いい旅行だった。コミケのタイミングで行けるかどうかわからないが、秋葉原に行けたら、じゃんがららあめんと、武装商店にはまた行こうと思う。 今度はポン刀買って、無明逆流れごっこをやりたいなあ。 風呂あがりに鏡の前で、半裸で西洋刀構えてニヤニヤわらいながらそう思った。
絵描きと管理:天野拓美( air@niu.ne.jp )