2002.03.05 tue「夜想曲の終焉」


いまは、誰もがいろんな夢を持つようになった時代だと思う。

アーティストになりたい、美容師になりたい、作家になりたい、憧れる職業は綺羅星のごとく無数にある。
でも、その実現には「プロになる」という、途方もない時間と才能を必要とする道しかなかった。

しかし、そういう夢は、こまかく分析していくと、実はごく限られた欲望であることが多い。

私の場合は、小説家に憧れたが、それを分析してみると、「文章を読んでもらいたい」という欲望が、その夢の正体だった。
分析前の曖昧な夢をそのまま実現しようとすれば、そのためには小説家かライターかエッセイストに成らねばならない。
でも、それには様々な制約がつく。才能はあるのか、喰っていけるのか、仕事のために書きたくもない文章を書かなければならないのではないかなどなど。それを押してでもやりたいかというと、それほどでもないのが本音だ。なにせ、その実は「文章を読んでもらいたい」という欲望でしかないのだから。

その夢・欲望が燻(くすぶ)ったまま普通の生活を送っていたのだが、ある日それは突然にはけ口を見つけることになる。
インターネットとの出会いである。

自分でHPを立ち上げ、とにかく私は文章を書いた。最初は、ハーメルンのイラストと、解説文だった。いままで貯め込んでいた絵・テキストのネタをどんどん出した。

文章を見てもらいたい、絵を見てもらいたい、そして感想を送って欲しい。そういった欲望が、インターネットによって、どんどんかなえられていく。
幸い「夜想曲」は好調にヒットし、メールによるレスも多く、掲示板を設置したことで、さらに分かりやすく、けっこうな評価を受けるようになった。

そして日記を書き始めた。

最初は日々感じたことと、ネタばかりだったが、次第に、自分が文章で世に出ようと思ったらこれを書いただろうな、という本気っぽい文章も出すようになった。ときには受けを無視して、本質的なテーマ性のある文章も書いた。
最初は、趣味の延長だった日記に、だんだん本気になっていったのだ。

絵の方も、どんどん上手くなっていき、一年どころか半年前の絵も、もう稚拙で見られないような成長を遂げていた。
「いい絵が描けたな」と思うこともしばしばあった。ネット上にある、恐るべきハイ・アマチュアのひしめきの中では、「いい絵」というのは自己満足でしかないかもしれない。だが、描きたいと思っていたテーマを表現できた、という意味では満足のいくものがいくつもできた。


そしてあるとき、突然、それら創作活動に満足がいってしまった。


文章も絵も、自分が通過してきた世界を、形として吐き出す作業だった。それが全部、吐き出せた。少なくとも、吐き出したいと思っていたものはすべて。

それは同時に、文章を見てもらいたい、絵を見てもらいたい、という欲望の昇華でもあった。


それは、不思議な感覚だった。


だれでも創作活動を世に出せるネットというツールで、わたしの燻った夢の煙は、キレイに吸い出されてしまったのだ。

現代は、時代のもたらす刺激が多く、またプロとアマの基準が不明瞭になり、また、クリエイティブな仕事の方がカッコイイと思われがちなのも、一役買っていると思うが、世の中には燻った夢っぽい欲望・野望が、たくさん煙っている。
この日本での、インターネットの時代的な意味は、燻った夢の煙を吸い込んでくれるはけ口でもあるのだと思った。

わたしは、幸い、このおかげで心のなかがスッキリした。

これで、自分は書きたいと思ったことを全部書いた。
これで、自分は描きたいと思った絵を、全部描けた。

そう整理がついたのである。「疲れ」や「飽き」以外で終了した感じがして、気分はとてもいい。


絵を描かなくなること、文章を書かなくなることは、正直なところ、すこし寂しい。
でも、自分はその欲望にいろいろと翻弄されてきたことも、認められる。
辛いとき、絵や文章を描いて、整理し、また逃げてきたのも事実である。

それが一段落ついたというのは、いい機会なのだと思う。
ここで、一度、文筆と絵筆を置き、これから、別の道を歩き出してみようと思う。


自分を見失っているときというのは、本心で求めるものをなかなか見つけられないものだが、こうして、文章や絵の夢が叶って、すこしづつ雲が晴れていくと、今度は、心の底の方にある、やりたいことが見つかってきた。

その道は、正直なところ、あんまり畑違いなので、まだ、ちゃんと歩めるかどうか分からない。一度断念して、再出発というケースも何度かあるだろう。
ダメになるかも知れない。こればかりはわからない。だから、ここでは恥ずかしいので書かない。

でも、スッキリしてはじめられる。「俺はホントはアレがやりたかったんだ」という無念を引きずらずに邁進できる。
これが、とても嬉しく、気持ちいいのだ。

インターネットというものに、だから、いまは本当に感謝している。
そして、私の文章や絵に応えてくれた、このモニターのむこうにいる皆さんにも。

スッキリと、インターネットと、そして皆さんとも、少しの間、おわかれをしようと思う。




落ち着いくか、あるいは一度ダメになったら、もしくは新たに表現したい心情世界が掴めてしまったら、また更新するかも知れない。だが、とりあえず、日記・絵・考察を含め、夜想曲の全更新を、ここで一時終了する。



私の夢の煙はすごく濃くて、ぜんぶ吐けるまでに四年以上もかかってしまった。

その間、おつきあいいただけたみなさま。いままで、本当にありがとうございました。









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2002.03.04 mon「絵が生きて人を癒す」


ある少年が、自分の愛していた鳩の無事を祈っている。

その伝書鳩は、帰り道でひどい嵐に見舞われ、命が危ないかも知れないのだ。

少年は神様に祈る。

「神様、ぼくは、あの鳩が帰ってくるなら、大好きな絵を、一ヶ月・・・いや、一生やめたってかまいません」

だが、鳩は帰ってこなかった。

ずっとふさぎこんでいた少年がある日、アトリエに立っているのを母親が見つける。

おおきなキャンバスには、その鳩の絵が描かれていた。

「あの鳩は、帰ってこなかった。だからぼくは、絵の中で、あの鳩を生かしてあげるんだ」

少年は、鳩の絵を描き続けた。



自分が母娘ものの絵を描いてきたのは、これに似た起源がある。

何枚も描くうち、長い時間が流れ、少しづつその衝動は癒されてきた。

いつからだろう。私は、もう心の空隙をうめるために、辛い思いをして母娘の絵をかかなくても、大丈夫になっていた。
私が絵をもって求めていた渇望は、潤されていたのだ。


長い、長い時間をかけて。ひとのこころによって。そして、絵を描き続けたことで。



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2002.03.03 hoky「人が『心を閉ざす』ということ」


よく聞く例だが、ひとのこころを、コップに例えよう。

生まれたばかりのそのコップには、まず母親からの愛情が注がれる。

子供にとって世界は、母を通じて出会うものである。母を通じて父を知り、兄弟を知り、家庭を知り、友達を、地域を、民族を、国家を、世界を知っていく。母の愛がまず子供にとっての世界の入り口である。

生まれたときは空っぽのコップも、母からの愛情を受けながら、その中身は愛でみたされていく。
やがて心には愛が満ち、隣人へ溢れ出るようになって、はじめて人間という生き物は成熟を迎えると言える。

コップに例えたが、その内壁はとても敏感でやわらかく、かつ吸収力がある。そこで人は愛を吸収し、自分のものにしていく。それは人の肉体が栄養を吸収して成熟していく様をおもわせる。




ところで「愛情」とは情の形態である。
本来の「愛情」は、清く正しく慈しみの心に満ちた暖かいイメージのままのものかも知れない。
だが、人を憎む気持ちも、愛情の変形であり、人を傷つける行為も、自分を愛して欲しい、大切にして欲しいという気持ちが変じて生ずるのだ。

したがって、人間が情から起こす行動は全て、怒りも憎悪も傲慢も妬みも、変質した「愛情」だと言える。



子供のこころには、愛情が注がれるが、それは当然、母親の愛情そのものが流れ込むのである。
それは、たしかな愛情であったり、はげしい憎情であったり、鬱屈した苛立ちであったり、歪んだ妬みであったり、と様々な愛情が母親の吐き出すままの性質で注がれてしまうのだ。

愛に満ちた情を、はちみつのようなものだとすると、憎悪や嫉妬は、硫酸のような焼け付く痛みを伴うものであったり、とても人間の情とは思えないような、たとえるなら錆びたカッターの刃のようなものであったりする。

幼子は無条件に親を信頼している。だから、どんなものでも飲み込む。
それが愛情でなくても、子供は飲み込むしかない。その子の世界には、まだ母親しかおらず、それこそが子供にとっての全世界なのだから。

しかし、やわらかい心の方は、実際たまらない。

変質した愛情で、心は傷つき、血を流す。その苦痛を子供は泣いて訴えるが、聞き入れられない。そして、これ以上、心を切り裂く刃や、毒を注がれると「自分は死ぬ」と思う。その瞬間、子供は、自分のこころを守るため、そのコップに「蓋(ふた)」をしてしまうのだ。もう、なにも注がれないように。

これが心を閉ざす、ということである。

多くの場合、心を閉ざしたことを自覚している人は多くない。
その瞬間のことは、しばらく忘れているからである。
母親の愛情こそが全世界なのだから、それを否定することは、この世界での絶望、すなわち自己の死を意味する。だからこそ、「母親が自分を愛さなかった」ことを、忘れてしまうのだ。そうでなければ生きていけないから。

ここから、心を閉ざした人生がはじまる。

本人は蓋のことを憶えていないから、その蓋こそが、認識できる自分の心そのものであると思って生きる。しかし、それはあくまでも自己防衛用にこしらえた表層的なものでしかなく、彼の心の底を反映するものではない。

やがて「蓋」は本心の代理者として人と接しつづけ、やがて「仮面」となる。

仮面で他人と接するうちに、人はやがて、他者とのつきあい方を、その仮面で憶えてしまう。そうして仮面の人格ばかりが一人前っぽくなるが、心の中に不気味なほど幼い情動や妄想を抱く自分に戸惑うようになる。

みんなは泣いている物語に、自分は泣けなかったり、妙に冷めていたり、若いのに老人のように諦めがよかったり。それは「自分は、心の底から喜んだり悲しんだりしたことがないのではないか。これは異常ではないか」という類の疑問と違和感になる。自分にはたしかに心があるのに、それでも「心がわからない」のが、不気味ですらある。

当然だろう。確かにあるはずの心は、みずから封じてしまったのだから。



だが、やがてはその封じたはずの心の蠢動を感じるようになる。
自分の心の奥に潜む、不気味な動きを、ある日、その人は自覚するようになるのだ。

自分は人のために生き、利他的で立派な行動をしたいと願っていても、どうしても自己中心的で、愛を求めるような情動に駆られてしまうことに気がつく。心の中が、なぜか満たされず、いつも乾いているような気がして、常に何かを渇望するようになるのだ。

これも、心に愛が満たされていない状態で蓋をしてしまったのだから、乾くのも道理である。ふたを閉じた状態で、どんなに愛情が注がれていても、表面上は感謝もできるが、蓋の上を愛情は滑り落ち、その奥の心の中までは届かず、こころは飢え乾き、一向に満たされない。

ここでその人が無意識に求めているのは、母親の愛情である。

だが、その人は他ならない、自分を傷つけた本人なので、恐ろしくて心から甘えることもできない。さらに悪質なのは、この事実を彼が憶えているわけでもないので、自分が何を求めているのか、わからないのだ。独立心が生まれてくる年頃であれば、母親に甘えることを格好悪いと断じてしまう傾向も、道を曲げさせる。



それでも人は「愛」を渇望する。だが、実際に母の愛を求められない得られない人は「母の愛に似た、愛らしきもの」に引き寄せられてしまうのである。異性や刺激に敏感になる思春期に至れば、それは当然の流れだ。

その人が求める「愛らしきもの」「愛っぽく見えるもの」そして「愛に似た刺激」は、ドラッグであったり、セックスによる刺激であったり、支配欲であったり、破壊衝動であったり、あるいは名誉欲であったり、そして恋愛ですら(あるいは恋愛こそ)そうであったりと、実にさまざまだ。だが、こころを閉じた状態で、本質的には愛でも何でもないものを注いでも、何にもならない。薄っぺらい仮面に多少は染み込むが、すぐに乾くだろうし、肝心の心の奥には届きもしないので、いつも空しさだけが残る。そして刺激的なだけに、感覚はどんどん麻痺し、満足できなくなる。疲れと飽(あ)き以外に行動の停止理由がなくなり、何をしても虚(むな)しくなってしまう。

それでも、その人は、自分がなぜ満たされないのか、どうしても分からない。




だが、そんな人にも、なんらかの極限状態で、心がカラカラに干涸らびたとき、あるいは強烈な衝撃、絶望感など心の底まで精神が落ち込んだとき、それまでのふたが壊れて、こころの内側が垣間見えるときがある。

それまで忘れていた幼少の頃の記憶のフラッシュバック。
自分が、なぜ心を閉ざしてしまったのか、その瞬間がよみがえる。
それは、母親からの、ほんの一度だけの心ない仕打ちだったかも知れない。つまらない誤解であることも多い。でもそれで自分は心を閉ざしてしまったのだ。

なるほど、とそのとき人は、やっと自分の精神の構造を理解する。しかし、だからといって、次の瞬間から心が解放できるわけではない。それでも、人は、そのヒビが入った仮面で生きて行くしかない。

自覚をしてからは、どうしたらいいものか、いろいろと考える。
母親に打ち明けて開放するのが第一手だが、その後は、心を開いても大丈夫だと思える相手、そして環境と巡り会い、そして、みずから心をひらくことを練習していかなければいけない。そうアタマでは思えるが、こんな難しいことはそうない。

容赦ない言い方をすれば、いままでの人生で培ってきた精神は、自己欺瞞という名の、肉の仮面なのである。
剥がそうとすれば血も痛みもある。それに不安も。


悩んでも仕方がない。このままでもかまわないだろう、仮面は仮面でいいじゃないか、という考え方もあるかもしれない。
だが、これは個人だけの問題ではない。

人は愛されたように人を愛する。だからどんな人でも、親から受けた恨みがあれば、それをそのまま子供に仕返してしまう。妙におばさん臭い言葉遣いで子供をしかる若い母親を見ていると、ああ、彼女もああやって親に叱られたのだな、と思わされるように。

愛は伝統的に相続されていく。その愛が恨みに満ちたものであれば、それももろともに。
そして、いまどき誰でも親には恨みがある。この恨みの伝統、悪しき連鎖は「仕方がない」という理由で子々孫々に伝えられていくのだろう。






では、どうすればいいのか。

この問いに、しかし、ここでは答えを示さない。私が連れてこられるのは、ここまでだ。

たとえば「世界は悪意に満ちているように言われるが、そうでもない」とか「嫌なことは、許そう」とか、お決まりのポジティブワードを組み合わせて、ソレっぽい解決の道を示すことはできる。
だが、それはやらない。

この答えは、その根が心の底にあるだけに、各人が心から求めて得なければ意味がないからだ。
求めていない人に、座したまま示唆に富んだ解答の言葉が与えられても、その心までは届かないだろう。
無駄なだけだ。

この命題のこたえは、水の中で乾くがごとき馬鹿馬鹿しさで、とても身近なところにある。

だが、それは心の底から伸びた手でなければ、けっしてつかむことはできない。


でも、それの答えさえ見つかれば、いつか、誰もが愛らしい愛で人を愛せるようになるだろう。
そう保留しておく。






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2002.03.02 sat「こころの傷、恨みのこころ」


私は、◯◯さんに、傷つけられた。

そういう話をよく聞く。そう言いたいのも、よくわかる。
だが、それは本当にそうだろうか?


最近、いくつかの恨みが解けてきて、分かったことがある。

本気で、その人を傷つけようと言葉をかけてくる人は、ほとんどいないということだ。

聞いてみれば「実は、本人に悪気はなかった」「そこまで非道く言うつもりはなかった」ということがほとんどである。客観的に、冷静に思い返すことが出来れば、言われた本人にも分かるはずだ。
しかし、人はそんな言葉によって傷ついてしまう。


自分のことを思い返すと、
その人の言葉を、自分が勝手に解釈し、扱って、自分で自分を傷つけていることが分かる。人が、意図的に誰かを傷つけることは、実はほとんど無いのだ。

誰かに酷いことを言われた。
あの人にボロボロにされた。

でも訊いてみると、そんなつもりは無かった、ということがほとんどである。


だれかを恨んでいるせいで、意図的に人を傷つけようとする人もいる。
だがそれは、恨みが恨みを呼ぶ場合であり、その根源は、一種の誤解なのだ。

そして、その誤解によって、人は人を恨んでしまう。



本来、ある程度は意志の疎通ができていて、誤解が生まれにくいはずの関係に、親子の間に、夫婦の間に、兄弟や友人、仕事の人間関係においても、恨みが発生してしまうことがある。

だがそれは、本当は互いに愛し合いたかった故(ゆえ)なのだ。
親子が、夫婦が、ひとつになりたかったからなのだ。

ただ通じ合わなかった、というだけでは恨みにはならない。
愛し合い、ひとつになりたかったのに、なれなかったから、恨みになったのだ。

誰もが、こころをひとつにしたいと思っている。
一番近い存在であって欲しい。だからこそ、それが恨みになる。

どうでもいい人に誤解されても、こころが通じなくても、人は傷つかない。
慕(した)わしい人からの裏切り(それが誤解であったとしても、そうと分かるまで)こそが、とてつもない恨みになる。

でもそれは、勇気を持って、こころのむすぼれをほどいていけば、実は誤解であったことが分かるのだ。



本気で、その人を傷つけようと言葉をかけてくる人は、ほとんどいない。
聞いてみれば「実は、本人に悪気はなかった」「そこまで非道く言うつもりはなかった」ということがほとんどである。客観的に、冷静に思い返すことが出来れば、言われた本人にも分かるはずだ。


そこまで整理されるには、たとえば生きたまま地獄の底を通過するような苦悩や、とてもとても長い時間がかかってしまうこともあるけれど。






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2002.03.01 fri「なぜ人を殺してはいけないのか」


むかし
「なぜ人を殺してはいけないの?」という質問が流行った。

出題者に対して、回答者は言葉に窮し、ただ妙な絶望感を感じた、という話もよく聞く。かつては解答は保留していたが、いまではこの問いへの答え方が、多少なりとも分かるような気がするので、ちょっと書いておこう。

まず、この質問は「人間は殺して当然、なぜ殺してはいけないなんていうの? 」という前提で発せられている。だが

こんな土俵で議論ができるものか。

「殺人を肯定する立場の土俵」
で、有識者が立ち回ろうとしても、せいぜい理屈をこねて交換条件を持ち出すのが精一杯であろう。君が殺されたくなかったら、殺しちゃいけない、とかそんな感じである。

この問いに、善い解答を出そうとする人が立ち回るべき議論の土俵は
「人の幸せを願う立場の土俵」だろう。
「殺人を肯定する」か、「人の幸せを願う」か。この二題の土俵の距離は、そのまま最初の出題者と回答者の遠さであり、これが絶望感の正体だ。


まずは、この際「なぜ人を殺してはいけないの?」という問いに応える義理を放棄する。

そして、自分の土俵をハッキリ示して、
こっちの土俵に引っ張り込むことを考える。
では、どうすれば引っ張り込めるのか。「人の幸せを願う」気持ちは、どうすれば人の中に自然に生まれるのか。
こればっかりは、議論とか話し合いで得られる心根ではない。

それは、自分自身で得た「幸せの経験」を、質問者に持ってもらわなくては発生しえないだろう。
だから、この質問に言葉で答えることはできない。

それは、カレーを知らない人間に、カレーパンの味を説明するようなものだ。

そういうわけで、とりあえず、その質問をした人に、カレーを喰ってもらわないことには話にならない。
我々のすべきことは、だから質問に答える前に、カレーを作ることなのだろう。

そして、腐ったカレーをどうしても食べたがる味覚音痴に、美味いカレーを食べさせることなのだろう。

そう思う。






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