■ 2003.01.07
tue「9ヶ月の記録」
先月から、夜想曲を再開している。
夜想曲を一度しめた理由は、3月の日記のとおり、絵も文章も、かきたいことをぜんぶ出し切れたからだった。
だが、実はもうひとつの理由がある。
それは、書店の仕事を辞した後に、苦悩して見つけだした「ある計画」が、本当に成功しうるプロジェクトなのかどうか、検証に検証を重ねるためだった。
更新を停止したその後も、ふと絵や文章をかきたくなるときがあったが、そのときの欲求は逃避だったのだろう。更新をとめて、自分と向き直ることができたので、この停止期間はつくづく必要だったと思う。
それにしても、何年かかかるかもしれないと覚悟し、人によっては
「いつか・・・一年後か二年後か十年後に、戻ってくるつもりではあるのですが、そのときには、まったく事情も何もかも変わってしまっているでしょう。ですから、事実上の夜想曲の終焉です」
とまで宣言していた「ある計画」の探求が、9ヶ月という短期間で足がかりを掴めたのは、まったくできすぎた幸運である。
更新停止の報を聞いて「うわぁん! やだやだやだやだやだやだやだ(以下エンドレス)」と錯乱したmasterpieceさんをはじめ、応援してくれた知人、そしてかつての夜想曲になんらかの関心をもってくださり、計画探求の精神的な支えになってくださった皆様には、本当に感謝だ。
「ある計画」は、骨子の確立と根回しが完了し、準備もほぼ整いつつある。その上で、夜想曲を開くことができた。
停止期間中に描いていた絵もアップし終え、停止中に思いついていたネタも、だいたい日記で書けた。
そこで、今日から日記に書く内容は、これからはじめる計画の詳細である。題して
「天野拓美の『日本人はこんなにあくせく働かなくても生きていけるはず』プロジェクト(たぶん内容ごとかなり流動的な仮称)〜」
要するに、いかに楽して生きるかという今後の人生計画を、バイトしながらだが、9ヶ月もかけて追求してみたのだ。
自分で書いていて何だが、よくもこんなステキな計画を真剣に追いかけたものである。
この計画は、他の人には容易に応用が利かないのが難点だが、プロジェクトを立案するに至った経緯と、現在までの進行状況を、9ヶ月間の記録として順番に書いていきたいと思う。
(これ以降、続く内容に関してはファイルを換えます)→9ヶ月の夏草戦記へ
(一月の日記は、このままのファイルで、たまーに更新すると思います)
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■ 2003.01.08
wed「書店のあと」
書店をやめて次に何をするか。
いろいろ考えた。
辞めた直後は、他の書店に勤めようかと思っていた。
だが、前職書店のレベルはやはり高かったようで「やりがい」という点においていい書店は見つからなかった。おかげで、前職の素晴らしさを再認識させられる。中にいるときは死ぬほど大変で気がつかなかったが、その過酷さは無意味ではなかったのだ。
次に、もうちょっと労働環境のヌルい書店を、自分で作ろうかと思った。
200坪くらいで平屋店舗。朝10時から夜11時まで。社長は私で、あとはパートとアルバイト。
建設費に一坪当たり25〜30万円かかるとして、200坪×25万=5000万円。什器が一坪分で10万円=2000万円なので、店舗の建設費に7000万円くらい必要。
在庫金額一坪50万円として、本を一億円仕入れる。合計でおよそ1.7億のその費用は中小企業金融公庫から借りるとして足りない分はもってる資産を全部担保にブチ込んでなんとか・・・。と、そこまで考えて気がついた。
無理だ。
店長でも死ぬような思いをしていたのに、社長なんかできるものか。
本屋がすき、というのは、本が好き、という気持ちが化けたものであり、別に好きで経営がしたいわけではない。現に業務が管理職中心になっていくのを嫌って、私は書店を辞めたのだ。
では、規模を縮小して個人書店をやるのはどうか。
しかし、やり方によっては通用しそうだが、自分の得たノウハウや前職から拝借できるシステム等は、あくまでも大型店舗向きのものなので分が悪い。これはダメだ。
しかし、先の大型書店を独立でやるとしたら、借金がふくらみきったところで、胃と脳と心臓をやられてぶっ倒れ、のび太よろしく孫の代まで残りそうな借金をかかえて再起不能になるのがオチと踏む。これがまた、イヤになるほどリアルに想像できた。
けっきょく、書店業界でやっていくのを本格的に断念する。その頃には、精神の根底に、ちょっとした無気力感と敗北感があった。
そんな状態で、ほかの仕事を魅力だと思えるわけもない。「やりたいこと」も見つからず、しかし失業保険にも限度があるので、このころは、妙にソワソワしながら時間を過ごしていた。あせるばかりで、考えは何も進まなかった。
そんなあるとき、ふと思った。
こういうときは、いっそのこと、何も考えずに思い切りのんびりしたらどうだろうか。
いま思えばそれは、そのとき最も必要なことだった。当時のわたしもそう思った。
わたしは、力の限り遊んだ。
いまを逃したら、まとまった遊び時間は生涯にありえない。そう思ったら度胸が座ったのだ。「いまだけは」等と考えると遊ぶためのパワーがスポイルされるので、猶予は考えなかった。あげく遊ぶことだけ考えた。遊ぶときには、遊び関係以外のことは考えないのがコツなのだ。
でもそんなときにも気を抜くと、フッと将来の不安がよぎる。
だが、それを跳ね飛ばして、私はやりたいことを全部やった。会いたい人にはとにかく会った。
30年かけて培(つちか)った全能力を完全に投入して、お金を使わずに、時間だけはたーっぷりかけた31才(当時)の遊びは、友人にも恵まれて、異様に充実することになった。いまどきこんなに遊んでいる人間は他にいないだろうというくらいには遊んだ。
社会的にはいまだに「幸せであること」よりも「働き者であること」のほうが美徳である世の中だと思う。
だから、おおっぴらに「のんびり」するのは、けっして簡単なことではなかった。しかし、現代の就職難という世情を、私にはいい隠れ蓑(みの)に使えたと思う。
まあ、書けないこともいろいろあったが、見せていい範囲の内容は、仕事を辞めた後の日記(寄道余所見全般)に書いてある。2001年は、よく遊んだ。
遊びながら、精神が満たされはじめたのか、あるとき予感のようなものがあったのを憶えている。
自分はたぶん、近いうちにこの「のんびり」に満足するだろうな、と。
そして、かつての苦労の何もかもが抜けきったら、そして「のんびり」が満たされたら、もういちど出発することになるだろう、と。
それは、きっと新しい人生のはじまりだ。
老後の余生を経て、いちど死に、生まれ変わりがあるとすれば、ひとが転生するように。
この「死」の時期は、2001年の冬がはじまる頃であり、夜想曲の更新停止の3〜4ヶ月前だったのだと思う。
やがて、満足がいったので、絵も日記も筆を置く決意をした。
夜想曲を閉じる頃は、人生が裏返るまで徹底的に休んで遊ぶという贅沢な処方のせいか、ゆったりとした充足感が、精神に満ちていた。
理屈がどうこうではなく、人間は、いい感じに充実した「のんびり」が蓄積されてくると、ちゃんと生まれ変われるようだ。
では「次に何をやるか」
じつはそのとき、すでにそれは見つかっていた。
この期間の後半の方、ほとんど「何を見ても面白い」という精神状態だった私には、当たり前のことかも知れない。
おそろしく贅沢な準備の末に見いだした、新しい生活。
だが、そのあまりの困難さに、わたしは非常に悩んだ。
それは、脱サラ希望のお父さんがたいてい一度は持つ夢。そして同時に安易な逃避の象徴。
そして、現実的には、おそらく難易度超一流のハードな業種。
多くの人が憧れ、学び、出発し、そして倒れていった職業。そう、わたしがやりたいと思ったのは
「田舎で農業」
だったのだ。
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■ 2003.01.09
thu「さぼり癖」
「田舎で農業」の話はちょっと休題しておいて、実際、遊んでいる間には、かなりのさぼり癖がついてしまったと思う。なにせ今後の人生における具体的な希望として
「あー、毎日、遊んで、寝て暮らしたいなー」
と真剣に考えていたくらいだ。これは
「好きな音楽だけやって、大金持ちんなって、ヌルマ湯ん中で一生ヘラヘラ笑って暮らしたかったんだよゥ! (課長王子外伝より)」
という心に染みる田中王児の本音と同義だが、何の努力もしないあたりが倍くらい悪質である。
ふつう毎日遊んで寝て暮らすのは、老人になってからだろう。でも、身体が動かなくなってからというのも、もったいない。
じゃあ、今やっとくか。
えらくカッコイイ言い訳をして、打ちのめされた企業戦士の新生のためのたいせつな休息とかゆー名目で寄道余所見の期間中にひたすら遊んだが、その根本動機の一面がこんなんだとゆーことは秘密だ。
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■ 2003.01.10
fri「日本人の美徳」
日本人は、よく働くと言われている。
発展や、質の向上を目指して、あるいは、純粋に仕事が楽しくて、やっている人もいるだろう。彼らを非難するつもりもない。私も仕事を楽しんで、深夜まででも働いているつもりだ。
だが、日本人は、どうも働き過ぎなのではないかと思う。
しかも、死ぬほど働いても、遊んで暮らせるようなお金が手にはいるわけでもない。
なんだか、おかしいと、子供じみた考えになるときが、たまにあるのだ。
むかしの日記に、こんなことを書いた。
「田舎で農業」を思いつくちょっと前にも、同じようなことを考えていた。
日本は不景気といいつつ、諸外国にくらべて過ぎるほど豊かな国である。だが、そこで働く人は、どういうわけか死ぬほど働かなくては生きていけない。過労死の報道、あるいは過労死しそうな知人の話を聞いていて、しみじみと疑問に思う。
「日本人は、こんなにあくせく働かなくては、生きていけないのだろうか」
いまそういう社会になっている要因として、不況による人件費カットで社員が削られ、それを逃れて在職している社員が、業績維持・アップのために、削られた人数分働かなくてはいけないから、というのがある。
だが、これは外的な要因だ。
内的には、まず「一生懸命まじめに働くことが最大の美徳である」という不文律が、日本人の多くにあること。
それに反することを、まじめな人ほど嫌う傾向にあること。
そして、日本人に「みんなが働いているときには、働かなくてはいけない」という農繁期の村民的な発想があるからだと思う。
今は、そんな季節労働者の社会ではないのだから、皆がはたらいているときこそ、休むべきなのだと思う。だが、なかなかそれができない。自分だけ楽に暮らしていくことが罪悪のように思えてくるからだ。
現実的に無理なのかというと、実際そうでもないと思う。
私が店長をやめた後に就任した新店長は、私と同じくらい忙しかったと思うが、一週間くらいの休暇を取ってニューヨークとかに行っていた。やればできることなのだ。ただ根元的なところに「あんまり長く休むと申し訳ない」という意識があるだけで。
このほかに「働かなくてはならない」理由として、日本人の平均的な暮らしには、高い生活費がかかるから、というのがある。
軽く働いただけのお金で毎月生きていければいいが、現実的にはそうも行かない。家賃・食費・衣料費・水道光熱通信費・生命保険・子供の教育費・趣味娯楽費(大きいところでは車の維持費とか)など、生活を維持するためには、ある程度以上の高収入が必要なのだ。
だが、たとえば子供を保育施設に預けるお金を捻出するために共働きする夫婦や、仕事のストレスを発散するために趣味に大金を投じるビジネスマンというのは、矛盾ではないかと思う。
私は、人生を往くのに、そんなにもお金が必要だろうか、といつも疑問に思っていた。
生活の中に、欲しくもない、必要でもないのに買っている、無駄なものはないだろうか。得をしないと損をしているような気がして、要りもしない特売品を買っていないか。家には寝に帰るだけの生活でやっと稼ぐほどのお金が、その暮らしに、本当に必要なのものだろうか。死ぬほど働いてまで「日本人の普通の暮らし」というものを、守る必要があるだろうか。
「ゆたかな生活のために」と働く現実は、寝る間もないほどに、馬車馬以上に働かなくてはならないという現状。
そして、この矛盾を超越できるくらい魅力的で面白い仕事は、私には書店しかなかった。
さらに省みて、日本はこれ以上、この消費の拡大を土台とした発展を目差す必要があるのだろうか。
これだけ物があまっている豊かな日本で、これ以上の消費の拡大が必要なのだろうか。
いまの日本人のしている仕事ひとつひとつを悪く言うつもりはない。私もそれに頼り、享受し生きている。
だが、ひとりひとりの生活を、ここまで犠牲にして遂げなければならない発展だろうか。
自分は「日本人は、こんなにあくせく働かなくては生きていけない」と「人間が生きていくのに、そんなにもお金が必要」から、外れてみたいと思った。
それが、「田舎で農業」を見いだすための土台だった。最初は、単なる憧れと、すりかえの使命感だったかもしれないが。
わたしが価値を認めていない無駄なものを切り捨てて、生きていけば、もっと時間的、労働的、金銭的に、余裕のある生活ができるのではないか。これを現実的に実現する方法を模索したい。そう決めた。更新停止の9ヶ月間は、この探求に充てられた。
もし全ての企業が、競争するためでなく、お互いを活かすために存在していたら、そして人々がもっと生活を自然のなかに置くことができたら、無駄な贅沢をしなくなったら、今の半分くらい働けば、それで事足りる世界になるのではないかと思う。
そうなったら、わたしは、
毎日おいしい空気を吸い、
おいしいものを食べ、
少し働き、
絵を描き、
歌を歌い、
友人と遊び、
そして、少しだけ人生のことや、世界のことを考える。
そんな生活をおくりたい。夢のように思えるだろう。だが決してあり得ないことではない。
あくせく働かないで楽しくやっていける生活を目差す。
かつて、それに憧れながらも、つい働いてしまっていた自分が、現実にそういう生活を獲得するには、かなりの意識改革が必要だった。
「一生懸命まじめに働くことが最大の美徳である」
かつての自分の矜持であるそれを、あえて取っ払う。これが第一歩だった。
これをやらないと、自分は仕事に溺れてしまうと思った。
そしてたぶん、かつてと同じように、潰れてしまうと思った。
日本人のほとんどが根元的に持っているこの美徳を捨てようと思った。
こわかった。
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■ 2003.01.11
sat「海外移住計画」
しばらくの間、どうすれば、お金をかけずに暮らせるだろうかと、思案に暮れていた時期があった。
だから「東南アジアの某国の物価はとても安く、また、Zガンダムのプラモデル(PG)がサラリーマンの平均月収にあたる(某国の物価が、いまどれくらいかは知らないが)」という話をだいぶ前に聞いたとき、一瞬しんけんに移住プランを考えた。
おおっ 親の遺産と、いまの貯金だけでも一生遊んで暮らせるかも!
しかもあこがれのメイドさんが雇えるかも!
メイドさんの雇用に関しては、有名な「東京大学メイド研究会」による「日本メイド史」(大島研究員)において、財産格差の減少による日本メイドの衰退が指摘されている。
この図式の通りだ。だが、これはあくまで日本メイドの場合である。
そうつまり、海外移住でなら、メイドさんの雇用が戦前レベルで再現できるかも知れないのだ!
これなら、もう無理してこういう類のサアビスに依存しなくてもよくなるのだ!
うひゃひゃひゃひゃひゃ!
かなりマジだった。
でも、私は日本語の無い文化圏では、とうてい暮らせないほどの愛書狂だし、なによりオフ会への参加がものすげえ困難という二点で、この計画は断念せざるをえなかった。
理想の生活さがしは、つづく。
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■ 2003.01.12
holy「素人が見る農業という職種・1」
あくせく働かない、そして、お金を使わない生活。
それが実現できて、かつ、やりがいのある職業はあるだろうか。遊びまくったあと、布団の中でいろいろ考えた。
このころは、消費社会に大きな矛盾を感じていた。
遊び回っている自分が言うのもなんだが、日本人は、ものを無駄に消費しすぎだと度々思ったのだ。
「自然を大切に」とテレビなどでいう一方、同じ企業が指向しているのは、天然資源を使いつぶす消費の拡大である。
口で言ってることはエコロジーなんだけど、手でやってることは資源の浪費。自然が美しく、資源に乏しい日本は、特にこの矛盾が非道い。
この矛盾に、できるだけ巻かれていない職業でありたい。
つられてこんな話を思い出した。
今の日本には、食糧がありあまっているが、これは日本が外国から買っているのである。
だから食べ物というよりは商品という認識で、「お金さえ払えば、食べ物をすきに扱っていい」という意識が日本人にはある。
買った以上は、食べてもいいし、腐らせてもいいし、そして捨ててもいい。そう考えられている。
これはおかしいと、私はずっと思っていた。
自分は消費するだけの方ではなく、作る方になりたい。いままでの生活では分からない食べ物の現実味を自分で掴んでみたい。
「これにいちばん近いのは、農業・・・か」
このとき思いついた言葉が、はじまりだったと思う。
日本が「ゆたかなくらし」の対極で重みを失っているのは、自然を土台にした人間性ではないだろうか。いわゆる第一次産業(農業漁業など)や、自然に直接かかわる生活と仕事が、日本では少なすぎる。なにをやってもいいなら、これをやってみたらどうだろう。そう思った。
もとより、50才代からは、畑を耕して余生を送ろうと思っていたのである。
家庭を持つなら、自然のなかで暮らしたいという夢もあった。
農業は肉体労働かもしれないが、年寄りにもできることなら、32才の自分にできないことではない。農村の過疎化とか、後継者問題という言葉をよく聞く。そういう所へ赴(おもむ)いて修行させてもらえば、うまくするとノウハウとか家とか土地とか貸してくれるかもしれない。
考えれば考えるほど、農業というのは自分の理想にピッタリだと思った。
夜中にえらく興奮したのを憶えている。もうこれしかないように思えた。
いま思うと、このあたりから、理想とズレはじめていたのだが。
翌朝、起き抜けに近所の市営図書館へ駆け込み「農業をはじめる」関係の本をゴッソリ借りてきて端から読んでみた。一部の本にはこんなことが書いてあった。
「経験者から聞いた農業の良いところ」
新鮮でおいしいものがいつでも食べられること。
体を動かしているので、健康にいいこと。
農村の人間関係はいろいろあるけど、サラリーマン的なストレスがないこと。
働いている実感があり、また家族が一緒なこと。子供に働く姿を見せられること。
大きな家が借りられること、晴耕雨読+冬は休みなので、のんびり生きられること。
定年がないこと。長い人生を達者に生きるには、体を使って自然に近い環境で生きることが、いちばん必要だ。
やっぱり農業は素晴らしいと思った。
だが、あとで思い知ることなのだが、本にはたいてい、都合の良いことが目立つように書かれている。
本には、成功した人で、いい笑顔をしている人の記事しか載っていないのだから、農業の入門書で好感触を得てしまうのは、当然だろう。
だから、あらかたの本を読了してから、ふと冷静になって思いこみを戒めた。
いまは気持ちが燃えている。どんな仕事でも出来そうな気がする。しかし、こんなハイテンションは長続きするわけがない。
だから次は、冷静に「悪い話」を聞こうと思った。
それでもやる気の炎が消えないかどうか、試すのだ。
農業のことを調べるために、本に載っていた「農畜産公社」(※リンク先は岐阜県の公社)を訪ねた。名称が違う場合もあるようだが、こういった組織はたいていどの県にもあるらしい。
農畜産公社には、新規就農相談センター(※リンク先は全国センター)というのがある。(職業として農業に就くことを「就農」という) 新規の就農者を支援する公共団体だ。電話でアポイントをとり、窓口へ出向く。すぐに別室に案内されたので、二言三言の挨拶と自己紹介をしたあと、こう切り出した。
「農業をやろうとおもってます。とりあえず農業の悪い話をきかせてください」
一瞬ひるんだようだったが、職員は少し思案したあと、容赦なく話し出した。
「いいですか農業はまず儲かりませんお金もちなイメージがあるのは土地と機械と金と技術と家族総出の労働力および副収入がある場合のみですそれでもせいぜい言えるのは「食うには困らない」程度です農閑期である冬には収入がなくなりますから出稼ぎにでる用意をしておいてください助成金もあるにはありますが岐阜県は高原野菜とかで有名な長野県とかと違ってITに予算とられてますから農業予算は少ないです後継者問題?あーあれは後継者がいないわけじゃなくて何もかも設備が揃っている後継者でも食っていけないんですよええとところであなたはまずどこの土地で農業をやるつもりですか農業をやるのはあなたひとりですか奥さんはいますか農村社会に溶け込めなくて奥さんが飛び出した家がありましたけど奥さんの理解はありますか作目は何を作るつもりですか岐阜県はトマトが有名ですがそれですか米はダメですね減反政策って知ってますよね専業ですか兼業ですかまさかそんなことも決めてないのあんたやる気ある?」
「・・・・・・」
私はこのとき思った。ああ、これがよく2ちゃんねるとかで使われている
「ヽ( `Д´)ノ モウコネエヨ!ウワァァァァン!」
という心境なんだなあ、と。
覚悟なんて、無いも同じだった。
いまさらになって、農業という壁の大きさが、おぼろげながら見えてきたようだった。
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■ 2003.01.13
mon「素人が見る農業という職種・2」
家に帰ってから、岐阜県の農業のことを調べた。そのなかで、素人なりにわかったことがいくつもあった。
※ いきなりですが、今回の日記には、ほとんど、ド素人向けの資料価値しかないので、
農業に興味のない方は読み飛ばしても何ら損はありません。
ちなみに、全部あちこちに訪問して聞いた話です。
(読み飛ばし推奨開始)
農家の種類は、大きく分けて、みっつある。
まず専業農家と兼業農家、あとは農業法人だ。
「兼業農家」は、農業以外の定職をもちつつ、農業を営むケースであり、どちらが副業かで呼称が変わる。
ちなみに農業比重が多い方を第一種兼業農家と呼ぶ。これでも、農業以外で普通のサラリーマンぐらいの収入がないとやっていけないそうだ。
現在の農家はほとんどが兼業であり、専業だけで食っていける農家は少ないらしい。
兼業で私の調べた限りでは、親夫婦が農業を、息子夫婦が公務員等を勤め、週末には親を手伝う、といったケースが多かった。これが一番現実的なようだ。
農地の規模が小さく、農業のスキルレベルが高い人は片手間でもできると聞くが、それはやはり熟達者の余裕であろう。
「専業農家」は、字の如く農業のみで生計を立てているところだが、こういう家が少ないのは「専業だけでは、儲からないから」だそうだ。
農家には、農業が衰退することを善しとしない国や県からの補助もあるそうだが、これだけでどうにかなるほどの額ではない。
専業の場合は、例えば無農薬栽培に転向したいと思っても収穫量(収入)を鑑みてそれができないとか、機械で自動化しないと手間が見合わないから手作りの感じが味わえないなどのジレンマもあり、いろいろ大変らしい。そもそも、専業農家というのは先述のように経済的に厳しい。農業を営むものとしての、安全で美味しいものを作りたいなどの夢を置いてでも、農薬などを使った効率的な農法を採用し、あくまで経済活動としてシビアに考えなくては、やっていけないということである。
「農業法人」は農業を会社・企業形態でやっているもので、ここだと技術を身につけながら給料ももらえる。
ここに入ってから独立するという手もあり、もっとも都合の良い就農方法かもしれない。
だが、岐阜県には人を雇って営業している法人は、わずかに二件(当時)であり、私にはどちらも、あまり興味のない作目・農法だった。
農業に対する考え方というものも法人で働く上では重要で、社長と考え方が合わない場合は、やはり避けた方がいいだろう。
農業のやり方、いわゆる「農法」にもいろいろある。
もっとも一般的なのは、「低農薬(「人の害にならない程度の農薬」というが農薬は農薬)による現代農法」で、これで作られた農産物は、基本的に農協が買ってくれる。
そのときそのときで買値の変動はあるが、ある程度の完成度を持った生産ができれば、ここで現金化できるのだ。
ただ、これはあくまでも店頭販売用の商品である。傷や色などの見栄えやサイズが厳しく問われるため、クオリティを維持するために農薬等を使用せざるを得ないらしい。それはあくまでも「見栄えとサイズ」のクオリティなのだが。
食の安全を追求して、無農薬で栽培し農協へ出荷することもできる。だが、それでも買い取り値がそれほど上がるわけでもないので、無農薬農法は手間がかかりすぎてコストに合わない。
現在の農業においては、低農薬による現代農法が、もっともメジャーで金銭に直結するやりかただ。
ただ、先の無農薬栽培、いわゆる「有機栽培」というスタイルが、昨今では注目されている。
「食品の安全性」などの面からみて、消費者には大いに価値があるからだ。ただ、この場合は、独自に販売ルートを開拓するか、農協以外の自然食品卸と契約し、出荷することになる。先述のように、農協に卸しても割が合わないからだ。そして、先述のように有機栽培は、簡単に病害虫を駆逐できる農薬を使わないため、生産に恐ろしく手間がかかる。費用対収益としては、難しい農法だ。もっとも農業などというのは、どこをとっても経済活動としては最低なのだが。
ちょっと前から、ユニクロで注目されているやり方で「永田農法」というものもある。
水と肥料(液肥)を極限まで減らすことによって、野菜自体の持っている生命力を引き出すやり方だ。たとえばトマトなどは、これによって糖度(甘さ)が従来の2〜3倍になるケースが報告されている。メロン並みに甘かったり、中身が詰まりすぎて水に沈むトマトなどが、永田農法野菜の特徴として有名だ。これも寸法中心で値段をつける農協に卸すことを考えると、品質的に見合わないため、そちらの流通はない。さらに、一個あたりの品質が高い分、一回の収穫で得られる玉数が少なく、どうしても単価は高くなる。だが、野菜の生命力自体が強靱なほどに高められる農法なので、農薬もさほど必要ではなく、安全性や、また美味さやサイズ、見栄えなどの点からみても、評価すべきやり方である。現在は、量産体制の研究も進められているとか。
農業としての生産性は話にならないが、もっとも根元的であると思われるものが「自然農法」である。
「何も持ち込まず、何も持ち出さず」という言葉のとおり、その土地でとれた肥料や水以外は一切使わない。畑には雑草も生えるし、虫もつくが、土壌の成分が自然本来のものであるために、無農薬で収穫できる。だが、やはり生産性が低いため、家庭菜園にむいているといえるだろう。
ところで収益のことだが、これは大雑把に言って「土地の広さ=植えられる苗の数」であり「苗の数×秀品率(農協出荷できるクオリティ(サイズ・傷ない・病虫害ない)をみたしている野菜の割合)=収穫量」で、「収穫量×単価(イチゴやメロンは高いね)=収益」となる。
ちょっと分かりにくいと思うが、要するに、この計算で行くと、単価がかわらず、農家の能力が一定の場合、土地が広ければ広いほど収益が上がるわけだ。
しかし、農業は機械化が進んでいるとは行っても、基本は手作業なので、ここで人件費が絡んでくる。
もちろん人件費など払っていられないところは、これを全て家族ですます。なにせ人件費以外にも、種苗費・肥料費・薬剤費・光熱動力費・資材費・水利費・施設費・農具費・流通用の資材費・運賃・手数料など払わなければならないものはいくらでもあるのだ。このうえ生活費である。人件費の出るはずがない(農業法人が少ない理由である)。家族の人数は、そのまま耕作できる土地の限界となるのだ。大家族が総出でできればいいが、構成員が少ない場合は、兼業農家になっていくか、単価の高い作目を選んでいくしかないようである。
新規就農者は、これらの中から農業のやりかた(専業か、兼業かなど)、および農法を決定したら、次いで作目と土地を決める必要がある。
これは「自分の作りたい食べ物」が明確に決まっていれば、それをやるのが一番だ。
農業をはじめる土地がどこでもいいなら、その食べ物の特産地へ引っ越して就農するのが望ましい。
そして作目にこだわらず、場所にこだわるなら、やはりその土地の特産品を作るのが良いだろう。
特産品というのは、まず土地の条件に合っている作目であると言うことと、特産品としての流通経路が現地で整っているから現金化しやすいのだ。
さらに、おおよそどの農法でも必要なのが、冬、つまり農閑期の副収入である。作目にもよるが、ほとんどの場合、冬には、やることと収入が無くなってしまうのだ。
私が訪問した農家も、これで悩んでいた。もちろん夏の間の収益を頼りに、冬は遊んで暮らすところもあるが、それはやはり専業で成功している少数農家のようだ。
作目によってまちまちだが、トマトだと、12月から3月まで5ヶ月もやることが無くなってしまう場合もある。7ヶ月で一年分を稼ぎ出さなければならないので、これは大変だ。
お金の問題だが、農業には、多少の援助もある。
特に、新規ではじめる人には、県の補助もある程度適用されるのだ。
ただ、補助金といっても、たとえばパイプハウス(ビニールハウス)代150万円に対して、75万円の援助と、のこり75万円を無担保ローンで貸してくれるといった程度である。就農資金はいくらあっても足りないので、これでも充分大きいと言えるが。
市町村レベルでは、過疎の村などで新規移住者に補助金が出る場合がある。住民票を移してそこに住むだけでいくらかもらえる場合もあるが、こういうところはシャレにならないくらいにド過疎で、コンビニが存在しなかったり、信号機が存在しなかったり、子供が存在しなかったり、1キロ以内にお隣が存在しなかったりする。市町村は予算をさいて招こうとするが、その一方で住民は閉鎖的であり、新参者は住みづらいという話もあった。補助金目当てで就農というのもガッツがない話なので、そのへんは当てにしない方がいいだろう。惚れ込んだ土地と作目の特産地が補助金だすほどの過疎だったら万々歳なのだが、そういうケースはあまりない。
見聞きした範囲でのことだが、ここまできまったら、次に研修である。農業のノウハウを学ぶのだ。これは先の農畜産公社などで紹介してもらうらしい。
まったくの未経験であれば体験農業をやってみる人もいるし、農学校に通うケースもある。
先の農業法人へ入って、知識とノウハウを吸収するというスタートを選ぶ人もいるようだ。
そして一番多く、また実践的なのが、就農予定地の農業指導員(指導資格をもっている農業従事者)のもとに住み込んで、修行に突入することである。
これは、まず生活レベルで農業のことを知ることができるし、指導員と作業をともにすることで、本に書いてないようなノウハウを盗むことができるので好都合だ。
生活費は労働賃金(給料)と相殺な場合が多い。ここで一年間まじめに働けば、地域の人からも信頼され、修行が終わる頃には、うまくすると、住む家も独り立ちしてはじめる畑も、こころよく貸してくれる(こともある)。しょせん新規就農者はよそ者なので、過疎がすすんでいる田舎でも、家と畑を借りるのはけっこう大きな壁なのだ。研修によって、これをナチュラルに突破できるのはうれしい。それに、これから始める農地と環境的に近いところで研修できるのは大きいといえる。他県の法人や、農家で研修を受けても、気候や習慣などが違ってしまい、いざ希望の地へ来ても、勝手が違い、ギクシャクすることが多いからだ。「どこで、なにを」作るか決まったら、それと同じ環境で研修を受けるのが、鉄則と言えよう。
農業家としての独立は、ここからはじまるのだ。
(読み飛ばし推奨ココマデ)
ふたたび、図書館から本を借りてきてむさぼり読んだ。実家が農業をしているという人にアポイントを取って会いに行き、いろんなことを質問してみた。
農業の大変さを、骨身にしみて知っている人は
「何でまた農業なんか」
と怪訝そうな顔をする。たしかに、数多(あまた)ある現代日本の職業のなかでも農業は、個人でやる経済活動としてみるとほぼ最低だ。もっと楽で割りのいい仕事はいくらでもある。
私のことをよく知っている人は
「なんだかすごく意外なような、思わず納得してしまうような」
と言う。そして、それでもやっぱり
<font max>「相当に大変だそうですよ」<font/>
と言う。font max というあたりに、底知れない苦労がうかがえた。
本を読み、就農センターの職員が言っていたこともいろいろ分かってきた。そう思って最初の頃に選んだ本を読み返すと、微妙に目立たないように、そんなことも書いてはある。
だが、基本的に本には、いいことしか書いてない。そりゃそうだろう、失敗した人は本なんか書かないからだ。
毎日本を読んで、経験者と会って、ネットでそれっぽいサイトを検索しては読んだ。
そして、もう一度、わたしは新規就農センターへ赴(おもむ)く決意をした。
今度は、せめて質問くらいはしようと思った。
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■ 2003.01.14
tue「偉い人」
「偉い人」になりたかった。
世間的には違うかもしれないが、かつての私にとって「偉い人」とは、地位や財産に関係なく「物事の道理がよく分かっている人」だった。そういう人になりたいと強く願った。哲学科に入って真理を探究したのも、そのせいだったと思う。
社会に出ても、やはり「偉い人」になりたいと思った。道理や人間のことがよくわかっている人、そして、人の上に立つことができ、かつ、どんな人でも愛せる人物がそうだと思い、店長という立場で自分を鍛えようと思った。その辺の能力が乏しかったから、憧れていたせいでもある。
その後、農業というものを学ぶようになって「偉い人」の価値観は微妙に変わった。
たとえば
ステーキを食べる人
ステーキを焼く人
ステーキ肉を加工する人
牛を育てる人
がいるとして、だれが一番えらいだろうか。
経済発展はなやかなバブル時の価値観だと、これは、まちがいなく食べる人だろう。ステーキを食べられるような、お金持ちの人だ。先述のように、わたしはこういう人(お金持ち)を単純に「偉い」とは思わないが。
かつては、この選択肢に対して、たいした感慨はなかったと思う。
でも、いま私は、牛を育てる人が一番に偉いのではないかと、尊敬を込めて思う。
そう思ったら、どうしてもその立場を獲得したくなった。
それ以外の「偉くない」地位などむしろ邪魔だと思った。
わたしは、昔っから「偉い人」に強烈な憧れがある男だったからだ。
まったく、なんて欲深いことだろう。
農業をやりたいと思った動機は、やりがいとかではなく、ただの私欲だったのかもしれない。
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■ 2003.01.15
wed「ある挫折」
三十代女性としか分からないが、あるトマト農家に修行というか研修に来ていた人がいる。
彼女は、名古屋で勤めていた会社をやめて、その足で農畜産公社に来たとかいう話を聞いた。
まったく凄い行動力だと思う。聞いたところでは、公社の扉を叩いたのは私と数日しか違わなかったそうだ。同じ時期に志して、半年ちかくもウダウダしていた自分が情けない。
でも、この人は、結局数ヶ月で実家に帰ってしまった。
会社仕事でいつも感じていた「もっと人間らしい暮らしがしたい」という、貨幣経済社会の忙しい生活のなかにおいて農業に憧れる人の大多数がもつ動機でもって、実際に転職してしまった彼女だが、環境のあまりの静けさに耐えられなかったらしい。農村の夜は、月と星がなければ真の闇と、人工音の一切無い世界である。
それに耐えられなかったことと、加えて、農業に反対している親に泣かれてしまったから、という話も聞いた。でもこれは表面的なことだと思う。
どんな仕事でもそうだが、農業で生きていくということは、一日や一週間の辛抱ではない。何十年とやっていくスタイルに入っていくのだ。気合いだけで乗り越えられるものではない。その世界に、自然体で生きていけなくては無理なのだ。そして彼女は、行動力はあったが、そのための準備と覚悟がたりなかったのだろうと思う。
時間は許す限りかけて、動機をしっかりさせて、準備万端でやるかどうか決めて、乗り込んでいこう。
そう決意させられた事件だった。
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■ 2003.01.16
thu「人間の適性」
「ザ・ロック」という映画で、脱獄の天才であり、もと英国諜報部隊員(SAS)のショーン・コネリーが、ニコラス・ケイジにこんなことを言うシーンがあった。
「本当は、農夫か詩人になりたかった」
二つの職業は、一見すると関係ないように思える。
だが、私は、農夫になることは、詩人になることに似ていると思った。
人間というのは、その職業適性において何種類かに分けられるとおもう。
あの人は政治家向きだとか、芸術家肌だとかそういう感じの分類だ。
大分類として思いつくところでは、
政治家
経営者
教育者
宗教家
芸術家
こんなところだろうか。
もっとも、他にもイロイロあるだろうけれど、わたしはこれでだいたいの人間を分類している。
ただ、たとえば「政治家適性だけの人間」というのは、存在しない。
それぞれの要素を、いろんなバランスで併せ持っているのが人間だ。
(星形のグラフなどで表すと分かりやすいと思うのですが、すみません、用意できませんでした。)
たとえば「教育者適性があって、人柄は温厚だが、政治家としてのキレはない人物」や「政治的手腕はあるが経済観念が大雑把すぎる人」とか「経営者としての手腕は確かだが、芸術的センスはまるでない」とか「芸術家としては極上だが、教育者としては最低」だとか、それぞれに様々な特性を混ぜ込んで人間は存在している。
この一端がずば抜けているのが天才だが、天は二物をあたえず、ということわざは、そのバランスにあるといえよう。政治の天才、経営の天才、教育の天才、宗教の天才、芸術の天才。人間性はそれぞれにあると思うが、特性において天才的であるほど、他の才能を併せ持っているケースは少ない。
もしあったとするなら、それは、もともとふたつあった天才とまでは呼べない程度の才能を、環境か、個人の努力がそこまで磨いたからなのだろう。
仮に、日本人のすべてがこの五つの特性に分類されるとしよう。
しかし、たとえば「芸術家」特性が強くあっても、それで喰っていけるほどのホンモノの芸術家になれる人間はごく少ない。いるとすれば芸術家特性以外を切り捨ててきた、芸術家としてしかやっていけないような天才の類だろう。こういうタイプはもう芸術家になるしかない。
では、それほどでもなく芸術家特性を持っている人間はどうしたらいいだろう。
趣味でやっていく、というのもひとつの手だが、わたしはもうひとつ、芸術家特性の適職を知っている。
それは農業だ。
これはなにかを作るという喜びを糧に生きる芸術家に、最も向いている職業だと思う。
生粋の農家や、仕事人とよばれる生産者たちには、この芸術家特性があるのではないかと、「どっちの料理ショー」の「特選素材」とかを見ていて思うことがあるのだ。とくに職人気質の農家はその傾向がつよい。
ただ、農業従事者の多くは、世襲制で畑や設備を受け継いできたものである。現実には、長男(後継ぎ)が家業として継ぐケースがほとんどであり「芸術家特性のある人間」が選ばれてなるというものではない。そして、後継ぎには、上記五種類の才能が、農業とは関係なく、個人の資質としてそなわっている。
したがって、それぞれの才能が農業という職業で展開されるために「やたらと地元の権威にこだわる政治家っぽい農家」や「自分のところの畑は生産工場であり自分はその工場長であると考え効率化をひたすらに追い求める経営者型農家」や「ただのんびりと自然のあるがままの姿を愛でときに草木とオハナシする宗教農家」や「農業を通じて地域の子供たちに大自然の素晴らしさを教えたい教育者農家」などがいるわけだ。
だが、本来的に、もっとも農業にむいている特性は「芸術家」である。逆も然り。こういう農家はすごい仕事をする。(ただ、あんまり金にはならないかもしれないが)
「芸術家特性」をもっている人間は、農業にむいているのだ。
わたしはそう思う。
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■ 2003.01.17
fri「適齢」
農業をはじめるのに、30代というのは、早いとも遅いとも言えない。
年輩になってから始めるよりは、憶えも体力もあっていいが、勉強すべきことが多いのだから、若い方がいいに決まっている。
32才という年齢は、どうなのだろう。
ただ言えることがある。
大学で哲学を学んで良かったと思うし、テレビの仕事ができて幸せだったし、掛け軸売りでは名画に囲まれる快感に酔えていたし、そして本屋でイヤと言うほど働けたのは、自分の一番マニアックな愛書狂的欲望が底をつくまで果たされたと思う。
もし、最初から農業を志していたら、この欲深い天野拓美と言う人間は、絶対に「本屋をやれなかったこと」を筆頭に、人生に悔恨を残したことだろう。
私にとってこの年齢は、まちがいなく、これ以上望めないくらいに完璧なタイミング
だ。
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■ 2003.01.18
sat「見えてきた障壁」
二度目の新規就農センターは、妙にやさしく迎え入れてくれた。
いまは就職難の煽りか、自然回帰なのか、軽い気持ちで農業を志す人が多いらしく、就農センターも人気があるそうだ。
だが、農業は実際、そんなに甘いものではない。だから最初に来たときは、脅されたのだろう。
それで農業のことを調べて、その上でもやる気がある者にだけ、援助をするのだ。
「岐阜でなにかつくるなら、トマトかホウレンソウだね」
そんなかんじで話ははじまった。
先日書いた「地方の特産品を作る」ことを推奨されているようだ。
話は具体的なものだった。
ある程度の過疎地へ、望まれていきたいというのであれば、岐阜県飛騨地方にいくつか新規就農者をうけいれてくれる町村があること。
そこで作られているのは、おもに夏秋(かしゅう)トマトといわれる作目であること。
トマトはホウレンソウなどと違い、高い位置に実が生(な)るので、収穫などの作業時に腰が痛くならなくてよいこと。
トマトは、農作業の支障になる雨の影響を受けにくい施設(ビニール(パイプ)ハウス)栽培であること。
農業は機械化が進んでいるとはいえ、基本は手作業だから、ひとりでできる限界が決まっている。なら、一個あたりの単価が高いものほど、収益につながること。
岐阜県でなら、やはりトマト。とくに夏秋トマトは単価が高いため、小規模の農地、男手ひとつでも、そこそこやっていけるということ。
トマトが、350円/kgのときに、300坪なら10トンとれてその55%が収益だから、170万円になる。
施設などで最初500万円は投資することになる。それで初年度がうまくいって回収できるのが170万円で、最初はしばらく借金生活になること。
農業をはじめる最初の難関が、この就農資金の調達にある。
ひとりでやるなら300坪が限界なので、これが精一杯だろう。ふたりで600坪やるなら、単純に収穫が倍になるが。
まずはどこかの指導農家で、一年間の研修をうけるべきであること。
研修と言っても、優しく教えてくれたり技術修得を保障してくれるものではなく、あくまで技術を盗む気持ちであたること。
これが終わったら、独立(空き家探し、休畑探し)準備をする。
そのときは、農地は買わず、借りるのが一般的であること。
先祖伝来の土地を手放すことはあまりないようだし、あっても非道い荒れ地だったり山の斜面だったりすること。
土地や家を借りるときには、親戚や縁者、知人がいる地方なら容易だと言うこと。それらがない場合はやはり厳しいということ。
独立したあとも、一回目の収穫がえられるまでの一年間は、とうぜん無収入である。しかも、一回目にろくなものはできないから、何年か、ほとんど無収入の覚悟がいること。就農資金の心配とは、生活費のそれでもある。
ただ、土地や家を借りるのは、非常に安価ですむこと。
職員の話は続く。
一年間の生活を通して語ろう。
夏秋トマトなら、春の4月ごろから11月までかかって育てられる。
11月に最終出荷が終了したら、そこから5ヶ月間という長大な休みが発生する。
この間は、まるっきりオヤスミにする人もいれば、スキー場のアルバイトなどをする人もいる。
できれば、冬は長い休暇期間にしたいが、農業での収入は300坪では200万程度だろうから、やっぱりバイトか内職が必要だ。
300坪と軽く言うが、実際には初めての人にはほとんど不可能な広さであること。したがって200万円稼げるようになるには、かなり年月がかかるであろう。
一日の生活は、こう。
朝ははやく5時頃に起き、6時頃から仕事を開始する。
ほとんど太陽と共なる生活であり、11時頃に昼休憩を4時間とる。
余裕なのではなく、炎天下で農作業するとマジで死ぬからだ。
もちろん忙しい時期はここで無理もする。
3時から、夕方の6時までが後半戦。
つまり日が出て沈むまで働く。
日が暮れたら問答無用で終わり。
もちろん労働時間は、農地規模や時期、天候によって変動はある。
人によるが、九時くらいに寝て翌朝はやはり5時に起きるという。
一見して健康そうに思えるが、実はものすごく大変。
たとえば苗が来たら、ぜんぶの作業が終わるまでは夜中になっても休めない。
一日に2時間くらいしか眠れない日々が続く。
収穫の最盛期も同様だということ。
つまり、下手すると一年の半分ちかくそんな労働条件なのだ。
職員の話はさらに続く。
「新規就農者にとって大切であり、必要なものは、忍耐と根性であること」
「そしてそれを支えるのが、技術と金であること」
「根性が通常の三倍あっても、技術と金がなければすぐ潰れること」
「憶えることは山ほどある上に、一年に一回しか試せないこと」
充分な覚悟を持って臨んで欲しいという趣旨の話を、繰り返し繰り返し聞いた。
このときは、正直いって、すこしビビっていたと思う。にわかに現実感が出てきたためだ。
だが、このとき私は、微妙な食い違いを感じていた。さいしょにおもっていたりそうとなんかちがうようなきがする、と。でもそれはすぐにかき消されてしまう。
一番の問題といえる内容が、職員のくちから出たからだ。
「自分の家族、親・配偶者・子供、あるいは婚約者・その両親の理解と援助があること」
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■ 2003.01.19
holy「恐怖」
婚約者には、ハンドルネームがない。
だから、日記上では、いまだに「婚約者」だ。でもこれは、他人行儀な感じですこし寂しい。ちゃんと呼び名で書こうと思う。
「ネットで本名を晒(さら)すのは危険だ」というが、本人の名前はごくありふれているので、ファーストネームをちょっといじって書くらいなら、別に大丈夫だろう。
そんなわけで婚約者の名前は「ゆっこさん」
「『ゆっこさん』でいいかな」
「・・・・」
「ダメ? じゃあ『ゆーゆー』ね。 ゆーゆー、ウドンが煮えたよ」
「ゆっこさんでいいです・・・」
まあ、そんなやりとりはともかく。
なんと説明しようか、長い間なやんでいた。
およそ、新規就農者にとって最大の難関は、家族の同意をとりつけることであるという。
実際におおくの希望者が、資金問題以上に、これで断念しているようだ。
ここで賛同が得られないまま、強引に出発しても、後で苦労するのは目に見えている。
ただでさえ、新規就農は大変なのだ、反対されつつできることではない。
家族とは、私の場合、母と、婚約者だ。
「農業をやる」と一口に言っても、中途半端な説明や「オレはもう貨幣経済社会はイヤなんだ、もっと人間ラシイ生活がしたいんだ!」とかゆー甘ったれた動機(まあ、実際これなんだけど)では、それこそ、人差し指を頭の横でクルクル回しながら「最近ちょっとあったかいしね」とかオルドリン訓練校風に切り替えされかねない。
もし、自分がやるなら、どこで、どんな作目を、どれくらいつくり、年収はどれくらいで、それを出せるようになるまでの期間はどう生活し、将来できるであろう子供の教育費の目算をたて、現在ここまで準備していて、こういうコネと確信がある・・・というところまでハッキリさせておく必要がある。説得するために。
新規就農センターを出てから、しばらくかかって、いや、ずいぶん時間がかかったが、これを全部ねりあげた。
そして、なんども繰り返し練習したあとで、実際に話した。
母には直に。ゆっこさんには手紙を出した。
二人とも、どういうわけかアッサリと承諾してくれた。
言った本人が一番信じられないくらいだったが、戸惑いながらも了承(二週間)がもらえた。
ゆっこさんは、自分よりも深刻に考えているのではないか、と思える返事を書いてくれた。
彼女は、親戚が農家で経験も多少あるし、田舎の出身なので、私が農業をやることに対して別段に抵抗はないという。
看護婦さんの資格を持っているので、彼女のおかげで副収入は大丈夫かもしれない。でも、もう働きたくないナー、と私みたいなことも言っていた。そして、いずれ就農予定地を見に行きたいと言う。看護婦の収入と農業という兼業農家だが、それを夫婦でやっていくのも、いいかもしれない。
商人の家に生まれ育った母は、農業という道をやはり嫌った。
農業への偏見があるのはやむを得ないが、自分の息子が知らない世界に行くことを寂しく思ったのだと思う。
しばらくたってもわたしの気持ちが変わらないと知ると、いろいろ尽くしてくれるようになった。
母の「自分は商売のこと以外はアドバイスできない」という言葉と寂しげな様子を見るのが辛かった。
母とはようやく、住処(すみか)を分かつことになる。
父が死んでから、兄と母を守ってきたが、わたしも、いつまでもパラサイトシングルと言うわけにも行かない。
後日のことだが、母とメールのやりとりをするために、ノートパソコンをヤフオクで買った。
キーボードのうちからから、毎日教えている。
ローマ字入力を教えたかったところだが、母がローマ字を諳(そら)んじることができないので、やむなくかな入力だ。「あかさたなはまやらわ」のキーにシールを貼ることで憶えられるようになった。たいていその周りに同じ子音のキーがあるから、迷ったときの目安になるのだ。いま母は、懸命にメールをやりとりする練習をしている。
長い時間をかけて用意したプランがちゃんと通ったので、久しぶりに心から一息つくことができた。
風呂に入って深呼吸するとき、ずいぶん昔に吸い込んだ息が、やっと出てきたようだった。
「これで農業に本腰を入れられるなあ」そう思った。
でも、その夜は、眠ることができなかった。
ベッドに仰臥して、闇を見上げている。どうしても、自分で目を閉じていることができない。
形容しがたい焦りと不安が、胸中を轟々と渦巻く。速い鼓動が、胸郭を下からいつまでも突き上げていた。
ほんとうにこれから、農業をやっていくのか。
農業というのは、机に座って絵ばっかり描いてきた、体育会系の活動などほとんどしたことのない自分には不向きな、いわゆる肉体労働ではないか。
いままでのスキルが、まったく通用しない世界だぞ。
どう考えても、前のほうが楽だ。経験の生きる接客業とかの方が通用するし、なにより安定して暮らせるのではないか。
さらに
「農業では食っていけない」
この言葉がのしかかる。
農業では食っていけない。
食っていけないから、副職がいるぞ。
農業は大変なので、副職はそれだけでも食っていけるようなものを。
・・・・。
じゃあ、農業なんてやらずに、副職だけやりゃいいじゃん。
農業はやるべきであって、どうしてもやりたいというわけではないんだから。
では副職はなにをやる?
どんな仕事がやりたい? どんな仕事をやるべきだと思う?
それはやっぱり農業だろう。だって、ほかに浮かんでこない。
でも農業では食っていけないんだ。
このループが、いつまでもいつまでも回っていた。
調べ上げたせいか、自分を責めさいなむ内容は、実に現実味があった。
どうすればいい、どうすればいい。
焦りのあまり、本当に目が回ってきた。いつのまにか天井がぐわんぐわんと渦を巻くように揺れだしている。
身じろぎもしないままで、まるで乗り物酔いのような吐き気を感じていた。
苦しい。どうすればいいのかわからない。不安で、焦りばかりがぎゅるぎゅるとまわる。頭の中で血が騒いでいる。
眠れるわけがない。なんだ。この焦りの正体はいったいなんなんだ。
とつぜん、この感情の正体がわかった。
夜の闇から、血の音と渦巻きが消えた。
そう、この感情の名前をわたしは知っている。
それは「恐怖」だ。
わかった。
自分は、恐いんだ。
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■ 2003.01.20
mon「恐怖との戦い方」
それまで取り組んでいた母と婚約者という、わかりやすい課題。
彼女らを説得できるかどうかが、この問題の一番の肝であると思っていた。
だが、それが解決されたことで、その向こうにあった問題が、クリアーにみえてしまった。
眼前に突きつけられたもの。
それはリアルで解像度の高い「農業をやる」という現実と、「自分にできるのか? 通用するのか?」という恐怖だった。
母や婚約者を相手にしていたときにはみえなかった、むしろ自分で誤魔化していた問題が、いま目の前にそそり立っている。実家が農業をやっている人は笑うかも知れない。だが、私にとってそれは、あまりにも未知の世界だった。
そう思っても、自分のなかに、普通の会社でいままでのような仕事につくのは、いまの私に限っては間違いだ、という声は強固に残っている。
だが、自分にできる能力があるのか。こんな不安を抱えてまで、やりたいことなのか。途中で身動きがとれなくなるのではないか。後で悔やむようなことになるのではないか。そして、みじめに潰れてしまうのではないか。農業をやるのは不安。すごく恐い。できることなら、その夢から逃げ出したいとすら思った。
そう思ったとき、むかし世話になったある人の言葉が、脳裏によみがえった。
「恐い、もうだめだ、って思ったときからが、(自分との)戦いだね」
「男は、いつもここからだよ。ここから戦うんだよ」
何もかもが静止していた。驚くほど、落ち着いていた。
耳に聞こえるくらいに早鐘を打っていた胸が、何もなかったように鎮まっていた。
自分自身との戦いは、敵の名前、すなわちその感情の正体が分かれば、実は勝ったも同然であるという。
未知の世界と戦う前から、私をすくませていた、私の中にいる敵。
さっきまで私を攪乱していた、その敵の名は「恐怖」だ。
なら、大丈夫。そう。
正体不明の不安ならともかく、「恐怖」となら、戦い方があるからだ。
恐怖の発生源は「彼我の実力差が歴然と開いていて太刀打ちできないと思ってしまうこと」
そしてもうひとつは「知らないこと」だ。
今回は前者のようにも見えるが、実は後者である。「無知ゆえの恐怖」だ。
自分は、農業のことをぜんぜん知らない。
そもそも、農業をはじめてもいないのだ。
ならまず、その正体を見に行こう。
7年も本屋をやってきたせいか、どうも情報ばかり当てにする癖がついていたようだ。
その情報のせいで、いま、ただのススキが幽霊に見えているのかもしれない。
恐くなった時点で、情報は必要量を過ぎていたのだ。
つぎは、足を運んで、正体を見に行こう。農業をやめてしまうのか、どうするのかは、その次だ。
「あきらめる」という言葉がある。
その語源は「あきらかに、きわめること」
つまりダメだと断念するのは、ちゃんと正体を見極めてからの話なのだ。
自分の力を過信しないで、力学的に勝てるかどうかを調べよう。勝てるようなら準備をととのえて臨むし、負けるようなら自分に有利なように作戦を練り直すか、攻め口をかえるか、時間を設けて訓練し地力を上げるか、協力者を捜して戦力の底上げをする。ギリギリ勝てるかどうかわからないなら、とりあえず飛び込んでみよう。
「無知ゆえの恐怖」との戦い方は、冷静に実体を見極め、正確に値踏みすること。
それができれば、そして時間さえあれば、勝てるように持っていくことはできる。実際に手を合わせてみて、負けると判断したら「よし! 逃げる!」とシーマ様のように漢らしく、すぐに退却するもいい。
そう、覚悟がきまったら、急に楽になった。
そうだ、ウジウジと悩んでいてもはじまらない。
よーし、どこか、こころよく農業の実体を見せてくれるところを探すか。
そんなことを考えているうちに、すぅっと、ねむってしまった。
もう、気持ちよく眠ることができていた。我ながら単純だと思う。
前々からコンタクトしていた、ある農業体験会からの通知が来たのは、この数日後のことであった。
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■ 2003.01.21
tue「農業体験会」
そこは、岐阜県でトマトの産地としても挙げられている町村だったので、名前だけは知っていた。
ただし、実際に行くのは、ほとんど初めてだった。
その名は、岐阜県アヒル郡アルビオン町ブラックストリーム村
(まんざら外れでもないが凄まじく仮名)。
例によって検索にひっかかるのを回避するための偽名である。これなら絶対にわからねえ。
その農業体験会でのスケジュールは、炭焼き体験や、シイタケの菌打ち、山羊(やぎ)や、ヒツジ、養鶏などの見学などで、農業体験と言うより「自然とのふれあい」に近い、ごく優しいものだった。かなり覚悟して行ったのだが、農業のキビシサとかはサッパリ分からなかった。
だが、ひとつ分かったことがある。
このブラックストリーム村(やっぱりすげえ違和感あるな)という土地に、わたしは一目惚れしてしまったのだ。
季節は春。あるいは初夏と言える時期だったかもしれない。
空気がすばらしく美味かった。空気とはこんな味がするのかと思うくらいに、ここのそれは濃密だった。
緑は「豊か」などというレベルではなかった。人間は、ここに住まわせてもらっているという感じだった。
そして、ある場所で後ろを振り返ると、そこには視界を圧倒する一大パノラマがあった。
はるか眼下に見下ろす市街地。昼間でも星が見えるかと思えるほど突き抜けた蒼穹。そして連なる山々。
アニメとかでたまに見る「大自然」な風景がそこにあった。
このとき、自分はしばらくのあいだ、呆然としていたのだと思う。
一瞬、映像かと錯覚したが、目の前に広がる風景は、本物だった。あまりに綺麗すぎて、うまく認識できなかった。
「天野さん」と呼ばれるまで、そこに立ちつくしていた。
景色に感動してしまって、動けないでいたのだ。
郷愁に近い充実した感覚が、胸を満たしていた。
ほとんど無意識で、わたしは「ここに住もう」という言葉を、口からこぼしていた。
人の通わない大秘境に「これ」があるならわかる。だが、市街地からほんの20分ほど、現住所からも90分ほどのところで、日本人がなんの問題もなく住んでいるところに、いわば手が届くところにこんな素晴らしい大地があったなんてぜんぜん知らなかった。
農業のことなど、完全に失念していた。ちょっと前まで持っていた「恐怖」という焦りなど消し飛んでいた。
いま思えば、あの恐怖は「農業出発のための試練」かもしれなかった。そのプレッシャーを克服できたからこそ、本来もとめていた道が、やっと私の前に現れてくれたのかもしれない。
わたしは、このやや過疎が進みつつある村で暮らそうと、一も二もなく決意していた。
とりあえず、就農地決定である。
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■ 2003.01.22
wed 「ブラックストリーム村概要」
「ええと『そのブラックストリーム村では』と・・・。ええい! やっぱりこの偽名つかいにくいぞ!」
「『岐阜県アヒル郡アルビオン町ブラックストリーム村』は、いくらなんでもやりすぎだったなあ」
「だいたい何だ『アルビオン町』って。そこの住人は、みんなベジタリアンなのか!?」
「うわー、難しいギャグ・・・」
「もう普通に書くぞ『クロカワ』でいいな! あとは出来るだけ地名は書かない! とりあえず検索には引っかからないだろうし、大丈夫だろ!」
「名古屋にも同じ地名があるので混乱しないようにね」
さて。
先の日記で書いたが、土地に惚れてしまった私は、農業体験会の後も、何度かかの地に通った。
体験会のときお世話になったスタッフの方や、その伝(つて)で紹介していただいた人と個別に会い、また「朝市」という町村のイベントに参加して話すうち、クロカワというのは、おおむねこういうところだと分かってきた。
まず、夏はとても涼しいところだ。
去年の夏も、クーラーは一度も稼動しなかったという家がゴロゴロあると聞く。いくつかの家には、実際にクーラーなどなかった。
ただ、標高による低気温というよりは、樹木による天然エアコンという感じで、快適である。(クロカワ周辺は、林業の町が続く)
山間部にかかるせいか、冬に多少の雪は降るが、白川郷や高山のような、二階の窓から手を出すと、地面から積もった雪にさわれてしまうような豪雪地帯では、ないようだ。
何人かの岐阜県人に聞いてみたが、クロカワは同県民からも秘境扱いされるくらいの土地である。多くの県民には、それがどこにあるのかすら分からないとゆー神秘の世界だ。YAHOO MAPにも、ろくすっぽ載ってない。
ちなみに、わたしが目を奪われたその一大パノラマの場所は「クロカワのネパール」と呼ばれている。神秘の住民に、なお、ネパール呼ばわりされるのは、たぶんそこだけ300メートルほど高くなっている海抜のせいだと信じたいが、真相やいかに。
そこには、野生動物もたくさんいる。
東濃地方は野鳥を食べる文化があったくらいで(現在は禁猟とされているが)、生息している鳥の種類は豊富だ。畑の中にふつうに雉(キジ)がいたりして、バードウォッチングにはいいところである。信号もないのに前の車が停まっているので、何だろうと思ったら、イノシシの道路横断待ちということがあったし、バイクで山道を走っているときは、ウヨウヨでてくる野ウサギを轢きそうになった。狸(たぬき)とかニホンザルなどは言うまでもなく、去年の7月にはなんと熊が出て人を襲ったと聞くし、そのまえには誰だったかニホンカモシカにメンチを切られたそうである。
こう書くととんでもない所のように思えるが、あの素晴らしい山々を見ていると、
クマどころか、ハイジが出てもおかしくない
と思えるほどなので、特別天然記念物くらい出て当たり前という感じだ。
ただ、やはり田舎ということで、コンビニもないし、なにより本屋がない。市街地まで行けばあるにはあるが、巨大書店に勤めていた人間に我慢できる規模ではないので、たまに人界に降りて本を漁らなければならないだろう。
ただ、NTTの中継アンテナが村のド真ん中に突き刺さっていて見事な景観をブチ壊しにしているので、携帯電話の電波状況はキモチワルイくらいに良い。市街地におりるとアンテナ1本なのに、どんなに深い山に分け入っても常に3本立っているほどだ。
ネット環境は、最近やっとISDNが入ったそうだ。現状のADSLから逆戻りかと思うと残念だが、そのうちもっと通信環境の整備はされていくようなので、懸念していたネットの問題はないだろう。
ほかに特筆すべきは「人」である。田舎というと、どうしても「農業のことしかしらない人ばっかり」というようなイメージがあったが、ここはNPO団体があるし、異様に回転するメールリンクも持っている。中心になっている住民の意識が、農業や環境問題、哲学や人生論などにおいて、とても高かった。あと、高学歴者が意外に多い。
さらに、ここクロカワは近隣の町村と明確に違う点がある。それは田舎独特の閉鎖的な雰囲気がなく(そりゃ多少はあるが)、非常にオープンだと言うことだ。そのために、余所から入ってくる人もおおい。神戸の陶芸家が越してきたり、ハワイから来た人がいたり、あと有名なパイプオルガン奏者がいたりする。
長所も短所もあるが、おおむね自分には好都合。住み心地において、冬の寒さを除けば快適な土地だと思った。
なにより「ここに移住したい」という旨の相談を、多くの人が、こころよく歓迎してくれたのが嬉しい。
「ゆるやかな過疎の中で、少しでも人口を増やしたいから」という目算もあるかもしれない。でも顔を見ていると分かる。
この人たちは(定年している人が多いからかもしれないが)こころに余裕があって、人間がすきなんだ。
わたしはこの土地に、惚れ込んでいた。
そして、自分はここで「農業」をやろうと思う。
それが、どんな形の農業になるかは、まだわからないが。
ここで農業をやって暮らしたい。そうしみじみと思った。
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■ 2003.01.23_1
thu 「農業の形態」
自分の理想とする仕事は、農業であると考えて、既存の農業のことを調べた。
だが、調べるほどに、違和感があった。
「あくせく働かない、そして、お金を無駄に使わない生活。それが実現できて、かつ、やりがいのある職業」として見当をつけたのが「農業」ではなかったのか。
調べるほどに、むしろ農業の実体は、その正反対にあるのではないか、という気がしてきた。
先日の「恐怖」(あの場合は、正確には「戦う前から負けている」状態)からの脱出ができたおかげで、いくらか自由な視野を得られたようだ。クロカワの解放感も相まって、「理想」と「既存の農業」との矛盾が、だんだんと明確になってきたのだ。
ところが、ここに至っても、わたしはまだ「農業」が、その理想の答えであるような気がしていた。
だから「農業」という選択肢は、捨てなかった。
私が最初のころに理想としていた農業とは、どんなものだったのだろう。
クロカワに通いながら、そんなことを考えていた。
「矛盾もあるけど、それでも、やっぱりここで農業をやるべきだと思う」
そう考えながら私は、クロカワで、何軒かの農家を案内してもらい、農業の実体を見学をさせてもらった。
どの家の人も忙しい最中に時間をとってくださり、懇切丁寧にハウスの構造やトマトの生態について話してくださった。
やはり本物をみるのは違う。書籍を読んでもわからなかったことが、一発でわかるような事態が連続した。本に書かれていないような独自の農法もたくさんあって、その都度、驚かざるを得なかった。
農業というものが、現実的に見えてくる。
しかし同時に、自分がいちばん最初にもっていた理想との違いも、明確に感じざるをえない。
そう悩みながらクロカワを訪問しているとき、ある人物に出会った。クロカワでも有名な、Tさん(例によって検索回避のため仮名)である。彼は一般的に言う「農家」とは、ちょっと違っていた。
養豚の仕事をしていたT氏は、あるとき仕事を辞め「自給自足」をはじめたそうだ。
この人の「自給自足」はすごい。
まず、家族が食べる分の米や野菜は、基本的に自分たちで作っている。
そして、家は持ち家だったが、そのとなりにもう一軒、自分で建てたそうだ。
クロカワの周辺は、どこも林業の町なので、お金が必要なときには山仕事をやったそうだが、そのバイトでチェーンソーの使い方を憶えた氏は、その技術を使い、間伐材や売れないような木、あるいは廃材などをその人徳で譲り受け、けっきょく2階建ての家を手作りで増築してしまったのだ。驚いたことに、その家には地下室(貯蔵庫)までついていた。言っておくが彼は
大工ではない。もと養豚業の従業員である。そして、なんでも自分で作る男である。
Tさんは、自家用以外にも、雑穀や古代米の栽培で、ある程度の生計を立てている。
しかし、それほど稼ぐつもりはないようだ。高校を出たばかりの娘さんを含めた3人暮らしだそうだが
「月の生活費はだいたい8万円」
だという。さすがに耳を疑った。
「あの、食費とか光熱費とか国民健康保険とか」
「なにもかも含めた一家の総出費が8万円」
お金が余るので、先日、新車を買ったそうだ。プリウスだった。
家が持ち家であること、食費がほとんど要らないこと、ほか細々としたノウハウなどもあると思うが、それでもすごい。
「お金をつかわない生活」のモデルがここにあるのではないかと、わたしは思った。この日から、この人に注目した。
それ以降、クロカワへ行くとき、たびたびTさんを訪ねて話を聞いた。
農薬が使われている畑には、蜘蛛(クモ)が2種類くらいしかいないんだよ、という話を聞く。
農薬は害虫も殺すが、蜘蛛も殺してしまうからだ。
T氏は農薬を使わない。
そのおかげで26種類にも増えた蜘蛛が虫を食べてくれるから、そもそも農薬を使う必要がないのだ。
氏の畑は、ビニールシートも農薬も使われていない。理想的な「自然農法」の畑である。
「そこに虫がいたり、雑草が生えるのは、大地にとって自然なことで、何かバランスをとるために意味があるから生えてくるんだよね。だから、それを人間の都合で(薬などで)除去してもどこかに無理が出るでしょ。食べ物をつくらせてもらう立場でつくれば、農薬をつかわなくても、自然にバランスがとれて収穫できるんだよ」
案内のあとでいただいた、Tさんのつくったライ麦パンと、発芽玄米は、ものすごく美味かった。
「仕事をこなそうとするとき、一生懸命効率的にやろうとするけど、そういうときって、次のことを考えながらやるからミスしてしまうことってあるでしょう? ホントはね、余計な心配しないで、目の前の仕事にただ熱中するのが、いちばんいいんだよ。仕事は、一生懸命やるものかも知れないけど、イヤイヤやってもダメ。無理をしないし、不自然なこと、道理に適わないことはしない。それが一番いいよ。
自然とか、豚相手のことなんか特にそう。人間の都合でいうことを聞かせようと思ってもダメ。自分の段取りと都合でごり押ししたらヘトヘトになって8時間かかった。けど、豚の都合にまかせて、豚のいいようにやらせて、自分でもやりたくないことは、あえてやらないでいたら、豚の方が自然に動いてくれて、同じくらいの仕事が4時間で終わるようになった」
かつて自分がやっていた仕事のことを思い出す。
T氏のこれは「なまけ」ではない。高度な脱力であると思う。
「あくせく働かない生活」のモデルがここにあるのではないか、と私は思った。
本人のもつ説得力がこの文章に現れていないのが申し訳ないが、こちらの基準があまりに低いので無理もない。
わたしもいつか、こういう境地に立てられれば、こんな話ができるようになるのだろうか。
「しっ、師匠と呼ばせてくださいっ!」
と言いたくても、ついに言えなかった。あまりにも、レベルが違ったからだ。
この人との出会いで、わたしは目が醒めるような思いを味わった。
T氏の生産活動は、農業の一種ではあるが、基本的に、農協への出荷を目的としていないので、あくせくしていない。
生活にかかるお金は、切りつめているというより、必要なものを自給できるので、必要ない。
そして、収穫し、それを食べることを、純粋に喜びとしている。そして環境に流れている真理を、自然に感じ取って生きている。
そのスタイルは、ひとことで言えば「自然に生きる」だった。
これは「自然と生きる」ではない。
自然に、あくまで逆らわずに、ともに生きている姿がそこにあった。
わたしには、Tさんが、偉いお坊さんのように見えた。
「自分に必要なことだけ足りていれば、充分」
屈託なくわらう笑顔が、そこにあった。
目の前にある「これ」は、わたしが違和感を持ち続けてきた農業ではない。
風にそよぐ若い麦を見ながら、思った。
わたしが最初に夢みた、理想の農業形態の現実の姿がここにあった。
やっと見つけた。これが私の「農業」の着地点だ。
これを目指そう。
御馳走になった食事の礼をし、自宅へ帰る車中で、山道ゆえの慢性的な急勾配を滑り落ちながらそう確信した。
ただ、氏の生活は、子供の教育費の問題がクリアされているからできていることでもある。
だから、家庭を持つことを前提とした場合、これをそのまま実現するのは無理だ。教育費をはじめ、どこかで現金収入がなくてはならない。
だから具体的には、まず「自給自足」ではなく「半自給自足」あるいは「四半自給自足」を目差して出発しよう。
そのためには、
農業はやるが、そっちに収入を期待しない。
そして、なにか定職を持つ。
これが条件となる。もちろん、両方とも「あくせく働かなくてもいい」レベルで、従事していける形を選択しなければならない。
もう定職はなんでもいい。履歴書には、罫が足りなくていきなり職歴から書くしかないくらいに何回も転職したくらいで、人生においてやりたい職業はだいたいやった。次の仕事はホントに「なんでもいい」と思う。この地で生きていきたいだけだから、なんでもできるはずだ。
「農業」に捕らわれてずいぶん回り道をしたが、やっと明確なビジョンが掴めた。
最初に出力した言葉は「田舎で農業」だった。
いまつかんでいる理想は「田舎で自然に暮らす」世に言う「田舎暮らし」である。
あくせく働かないで、お金を使わないで過ごせる環境を整備して、自然に暮らしていこう。
生活に必要なものも、食べ物も、必要なものは、自分で作れるようになればいいのだ。
無駄な消費を嫌って、そう思っていた私にとって、自給自足は、その理想だった。
こころが踊っていた。
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■ 2003.01.23_2
thu 「田舎暮らし」
・あくせく働かずにいきていきたい。
・あまりお金を使わないですむ生活を実現したい。
・自分でたべるものを自分で育てたい。
・田舎で暮らしたい。
・自然と触れあう仕事をしたい。
・資源やエネルギーを無駄に使わない生活でありたい。
はからずも、最初の理想が全部実現しうる方向が見つかってしまった。
この理想においては、どれにおいても「無理なく」というのが、必須のポイントである。
無理してやっても長くは続かないからだ。
振り返ってみると、偉そうなこと書いているが、ようするに、いろいろ面倒になったので、田舎で、大型の家庭菜園をやりながら地元の仕事を細々とやって、生活費のかからない環境で若隠居するということかも知れない。
自分は前職でもそうだったが、やるべき仕事があると、それをどこまでもやってしまう。
これは美徳の一種なのかも知れないが、だからこそ、既存の農業のスタイルは、むいていない。というか向きすぎているのだ。初めてしまったら、作業を分担したり、効率化を追求するよりも、単純作業をやりこみ、のめり込み、潰れてしまうことが目に見えていた。
だから「楽な暮らしを狙う」くらいの志(こころざし)で、ちょうどバランスがとれると踏んでいる。
いくら「農業は意義ある理想の職業」だと思っても、必死にあくせく働いて、家族のことを省みる暇もなく、友達と遊びにも行けないような道では、書店と同じだ。前職のノウハウと魅力を捨てた上で選ぶ価値はない。
楽な暮らし、というのは、誰でも望むことだが、なかなか得られないものだ。
でも、自分は真剣に探した。そして、見つけたのだと思う。
「農業をやる」というのは、結果的に断念したことになる。
少なくとも、農業らしい農業ではない。農産物でお金を得ようとも思っていないから。
最初は、クロカワで農業をやれたらいいな、と思った。
だが、やはりスキルも資産も土地もない者が、なにもかも持っている先輩方の中に飛び込んでいって勝負になるのかといえば、自分には無理と言わざるを得ない。努力と根性で無理をすればできないことはないだろう。だが、それはもう次の人生の美徳ではないのだ。
わたしの意見だが、農業は「素人の個人」がやる「経済活動」としてみれば、およそ最悪のもので、苦労のわりにお金にならない。書店を独立開業する方が、よっぽどマシだろう。素人が農業を出発して生計を立てるのは、現実的にかなり困難だと思う。もちろんやっている方もいる。クロカワにもその周辺にも、真っ正面から農業にとりくみ、成功している人は何人もいる。だが、破れて去っていく人はそれに数倍する数ある。
農業に憧れ、調べ、恐怖し、それでも農業を知ろうとし、そしてようやく自分が理想とする農業の道と出会えた。
わたしが見いだしたそれは、立派な道ではないかもしれない。
一般にいわれる正統派な農業ではないし、農業の大変さからの逃げかもしれない。
でも、わたしはこれを求めていた。
それに、テキストで描いたり、口で語ったりするのは簡単だが、実際のところ、これを実現するのは難しいことだと思う。
なにせ、この時代に、誰もが望みながらも得られない「楽な暮らし」なのだ。
それが生半可なことでは実現しえないことくらい、分かっている。
でも、自分にはすでに、「農業」のときにはなかった確信がある。あとは、ただ、準備をしっかりして、がんばっていくだけだ。
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■ 2003.01.24_1
fri 「新規就農の罠」
いま思うと、新規就農センターでは、話しているウチに、うまく丸め込まれていたような気がする。
なにせこちらは情報がないせいで、藁(わら)をもすがるような気持ちなのだ。そして、むこうは「農業は大変です」と言った上でいろんな情報を提示してくるから、やはり条件のいいものを選ばざるを得ないので、「岐阜県なら白川町で、トマトをやるしかない」という気持ちに、自動的になってしまう。
「丸め込まれている」と書いたが、向こうにも決して悪気はない。むしろ困っているだろう。自分がなにを求めているのかよく分かっていない、私のような人がたくさん来るわけだから。
しかも、センターとしては農業人口が欲しいのだ。「農業をやりたい」と言ってくる以上、立派な農業従事者に導かねばならない。ここで、自分の理想をハッキリさせていないと食い違いが生じるのだ。私のように。
あるていど知識を得たら、センターに頼るのではなく、やはり自分の足で、現地を見に行かなければならないと実感している。
センターと現地との間に、おおきな見解の相違があったからだ。
センターは、新規就農者を後押しするとき
「農業は仕事が多すぎて副業なんて無理」と脅した上で
「専業でもがんばれば金銭的にもやっていける」
と押す。それはたしかに事実の一部なのだが、ほかにもやり方はあるはずなのだ。
現地で朝市などに遊びに行き、いろんな農家の人や、ふつうに商売をしている人たちに、直接はなしを聞くと
「副業ができるくらいには時間がありそう」であり(季節によるが)
「副業無しには金銭的にやっていけない」という、センターとは正反対のコメントが返ってくる。
農業生活のスタイルは、実際に何種類もあり、地域によってもぜんぜん違うようだ。
やはり、農業のことは、自分で多角的に調べなければダメなのだと思った。
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■ 2003.01.24_2
fri 「農業やる気発掘セミナー」
農業の方針が変わって、実際には「田舎暮らし」になったが、畑をやることはかわらない。
だが、クロカワに移住し、出発できるのは春からなので、いまのうちに勉強くらいはしておこうと思った。
前々からの誘いもあったので、県庁主催の「農業やる気発掘セミナー」という、なんかスゲエお役所らしい名前の企画に参加することにする。
会場で着席してから、どんな人が集まるんだろうと、参加者を観察してみた。
ビジネスとして農業を出発しようと思っている人がまず多いように思える。彼らとは自由時間や受講後に、何度か話をしたが、農業でいかに儲けるかという点に主眼をおいて農業を見ているようだ。当然と言えば当然であろう。年代は50代を中心とした感じで、農業を、最後のひと仕事として見ている人もおおいと思う。
私のような30代はまれである。と思ったら、わたしよりも若い人がいたので驚く。
いや、驚いたのは、年齢より風貌だった。
なんというか、いまどき珍しく非常にパンキッシュな若者である。
髪は金色で、放射線状に空間を突き刺し、服とアクセは上から下まで黒と銀で統一。運悪く彼の隣に座った50代くらいのお父さん受講者は、不自然なくらい姿勢正しく前を向いていた。
秋山瑞人風にいえば「生まれてこの方、ミネラルウォーターと生野菜とマリファナしか口にしていません」という感じのツラ構えをしたこの青年は、いったい何を夢みて農業をやろうと思ったのだろうか。
話をしてみたかったが、彼はセミナーの二回目くらいからすでに姿を消していた。
最初はちょっと残念だったが、そのわけもすぐに分かる。
この非道いネーミングセンスのセミナーは、内容も非道かったのだ。
指導書をコピーしたレジュメに従い、講師がそれを読み、説明していく。あとで質疑応答。
これだけである。
夜、仕事(アルバイト)がえりにわざわざ寄って90分も聴くほどの内容ではない。
三回目までは参加したが、そのセミナーが終わったときに
「畑で虫でも見ていた方がましだと思います」もしくは
「ファッキン! 犬のケツにでもブチ込みな!」とゆーよーな趣旨の感想文を残してそれ以降は出席もしなかった。講師さんはおそらく実技指導派の、真面目な農家の方(そういうひとに黒板講義やらせんなよな、県庁さん)だと思うので、あの文章を読んだ夜はショックだったであろう。
会場を後にし、駐車場をあるきながら思う。
やる気があるなら、夜間セミナーなどより、休日にでも現地を見に行くほうがいいだろうに、と。
でもこんなところに来て板書などしているのは、かつての自分と同じなのかもしれない。
受講者は、情報がほしくて藁をもすがる思いなのだ。
実際、この講座は藁なみだったが。
のちに、農業従事者の資格が得られるので、最終日だけでも来ないかという誘いの電話が、県庁職員からかかってきた。でも、これ(最終日だけ)で得られる資格にどれほどの意味があるだろう。そう考えながら
「就農予定地も方向性も決まりましたので、そちらで頑張らせてもらいます」もしくは
「いま月姫の秋葉シナリオが大詰めなので(当時)、そんな余裕ねえよ」とゆーよーな趣旨の返事をして、断っておいた。
いま振り返って、あのセミナーへの参加は「やらないよりはまし」という程度だったと思う。
そして「やらないよりはまし」などというものは、本当は「やらない方がまし」なのだ。
時間の無駄だから。
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■ 2003.01.25_1
sat 「農村の住宅事情・バリア」
クロカワで田舎暮らしをする。それは決まった。あとはここでの住居と畑と仕事の確保である。
よく日記で「お金を使わない生活」と書いたが、単身で暮らしたとしても、まず衣食住は必要だし、生命保険や国民健康保険、車両の維持費と燃料費、インターネットの通信費と、そしてそのほとんどが本とPC関係であろうと思うが娯楽出費などがある。これで家庭を出発したら、出費はもっと増えるだろう。
ただ、この中に、いずれ軌道に乗れば著しく減少するであろう食費とならんで、もうひとつ、クロカワならではの削減可能な予算があるのだ。
それが住居費である。
クロカワは、なにせ緩(ゆる)いとはいえ過疎の村なので、家屋の借り賃が安いのだ。
たとえば、田舎のでかい家を一軒かりても、月家賃が15000円くらいだったりする。もちろん家の程度によって上はキリがないし、親戚すじからの賃貸など、ルートによっては下方にもかなりの変動がある。なかには月3000円で借りられる家もあるようだ。「家というのは人が住んでいないと痛みがはやい」という話をよく聞く。だから、住む人がいなくなった家は貸しに出したいのだろうなあ、と思っていた。
だが、実際に家探しをはじめてみると、この話はだいぶ違った。
「クロカワに引っ越してきたいのですが、借りられる家はありませんか」
いったい何人にこれを尋ねてまわっただろう。
クロカワには賃貸アパートなどといったハイカラなものは存在しないし、不動産業などというモダンな職業も存在しなかった。あるのは、空き家とその所有者だけだ。クロカワに通うようになってから顔見知りになった人を頼りに、片端から聞きまくるしかない。しかし、いつまでたっても、借りられる家は見つからなかった。
三ヶ月ほど粘った後、認識を改める。
田舎で家を借りることは、意外に難しい。
覚悟し直して、もう一度状況を整理してみよう。
実際のところ、家は空いているようである。何軒も空き家があることを確認している。
クロカワに限ったことではないが、家の持ち主が「夏に息子夫婦がくるから」とか「仏壇があるから」などの理由で貸してくれないケースが多いらしい。
そりゃそうだ。会ったこともない人にホイホイ家を貸すほど、田舎はドライではない。
私の現住所とクロカワとは、実際かなり遠く、たいして交流といったものがない。いわば私は外国の人である。そんな奴に、家を貸す人などそうはおるまい。
6月から探しはじめた物件さがしは、ひどく難航し、何ヶ月もの間、ただの一件も挙がってこなかった。
これを突破してくれたのが、ゆっこさんだった。
「婚約者を連れてクロカワを見に行きます」
前から見に行きたいと言っていた彼女の都合がやっとついたので、クロカワの知人にそう告げる。
適齢期の日本人女性でこの地に引越してくる人間などという珍獣は、闇ルートで裏オークションでも使わなければ手に入らないと、やや真剣に考えている村の人間にとって、これは驚愕すべきの事態である。
そのときの歓待ぶりは、実に素晴らしかった。
「クロカワのいいところだけを見せる」とゆースタッフ一丸となった徹底した作戦により、彼女に好印象を植え付けることに成功したのだ。
もう、家なんかあなたいくらでも、という感じで、一気に、居住可能な家を三軒も紹介してもらえた。
いままでどこに隠してたんですかという、ごく個人的な魂の叫びをかろうじて押さえ込み、皆で見て回る。
この急激な事態の進展は、もちろん、村が彼女を大切に思ってくれたから、というのもあるだろう。だが、もうひとつ
「ああ、こいつは本気でここに住むつもりなんだな」
そう認められたからだと思う。
もちろんこちらは最初っからそのつもりだったが、村というのはひとつの生き物である。村民個々の意識は迎えたいと思っていても、「村」にとっての納得が必要だったのだ。
それは、足繁く通って地域にうち解けて行くという地道な努力の積み重ねに、ついに姿をあらわした婚約者が火をつけ、達成されたのだと思う。
そして、ゆっこさんを連れていったことをきっかけに、見えないバリアが剥がれていくのを感じた。
ともあれ、こうして家探しは具体的に始まった。
ようやく、という感じである。6月から声をかけだして、これが11月。ここまで5ヶ月ほどもかかっていた。
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■ 2003.01.25_2
sat 「農村の住宅事情・最初の三軒」
ゆっこさんが住居探しの突破孔となり、三件の家を紹介してもらえることになった。
例のたがわず、家はどれも格安だった。
三軒紹介してもらったうち一軒は、やや小さめだったが、それ以外の二軒はものすごく広い。
土地がだいたい100坪弱くらいで、建坪は50坪ほどだろうか。そこに八畳間が4つ(ほか数部屋)あるの母屋と、増築された離れが数棟。農機具を格納する倉庫なども合わせると、屋根がある建物だけで8つ。母屋は、襖を取り払えば32畳の大部屋になり、いつ葬式があっても大丈夫という造りだ。うろ覚えだが、二軒ともだいたいこんな感じである。
家賃は交渉次第だが、3〜5万円とのことだった。片方の家は、もうちょっと高いかもしれない。
平屋のくせに三世帯住宅なみの広さと部屋数があってこの金額である。しかも、客間や子供部屋どころか、書斎がいくつも持てそうな感じだ。田舎というのは素晴らしい。
それにしても、たとえばこの規模の家を、ちょっと便利なところで借りようとしたら、月にいくらするだろう。仮に15万円とすれば、それを払う生活が、3万円ですむわけだ。
この当時のアルバイトが、月に13万円ほどの収入だったが、25万稼いでいるのと同義の生活である。(まあ、そんな単純なものではないが)家が安いと言うのは、それだけで素晴らしい。
だが、そのときの家は、一人二人で住むには広すぎ、、また一軒は先約もあったらしく、断念した。
結局、やや小さめの一軒(3LDK・バス・トイレ +倉庫+駐車場・敷金礼金なしで月2万円)を厚かましくも保留させてもらい、さらに家を探す。まだ探し始めたばかりなのだ、焦っても仕方がない。
次の家の話も、すぐにきた。ある農業関係の講演会を聴きに行ったとき、以前に朝市でタイの楽器を教えてもらった女性から紹介されたのだ。
「天野さん、天野さん、町営住宅に空きがあるって!」
「やった、どんなところですか」
「ええとね」
「・・・・」
お姉さんは、しばらく思案していた。
「・・・・」
「・・・・」
「・・・・」
「・・・屋根は、あるよ?」
「ちょっとまってください」
俺は「蛮勇引力」の金井半兵衛か。
翌週、アポイントをとって、わたしはその家を見に行った。
思えばクロカワは、かつて住んでいた東京や、現住所の相場とは、あまりに住宅の賃貸料が異なる世界である。そこでの基準というものが、わたしはいまひとつ掴めないでいたのだろう。
だが、思えばその日に紹介された家こそが、クロカワ、ひいては田舎における住環境の価値観というものを教えてくれたのだと思う。
これでまた、目から鱗が落ちた気がしたほどだった。
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■ 2003.01.25_3
sat 「農村の住宅事情・町営住宅」
つづき
「天野さん、天野さん、町営住宅に空きがあるって!」
「やった、どんなところですか」
「ええとね」
「・・・・」
お姉さんは、しばらく思案していた。
「・・・・」
「・・・屋根は、あるよ?」
ちょっとまて。
他にセールスポイントはないのか。
「家賃はなんと3000円!」
安すぎる。
「お姉さん、ちょっと『屋根はある』って、あの、他は? 壁は? 床は?」
「うーん、どうかな」
どうかな?
ひょっとして、ないのか!?
「とりあえず、建設課の係の人に連絡とっておくから見に行ってみて。あと9000円の家もあるって。両方見せてもらったらいいよ。じゃあね」
それが日記内時間で先週のことである。
案内されて見に行った場所には、山の陰に隠れるように建てられた、ものすごく侘びしいたたずまいの住宅があった。
向かいの山の高さから察するとこと、太陽が覗くのは、きっとすごく遅い。たぶん日の出が午前10時頃だろう。そしてすぐ裏の山へ太陽が隠れるのが、また凄まじく早く、おそらく日没が午後1時30分ごろだろうと思う。案内されて到着した1時45分現在、すでに太陽は山の向こうに没し、あたりは暗くなっていたからだ。
この極端に短い日照時間のせいか、家全体が黴(か)びているような気がする。どこかその辺でヒソクサリが花をつけていそうだった。肺をやられるような気がしたので、住宅内で深呼吸ができない。こうなると、この侘びしさはむしろ住む人間への「攻撃」である。手の施しようがないくらいについた汚れが随所にあった。もしこれを全部ピカピカに磨き上げても、この攻撃力に満ちた侘びしさは、いささかも減退しないだろう。そもそも掃除する以前に張らなくては行けない壁や、ビー玉を置いて傾斜を診るまでもなく、立っているだけで自然と前傾姿勢になる床など、満足のいく環境に改善するには、かなりの補修費用が必要だ。贅沢を言わせてもらえれば「ごきげんよう」が終わる頃には太陽を隠してしまう裏山も根こそぎ削ってやりたい。
なんというか。
町の名誉もあるので、精一杯の誉め言葉を選ばせてもらうとして、
「住んでるだけで鬱になりそうな家」
である。
「うぅー、これはちょっと・・・」
「どうですか」
「いや、どうですかって」
「市の方にもお金が無くて、我々住宅係のほうでも、なかなか補修できないんです。すみません」
「はあ」
「じゃあ、もう一件の方を、見に行きますか」
「ええと、いま見たのが安い方の家ですよね」
「いえ、こっちが高い方です」
「・・・・」
「・・・・」
案内されて見に行った安い方の家は、ほぼ、上記の条件を満たしたあげくに、案の定、床が抜けていた。
ここを見たあと、結局、家は、保留しておいたちいさめの一軒家に決めた。
なんというか、その町営住宅に比べると、ものすごく素晴らしい家に見えたからかもしれない。
とりあえず、その3LDKにしばらく住んでみる。
そのうち、書斎が設けられそうな、いい家があったら、引越すことを前提に。
今年の春から、そこに引っ越して、まずは一人で暮らす。
あとでゆっこさんが越してきて、家庭を出発するという計画だ。それもかなり先だが。
とりあえずこれで、住むところは確保できた。
やれやれ、である。
おまけとして、先述した「住居と仕事と畑の確保」について、ここで書いておこう。
住宅事情は先のとおりだが、畑に関しては、いまのところわたしは心配していない。家よりはよっぽど簡単に貸してくれるからだ。
ためしに聞いた限りでは、300坪くらい借りて、年間の借り賃が5000円くらいと言う話である。「年間」というあたり、ちょっと耳を疑う安さだ。
よく「農業を始めるとき、農地は買った方がいいのかどうか」という話を聞くが、買う額でなら1000年ちかく借りられる計算になるので、その地に永住して大繁殖するつもりがなければ、買うことはないだろう。
借り賃は、現金の場合と、酒で払う場合があるという。それにしても5000円というこの安さは、草刈りなどの手間賃だろう。先祖伝来の土地だから売る気はないが、手入れも大変なので地主としては貸した方がいいのだ。
もっとも、これも簡単に借りられるものではないと思うが、家が借りられるくらい村にうち解けられれば、ハードルとする高さではない。
ただ、いまはまだ畑を借りる気はなくなってきた。
家からあまり離れたところに借りるのも通いが面倒なので、畑を持つのは「いい家」が見つかってからにしたいし、畑、つまり「農」を始めるのは、やがて就くであろう仕事にあるていど慣れてからにしたい。
そもそも、最初は、近所の畑の援助をしつつ、農業を憶えるところからはじまるだろう。だから、実際に借りるのはだいぶん後だ。
そうなにもかも一辺に始めることはない。
何年かのスパンで、順番にものにしていこうと思う。
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■ 2003.01.26
holy 「Let's sail to the wonder」
家が決まり、クロカワへの移住が許可された。
ふりかえれば「夜想曲」の更新を停止してから、9ヶ月が経っていた。
このファイルで書いてきたことは、おおよそその間の記録である。
仕事を辞めたことをきっかけに、自分の納得できる生活を追求した。
それが農業であろうと思い、調べ、「田舎暮らし」という形を見いだした。
そして、理想が実現できる土地に、家を借りることができた。
ここまでが、やっと終わった。
そして、これからが「夏草戦記」のはじまりである。
そこでは、たぶん今までの生活とはなにもかも違った日々が待っているだろう。
実際に過ごしてみなければわからないことが、たくさんあるだろう。
一度の挑戦では実現しないことも多いに違いない。なんども挑まなくてはならない戦いもあるだろう。それは自分との戦いかもしれないし、環境との戦いかもしれない。
でも、そこでの生活は、自分の理想そのものになっていくと思う。
えらく時間はかかったが、準備と設計図はあらかたできた。勉強することも含めて、これからこの手で、実現していこう。
「9ヶ月の夏草戦記」をはじめてから、メールフォームのおかげか、たくさんのお便りを戴いている。
その中で「行動力」を賞讃してくれるものが、いくつかあった。
だが、もし自分の中にこの事情を実現できた力があるとするなら、
それは「行動力」ではなく「欲深さ」によるところなのではないだろうか。
省みても、わたしは単に、欲深いだけなのだと思う。
でも、これは、現在のわたしが誇れる最大の美徳だ。
そして、その美徳を持っているものだけに出来る生き方がある。
それが「冒険」だ。
正直いって、田舎暮らしは、恐いし不安もある。
でも、それを上回る恍惚がこの身を包んでいる。
この感慨は、男の子がいつまでももつことのできる特権であろう。
さあ「冒険」のはじまりだ。
「9ヶ月の夏草戦記」終了。次回より「夏草戦記」で統合されます
ところでメールフォームを作りました。このあまり意味のないボタンをおすとそっち(入力用のページ)へ飛びますので、お気軽に感想などお送りください。