「アニメ版 シスター・プリンセス考察大全 改訂新版」挿絵解説

for "Summa integra studii Sororis Principis animatae"

(2005.03.16)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

考察執筆者くるぶしあんよ氏からの言葉
 
 

改訂新版にて追加された扉絵の感想を、絵師天野拓美氏への感謝の意を込めてここに記す。

もちろんこれは論者個人の感性に基づくものであり、読者諸兄姉の想像力はこれらの絵からより豊かな情景を得られることだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

考察挿絵絵描き 天野拓美のコメント
 
 

この真に美しいシスタープリンセスの世界をわたしに見せてくれたあんよ氏に、ありったけの感謝を。

わたしはただ、そこに映し出された絵を、描き写したにすぎない。



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

第1部(p.4)可憐 
 
 

 制服姿の上半身。アニプリでは、こんな表情の可憐は意外にもほとんど描かれていない。その目に宿る感情は、兄の前で初めて制服姿を披露して「どうかな?」と尋ねる場面を想像させるが、作品内では可憐と同じ学校に通うことに初登校日まで気づかなかった航に、気の利いた反応ができたとは思い難い。あるいはこの絵は、姿見を前にして可憐が自分の姿をチェックしている朝の光景かもしれない。日常生活の中で毎日繰り返される、そして兄とともにいるその日常のかけがえのなさを見つめ直す、そんなひととき。可憐の瞳には兄が宿り、今日一日への期待に満ちている。

(あんよ)

 
 
 

 制服である。アニメや設定画に見られる、身体の線が出やすいぴったりした描き方ではなく、やや厚めでラインがしっかりした、実際に制服として通用しそうな質感を、ここではだしたかった。これに限らず、挿絵では「シスタープリンセスの世界に生きている妹たちの姿を現実的に描く」ことをひとつの基本線にしている。

(天野)

 
 

第1-2話(p.9-12)12人
 
 

 兄と暮らすために、妹達は島へ向かう。CD『Prologue of Sister Princess』では、島に渡る前にほんのちょっとだけ顔合わせしているが、この絵の妹達はその直前までの姿にも思える。今まで暮らしていた家を離れて、未知の生活に向かうという不安と期待。そして、兄への憧憬。兄にしてあげたいこと、兄からしてもらいたいことを胸の中でこっそり呟いたり、信頼するよき大人に声をはずませて伝えたり。だが、妹達のその目線は未だお互いに向いてはいない。

(あんよ)

 
 
 

 まともな習作をしなかったので、表紙の可憐を除いては、事実上これが妹たちの初描き絵となる。そのせいか、どの絵も非常にぎこちない雰囲気だ。一枚に3人で、それを四枚なので、誰をいっしょのページに並べるかで悩んだが、結局おもうように描いて、顔の向きが偏らないように、と言う程度の判断だったと思う。花穂のセーターにダイヤ模様を描くのが楽しかった。思えば、他の妹の服ももうちょっと凝った柄にしてもよかったかもしれない。

(天野)
 

 
 
第3話(p.25)四葉
 
 

 自作の<お兄ちゃんと一緒>表を手に、自慢げな立ち姿。共同生活の原則が、妹側に偏りすぎながらもひとまず構築される場面である。論者はこの四葉の姿を想定することで本話考察の、ひいては考察全体の端緒を得たが、まさにその「はじまり」の情景を見事に描き出している。その手に掲げる表の文字は、あまりに細かいためにこの絵では描かれていない。だが、このことがかえって、第3話の最後になされる表の廃棄と、兄妹が手探りで一緒に歩んでいく白紙のままの未来を、暗示してくれている。

(あんよ)

 
 
 

 「印象つよいけど、形としてはタレてる眼なのがいい」と好評だった絵。単独妹での一枚絵はこれが第一枚目だった。それが上手く描けて気持ちよくスタートできた記憶がある。思えば四葉の絵は、どれも初期の想像を上回る絵として完成していた。長い作業の要所要所でテンションを上げてくれた四葉に、この挿絵作業は何度も助けられている。余談だが、ストッキングにスカートの影が落ちるのが絵的に映えるのも、このとき体得した。

(天野)
 

 
 
第4話(p.39)雛子
 
 

 くまの帽子のお出かけ姿。頼るべきものを探し求めて覗き込む扉のこちらと向こうは、雛子の夢と現実。手をつないでぬいぐるみを探し回った兄とともに、雛子はこの扉をくぐりきることなく、夢と現実を結びつけられた。だから、やがて彼女は、不在の兄を待つこともできるようになる。しかし、ぐっとこらえるその辛さは、幼い雛子にとっていかばかりか。この服装で再度登場した第25話、ウェルカムハウスから船着き場に向かう直前に、雛子が兄の部屋をそっと覗き込む、そんな姿にも映る絵。

(あんよ)

 
 
 

 「幼女」というものを描くのに慣れてないため、雛子についてはどれも苦戦した。この絵などは全部の絵をひとととおり描き終わってから、あらたに描き直している。雛子の絵自体は三枚ほどであり、それ自体はさほど習作にならなかったが、シスタープリンセスの世界全体をなぞったあとでは、やはり違う絵として仕上げられたと思う。これらは一枚一枚の絵であると同時に、一冊の本にまとめられた41枚でありながらひとつの作品なのである。

(天野)
 

 
 
第5話(p.49)鈴凛
 
 

 床座りではなく腰掛けたままで、モバイルの最終チェック中らしき姿。あるいは、調子の悪くなった機械を直しているところだろうか。やや見上げる読者目線で、この頼れる年長者への敬慕をふと抱く。その鈴凛のまなざしは、メカを見据えつつどこまでも優しい。この自作機械を妹達が喜ぶことへの、そしてその機械が兄と自分達を結ぶことへの、自負と嬉しさがにじみ出ている。そんな彼女が作り上げた、いや育て上げた発明品は、まるで子どものようにみな温もりと愛嬌がある。

(あんよ)

 
 
 

 神崎ちろの声のせいだろうか、常に歓声を上げている四葉に比べれば大人しいが、それでも鈴凛は明るく弾けている印象が強い。だが、一人で機械をいじっているときもそんなテンションというわけではないだろう。仕上げのとき、彼女の手はとても丁寧な作業をすると思う。動きに動いていたアニメ版に対して、挿絵では静かな情景を描いてみた。わたしには電気溶接の火花を飛び散らせながら力仕事に没頭している彼女よりも、こちらのほうが自然に思える。

(天野)
 

 
 
第6話(p.61)眞深
 
 

 一瞬、停止中のメカと見間違えそうな13人目の妹の姿。眞深はスパイの道具として潜入し、心のない機械のように命令を受ける。そんな彼女を妹達の輪に迎え入れる契機が、本話だった。みんなの靴に囲まれて、眞深もこれからの足跡をともにしていく。だが、今までの歩みを脱ぎ捨てることはできないし、いつまでも一緒に歩むこともできない。いま勝ち得た幸せに、過去と未来のいろを重ねて、眞深は自らの揃わぬ足下を静かに見つめる。スイッチの入れどころが分からないまま、いましばらくは心躍る輪の中をさらに賑やかす。

(あんよ)

 
 
 

 眞深だけの絵を描くべき扉が、残念ながら本考察にはなかった。実は最初の四枚連続絵にも眞深は組み込まれる予定だったが、レイアウトの関係で外されている。そんななか、全員が主役であるこの第6話でこそ、彼女を描くことができた。絵には様々な意味をこめたつもりだったが、その全てを解説が充分に語り尽くしてくれている。
 

(天野)

 
 
第7話(p.71)咲耶
 
 

 花嫁の麗しい後ろ姿、白い肩が輝く。そこに兄の目は、やがて離れていくこの妹の姿を、移ろいゆく日常のかなしさを、ほのかに見る。可憐の目は、自分の先をゆく競争相手の堂々たる美しさとつよさを、一歩後ろから無言で認める。そして咲耶自身の目は穏やかに閉ざされたまま、今日こぼれ出た不安と切なる想いとを再び胸にしまいこんで、兄と向かい合ったほんのひとときを微笑みにかえる。やがて空に投げるブーケを、幼い日のこの咲耶は受けとめることができたのだろうか。

(あんよ)

 
 
 

 本編中とは意図的に異なるドレスとして描いた。穏やかな表情と、未練なく結い上げた後ろ髪。これは、7話での「ごっこ」ではなく、リピュアを含めシスプリの様々なエピソードの中で咲耶が通過してきた「結婚式」の全象徴である。

(天野)

 
 
第8話(p.81)鞠絵
 
 

 椅子に腰掛けて本を繙く姿。一度読んだ本なのか、ページをまとめて見返そうとしているかのようだ。島に来る前の鞠絵が、療養所でお気に入りの本を手にして、幸せな過去と未来に思いをはせているのだろうか。それとも島で二度目の梅雨を迎えた彼女が、思い出の物語を、あるいはその思い出を託した日記を開いて、ぱらぱらとページが送るかすかな空気の波に、あの日の澄み切った風を心に感じているのだろうか。そんな主の静かな安らぎを、ミカエルはいつまでも見つめ続ける。

(あんよ)

 
 
 

 どうしてもミカエルが描けず鞠絵単独になってしまった絵。だが彼女らしい穏やかな絵にできたので満足はしている。ところで、挿絵は、読者が飽きないように、できるだけ連続して同じ大きさや構図が並ばないように構成してみた。最初この絵はウェストから上しかなかったが、そういう理由でややひいた構図に変更している。同時にそのおかげで静謐な空気が表現できたと思う。

 (天野)

 
 
第9-10話(p.89)衛
 
 

 水着姿の上体。この年頃の女の子らしい伸びやかな肢体と、彼女らしい筋肉の付き方。水着のよれ具合からして、曲げた脇腹にもおそらく肉が余っていない。泳いでいる最中は兄の手も届かないが、ゴーグルを外せばあどけない瞳が、この夏に賭ける兄の決意の言葉を引き出してくれる。だから一緒に過ごせた特訓の日々もやがて終わりを迎え、寂しさを脱ぎ捨てるように日焼けした皮をぺりぺり剥がす。そう、たとえ乙女心に揺れるとしても、まだまだ衛は日焼けも怖くない。

(あんよ)

 
 
 

 はたして何人の人間が記憶しているか分からないが、大昔の「ファンロード」でLSIという投稿絵師(大ファンだった)が、こんな構図の絵を描いて表紙に採用されていた。たしかゴーグルではなく水泳帽をなおしている絵で肩から上だけの一枚だったと思う。記憶を頼りにそれを真似してみた。スクール水着のナイロンっぽさと、脇の下の肉感がうまく描けたので満足の一枚。

(天野)
 

 
 
第11-12話(p.99)潜航艇プロトメカ4号
 
 

 垂直発射口がはっきり描かれ、逆に甲板上の手すりがないために、なぜか原子力潜水艦風味。こんな小さい原潜が存在するのか、形状は適切なのかなどの疑問はともかく、もし甲板の○模様が天窓カバーでなく本当に発射口なのだとしたら、ぜひ花火を打ち上げてほしい。あるいは脱出カプセルが発射されるというのも、鈴凛っぽくていいかもしれない。思い出の詰まったガラスの小瓶や、ウニ型機雷を放出するというのも今思いついた。四葉の三角が流されるというのもありか。米国を兄に仕立て上げる、そんな沈黙の艦隊。

(あんよ)

 
 
 

 「誰が主役でもない」話のときはこうやってアイテムに逃げるが吉の代表のような絵。でも味付けがほしかったので、解説にもあるように「沈黙の艦隊」風に処理してみた。潜水艦を描くにあたり、何度もアニメを静止させて下部構造まで把握して全体像を描きおこしたのに、海面と波でほとんど隠れているという悲しい一枚。

(天野)

 
 
第13話(p.111)可憐、白雪
 
 

 サラダを仕上げているところか、器はちゃんと14人分。たとえサラダといえども結構な量なわけで、幾つか分けて下ごしらえした材料を最後にあわせるのだろう。ドレッシングをかけて終わり、ではなく、一品ごとに手間暇かけて。白雪がペッパーと一緒においしくなるおまじないをふりかけ、可憐も微笑みながら料理の技を盗む。このペアの台所姿はアニプリではとうとう描かれなかったが、コテージで手をつないで眠る姿からして、きっとこんな雰囲気の中で兄妹のご飯をこしらえたものだろう。

(あんよ)

 
 
 

 最初に、どの扉に誰の挿絵をいれるか考えたとき、もっとも出番が少なかったのが白雪だった。その反動だろうか、これといい後に描かれる絵といい、結果として個人的に気に入っている絵の白雪率はけっこう高い。ところで、彼女は身体がちいさいのを気にしているのか、袖や腰回りなどがふくらんだ服を好んで着る。そのせいで逆に太ってみえてしまうことがあるのが常々不満だった。この絵のような華奢な白雪が、実は好みである。

(天野)
 

 
 
第14話(p.119)可憐、猫
 
 

 「迷子の子猫」同士、猫を胸に抱いた可憐。やや不安げな表情は、猫に兄と自分との関係を重ねる彼女の想いをそのままに表している。猫をしっかと抱きしめるその腕も、思慕の相手を想う瞳も、兄に抱きつくそのときと同じ余裕のなさ。やがて兄と手をつなぎ、お互いの本心を打ち明けあうとき、可憐はようやくその手で兄も猫も優しく抱くことができるようになる。それはそうとして、論者としてはこの猫になりたい。あるいはこんな瞳で見つめられる兄に。

(あんよ)

 
 
 

 どこかでも書かれていたが、可憐はキャラクターとしての特徴が際立っていないため、逆にモチーフとして掴みにくい。正統派すぎる美少女は逆に無個性に見えてしまうからだ。挿絵のなかで何枚か描かせてもらった可憐には、できるだけ眼に表情を入れてみたが、あまり成功していないようである。
劇中での猫はみかん色だったが、モノクロのページでは可憐の服にとけてしまいそうだったので、勝手にトラ縞と解釈した。

(天野)
 

 
 
第15話(p.129)亞里亞、老紳士
 
 

 背筋のぴんと伸びた亞里亞。隣に座る老紳士の姿勢の良さにつられてか、とも思ってしまうが、むしろリボンをどこまでも探し求める亞里亞の隠れた気丈さと純粋さに、老紳士の方がつられているのではないか。そう考えると、老紳士の手つきもまた微妙な表情を垣間見せているように感じられてくる。昭和天皇とマッカーサーの並んだ写真をふと思い出す、記念写真のような一枚。ただし、亞里亞の晴れ晴れとした表情からは、「また緑の服を着る頃に」現れた老紳士と再会した春の光景だと考えてもいいかもしれない。

(あんよ)

 
 
 

 「亞里亞のビジュアル的なポイントは、服装でも髪型でもなく、このイノセンスをあらわす薄い眉だろうな」とリピュアBパートを見ていて感動したことがある。
個人的に掴んだ亞里亞の本質的なポイントなのだが、残念ながら挿絵として活かせなかった。
亞里亞は、アニプリでの描かれ方からくる幼女的な印象とちがい、身長は139センチあったりと意外に大きい。それに加え、解説にあるように、後に老紳士と再会したシーンとして、やや育った感じに描いてみた。ドレスのフリルもプリーツではなく、三角レース状のものにアレンジしている。ちょっとだけ大人びてはいるが、その気丈さは彼女の中に、もともとあったものだとわたしも考える。

(天野)
 

 
 
第16話(p.137)花穂
 
 

 チアリーダーとして、両腕を高く掲げて満面の笑顔で応援する姿。脇の下に思わず目を惹きつけられながら、二の腕のほのかなたくましさに練習の成果をうかがいもする。兄のために心から応援するこの素晴らしい笑顔を、その声援に応えて走る兄が直接見ることはない。ためらいのない花穂の想いにいつも応えられる兄であるために、せめてこの瞬間の妹の笑顔を、青空が留め置いていてくれるだろうか。青空の向こうまで届けてくれるだろうか。そんな一人の兄のために、この考察を記したのだったが。

(あんよ)

 
 
 

 アニプリそのもので泣いたのは鞠絵の話だったが、考察を読んで初めて泣けたのは、この応援のシーンである。設定にあるような円環状のバトンを操っている風でもなく、ただ両手を掲げて、ただ思いっきりに応援する晴れやかな笑顔を描きたかった。応援することが、応援できることがうれしい。そんな笑顔。ラフの時には、そのうれし涙までもが、ちょっとだけ描かれていた。

 (天野)

 
 
第17話(p.147)春歌
 
 

 こちらを振り向く穏やかな笑顔。やや「ポッ」としたその赤らみに、隣の兄もやや心揺らせる。姿勢がいいのに線が柔らかいのは、ドイツ生まれながらさすがの大和撫子というところか。凛とした佇まいに秘められた膨大な熱量は、ほんのちょっとしたきっかけで爆発する。その瞬間を待ちわびて、春歌は兄の次の一言をじっと待つ。そうやって待つことが兄への最大の誘惑にもなることを、今の春歌は知っているのだろうか。普段あまりに素直な彼女だけに、そんな勘ぐりもしてみたくなるこの瞳。

(あんよ)

 
 
 

 横に並んであるく春歌。自分の感情に素直で積極的な一面とともに、やはり「大和撫子」たろうとする一面が彼女の魅力であると思う。この話の間中、兄と行動をともにしていたその位置は、積極的でありながらも、あくまで兄を支えるによい、これくらいのひかえめな距離感だったのではないだろうか。

 (天野)

 
 
第18話(p.157)千影
 
 

 横向きに寝入っている姿。日頃のように棺桶で仰向けに寝るのではなく、まるで幼子のように身を丸ませて。左腕でここにいない兄をかき抱き、右の手で薔薇十字架を握る。そこに見る夢は、あの婚礼の続きか、かつての美しい日々なのか。それとも、兄妹達とともに生きていくこの現世への希望と不安なのか。その密かな心細さを支えてもらおうと、右の手で過去の証を、左腕でここにいない兄と胸の痛みとを抱きしめて、千影は短く深い夜を過ぎていく。寝顔にえも言われぬ想いを浮かべて。

(あんよ)

 
 
 

 千影の寝床は棺桶であり、その中には花が敷き詰められている・・・。というのは13話あたりでもあった公式なカットであり、まるで死んだように眠るのが千影の、おおよそ公式のイメージであると思う。
だが、前世の記憶の中で兄に思慕の情をぶつける姿や、あたりまえに恋をしている彼女の表情を見ると、やはり普通の少女としての姿を描いてあげたいと思った。
ただ、彼女はこんな無防備な表情を、ほかの誰にも見せはしないだろうけど。

(天野)

 
 
第19話(p.171)白雪
 
 

 スーパーで買い物中の姿。ウェルカムハウスの財政事情はさほど気にせずにすむはずだが、それでも値段と中身の質をしっかりチェック。贅沢すぎないけれどきちんと吟味した食材で、美味しく栄養満点の料理を作ること、それが白雪の腕の見せ所。だが小さい子もいる大所帯ゆえ、好き嫌いをふまえた献立の工夫や調理の手間など、考えるべきことはあまりに多い。兄のための新たなメニューにも思いをはせながら、レジに向かえば今日も結構な荷物。みんなの心の栄養のために、腕をぷるぷる震わせて帰路に就く。

(あんよ)

 
 
 

 「経済的なものの雰囲気を白雪でつたえたい」という考察者の意向で「『財布の中身と相談』という雰囲気をちょっと強く」とか「所帯っぽさを目線と口元で表現してください」など、実に細かいチェックが入った一枚。
そういう生活じみた雰囲気こそ描きたいと思っていたので、望むところである。そしてこれは、絵を描いていて白雪の魅力がわかってきた思い出の一枚となった。

(天野)

 
 
第20話(p.179)オルゴール
 

  兄が妹達に贈った初めてのクリスマスプレゼント。奏でられた旋律が居間の空気にとけ込んで、兄妹の日々を慈しむ。妹達の救い主である兄と、妹達に囲まれて志を得る兄。くまのように目立たぬ庇護者の眞深。そして皆の生活を守り育てるウェルカムハウスという小箱。もはや鍵で閉ざされることなく、この家の中から島へと広がりゆく暖かな歌声が、この絵から流れ出てくる。しかし、このオルゴールだけはぜひとも商品化してほしかったと思うのは、論者だけだろうか。

(あんよ)

 
 
 

 「Cristmas Love Destiny」のラストシーンで雪を見上げる皆の位置がこのオルゴールの円盤上と同じであることから、このちいさな人形もそれぞれに似せてみようと描いたものの、印刷においてもファイルにおいても潰れてしまい、ほとんど意味がなかったちょっと悲しい一枚。
アニプリにおいて、妹たちの立場や関係性は、さまざまな比喩で描かれているが、このオルゴールはそれを代表する象徴物である。この考察の扉絵は、これか、さもなくば13妹全員集合みたいな(絵描きにとっての)地獄絵図しかなかったため、ためらいもせずこちらを選んだ。だが、いつか全員がそろっている一枚絵というのも描いてみたいものである。

(天野)

 
 
第21話(p.187)鈴凛、メカ鈴凛、プロトメカ1号
 
 
 メカ鈴凛のメンテナンス中。薄着姿からして、夏の日の光景だろうか。夏休みの終わり、部屋を訪れた兄にちょっと寝ていたことをごまかしていた鈴凛は、前の日の夜中までこうして作業を続けていたのかもしれない。動力を切られたメカ鈴凛は体を凍りつかせ、自らを重ねたこの子を点検する鈴凛は表情に密かな屈託を浮かべる。第5話のモバイルのときほどに穏やかな面持ちではいられない。そんな主と似姿の傍らで、プロトメカは黙して全てを受け止める。(あんよ)

 
 
 

 最初に描いた絵では、メカ鈴凛は停止しておらず、自らの首部コネクタからのびるケーブルの先に繋がるメンテ用の端末を、鈴凛とともに眺めている絵だった。その身体にはしぐさや表情があり、まるで双子のようであったが、考察者からの「メカ鈴凛は、身体ポーズをおとなしめにしてみてください。メカ鈴凛は身体を、鈴凛自身は精神を抑圧しているわけですので」という指摘があり、現在のように。同じく、そのときにはなかったプロトメカもここで描き加えている。脚部だけだが、外装の解釈や、ローラーダッシュを前提とした足首の内部構造など、パーツの分解まで念頭に置いて、かなり独自的にデザインを施した。これなら現実的な絵としても破綻あるまいと満を持して合成してみると肝心な部分はほとんどメカ鈴凛の背後という、これもなんか悲しい一枚。

(天野)

 
 
第22話(p.197)四葉
 
 

 胸を張って立つ上体。美少女怪盗クローバーの胸元には、第6話のあのチョーカーが飾られている。四葉とクローバーとの両面が、兄との一日でようやく結びつき、四葉は堂々と自分でいることができる。そこに至る秘密の過程を知っているのは自分と兄だけであり、そんな謎を二人だけで共有することへの喜びと興奮を、この生き生きとした瞳と頬の温もりが物語っている。p.25と同じようでいて、その自信を支えるよすがは、もはや揺るぎない兄との絆。

(あんよ)

 
 
 

 怪盗クローバーの回である。とはいえ、まんま怪盗装束にしてしまうのも芸がなかったため、その中間(考察者の言う「統合を果たした姿」)にしてみた。「胸を張りながら、兄に素直に安心して甘えている顔にしてください」という注文にも、どうにか応えている。ところで、四葉の顔のポイントは、その秀でた額である。普段の髪型では前髪で目立たないが、横顔になるとこれが際立つのだ。その秀麗さが、いたずらっぽい目つきと口元で台無しになるのがミソ・・・とは考察者の言。彼も言っているが、ほんとに憎めない。

(天野)
 

 
 
第23-4話(p.207)咲耶
 
 

 船着き場で独りしゃがみこみ、涙にかきくれる姿。春だというのに、島のいのちは失われてしまったかのように、咲耶は泣き濡れる。兄の不在に悲しむ妹達の前では、何とかリーダーらしく振る舞っているとしても、この場所では耐えられず本心を吐露する。やがて再び立ち上がり、涙を払っていつもの毅然とした顔で家に向かうとしても、普段の彼女から想像もつかないほど小さくか弱い後ろ姿を、あるいは可憐が陰からそっと見つめていなかっただろうか。その胸のうちが分かりすぎるほどに、揺らぐ希望を懸命に守り抜こうとするのも独りきりのままで。

(あんよ)

 
 
 

 ファイルの状態では正直どうかと思ったが、印刷してみるとあまりにピッタリとはまっているので驚いた一枚。紙媒体とモニタ観賞との違いというのは、たしかにあるようだ。
船着き場の濡れたコンクリートに写り込む咲耶の影、彼方が白く霞む海と、すぐ足元で揺らめく小さな波形。今回とにかく実験的だった「ランダムストライプ(不等間隔の直線をトーンのように使った)処理」を、明度表現以外でうまく応用できたと思う。
兄が島を出ていった後も、たびたび咲耶はここに来てしまったのではないだろうか。買い物の帰り道に、わかっていながらも、つい。
自分でもどうしようもなく心配で、だれもみてない船着き場でしゃがみ込んでしまう咲耶。ただ、劇中ではこういうシーンはないのだが。
考察者がラフ提示時にくれたコメントでは「(たぶん咲耶は)兄が帰ってきたときのために自分をきれいにしておこうと必死で考え気を紛らわせる。でも、新色のリップは買えない。兄に買ってきてもらう約束だから。でもコスメショップの品を見れば見るほど、東京での兄のことが心配で心配でたまらなくなる。とりあえず、年少の妹達のために何か買って帰ろうとするんだけど、足がなぜか船着き場に向かってしまう。そんな咲耶の姿。あるいは、妹達が兄を見送ったのち一同が家に帰るのだけど、 咲耶だけが船着き場から動けないというワンシーン(ただし咲耶の役割からしてこれはない」とある。
膝を抱えて顔を伏せて泣いている絵でもよかったが、ここでは彼女の歪んだ表情を描いておきたかった。美少女然とした様になる姿ではなく、現実にあって悲しんでいる姿として。
咲耶絵は、どれもせつない。

(天野)
 

 
 
第25-6話(p.223)黄色い帽子の少女
 
 

 マッキー像のてっぺんから、入江の向こうに広がる水平線を眺める後ろ姿。左方の陸地はやがてプロミストパークになる場所だろうか。だとすればこの光景は兄妹達が来島する前のものかもしれない。その行く手には様々な困難があるとしても、少女はここで結ばれた約束への想いを秘めて彼方を見つめる。それに無言で応えるかのように空は青く澄み渡り、そしてやがて訪れる島の幸せに満ちた日々の中で、少女はやはりここから、守られた約束を胸にして、島に生きる兄妹達の未来を見晴るかす。そんな暖かな喜びに満たされる、美しく切ない一枚。

(あんよ)

 
 
 

 この絵をはじめ、広い背景のある数枚は人物より先に描きあげた。この段階ではまだランダムストライプを採用することは考えておらず、グレーのトーン何段階かで塗り分けようとしている。
深い色と遠浅の海を描き分け、緑を縁取るように砂浜を描き、緑地は影部分を適当な点描と、砂浜に落ちる影を丁寧に描けばいい。人工物がないぶん素直で、こうみえて簡単に描ける絵である。
逆に言えば、テーマパークとしての開発がはじまる前の、純粋な「約束の島」として描きたかったのだ。なのにマッキー像があるのは、これが航たちが漂流したと勘違いしたあの浜辺のつもりだからである。島のこちらがわは、まだ多分、当時のままなのだろう。

 (天野)

 
 
補論1(p.245)鞠絵、春歌
 
 

 デジカメの画面を覗き込む姿。台所でお茶の支度中に、兄か四葉に写されたのだろうか。趣味も近い二人ならではの落ち着いた雰囲気。画面を見つめて、そこに写された春歌の姿を鞠絵が褒め、そのさりげない言葉に春歌が頬を赤らめる、という展開を論者はこの絵から想像した。このペアだと、春歌の積極性が鞠絵に柔らかく宥められるように思える。そのあたりが春歌の今後学ぶべき和風の精髄なのかもしれない。あるいは、それが鞠絵の眼鏡娘たる所以か。

(あんよ)

 
 
 

 「眼鏡とデジカメ」という章題であれば鞠絵が描かれるのは当然である。そしてここで春歌が用いられたのは、最初は単に出番の調整だった。できるだけ平等に妹たちの絵を描こうと思っていたためである。だが、物語を見ていくと、孤独の中で生きてきた鞠絵と友達のように近しくなれるのは、やはり趣味や年齢の近い春歌ではないかと思えてきた。
挿絵では妹ひとりを一枚に描くことで焦点を合わせてきたつもりだが、同時に、できるだけ二人以上の関係性も描きたいと思ってきた(実際は三枚くらいしか描けなかったが)。妹ひとりひとりの個性も魅力であるが、アニプリでの共同生活のなかでの関係性もまた、本作の愛すべき部分だとおもうからである。

 (天野)

 
 
補論2(p.253)マック大和、ガルバン
 
 

 映画版ポスターなのか、有無を言わせぬこの「まんま」さに男泣き。表紙絵ではMGガルバンモデル、扉絵では完全に初代モードという完璧さ。ガルバンが持つリアル・ヒーローの両面性のうち、リアルロボットの面を端的に押し出しているが、もしも敵側のイラストが存在するなら、それは案外ダイナミック・プロ風なものかもしれない。それはさておき、マック大和の立つ場所は、「脱出」ののちに広がる新世界であろうか。自らの意志と力で、この荒涼たる宇宙に新たなる人間のいのちを灯すことができるか、君は!

(あんよ)

 
 
 

 「まんま」である。そして逆に「これしかない」というネタでもある。描いてて「安彦良和ってやっぱりすごいなあ」と感心させられた一枚。

(天野)
 

 
 
補論3(p.265)亞里亞
 
 

 歌姫亞里亞。考察で予想した10年後の彼女の姿か。これまでの共同生活で、亞里亞は兄や他の妹達との絆を獲得し、日々それを深めてきた。かつての孤独は、ただ彼女の心の奥底に静かに眠っている。兄妹達へ、精霊達へ、そして外なる世界へと開かれた亞里亞の想いは、その透明な歌声にのって人々の魂に響き、それぞれの孤独を優しく受けとめながら、調和へと共鳴させる。兄が、みんなが、ともに生きるこの世界が、好きだから。そんな溢れる愛を贈るべく、亞里亞の両腕は世界に向けて開かれている。

(あんよ)

 
 
 

 いつかの夏コミで出された某亞里亞本でも、やはり歌姫亞里亞の絵があったそうである。その絵の亞里亞は、胸元で両手を握っているのだそうだ。わたしは残念ながら原作を知らないのだが、亞里亞のそれは原作準拠の姿勢であり、正統派のシスプリファンにとっては正しい絵なのだと思う。
だが、わたしは考察の主題である「成長」を描きたかった。胸にある想いを大切にするだけではなく、この亞里亞の歌は世界に開かれている。あれだけ愛されてきた亞里亞が、美しく成長し、いま外を愛そうとする。きっとその歌は感動的であろうと思うのだ。おそらく精霊たちにまで響くほどに。

(天野)

 
 
結論(p.277)雛子
 
 

 身をかがめた姿。ぴょこん、という音が聞こえてくる。妹達の成長というアニプリの主題は、この雛子に最も明確に描かれてきた。彼女は兄と手をつなぎ、年長の妹達から学び、その暖かな家の中でつよく優しく育まれてきた。半腰で作業中の兄の顔を、こんな風に斜めに見上げる雛子の表情は、それでも年齢相応の幼い好奇心を露わにして、兄にひとときの安らぎを与えてくれる。悪戯っぽく微笑みながらつまさきが揃う。ちっちゃくておしゃまな、レイディ。

(あんよ)

 
 
 

 考察者にも完全に見抜かれているのだが、この絵のキモは「つまさき」である。最初はなかなかこのポーズが決まらず苦労したが、爪先をそろえた瞬間にすべてがピタリと収まった。また、この絵をもって、ようやく「雛子が描けた」という感触を得られた絵でもある。いや、ほんとに彼女は難しかった。

(天野)
 

 
 
考察1(p.282)可憐
 
 

 砂浜での姿の上半身。p.4と対になっている。華奢な上腕につい目を奪われてしまうのは因果。兄との絆に何ら疑問を抱かずにすむ可憐、その閉じられた瞳に映るのは、いまそこにいる兄の笑顔。あるいは夏の昼下がり、自分の部屋でこの服を着てふと目を閉じれば、耳に届くあの日の潮騒。兄との思い出をどの衣装にもまとわせて、可憐は少女としていよいよ輝いていく、その伏せられた瞳も、指でなぞりたいほど繊細な鎖骨も。

(あんよ)

 
 
 

 こういう絵を描く場合、当然のようにまずはヌードから描くわけだが、おもわずその段で筆がとまってしまうくらいに肉感的に可憐のヌードがイケてしまった憶えがある。「可憐をつかんだ!」という確信が持てた絵であり、ためしに考察者に送ってみたところ「くけーーーーーーーーっ」という半狂乱な返事がいただけた。服を着せてしまうのが実に惜しかった。

 (天野)

 
 
考察2(p.291)花穂
 
 

 薄着でウエスト計測中。体重という全体的基準ではなく、局所への視線が少女としての成長の証。しかしその驚愕の表情からして、他の2カ所は計らずに終わりそう。そのへんの子供らしさが、おしりの小ささにやはり如実に示されている。そうはいっても、この格好の花穂を後ろから抱え上げるのは、いくら兄でも勇気がいる。さすがに花穂の側から照れてほしいと思いつつ、この絵の横からとらえた彼女の逆S字曲線にひとまず見惚れておく論者。次の瞬間、おなかを無理にひっこめてラインを崩しそうだけど。

(あんよ)

 
 
 

 シスプリ挿絵の話が決まった直後、つまりかなり最初の段階から描いておきたかった絵であった。「つるんとしたおなかフェチ」というフェティシズムがあるとすればまちがいなく絵描きはソレである。ラフを公開した段階でもかなりの反響があった。

「花穂、これが下着絵ですね」
「どうっすか!! いや、胴がながすぎとは思いますが」
「花穂、スタイルいいなあ」
「・・・やはりあんよさん的にはベストプロポーションですか」
「わきのした、もすこし締められますか?」
「花穂の心細さは、脇腹に二の腕がぴったりくっつくとこにも出ます。二の腕というか、肘が脇から離れない。だから逆に、『ふぁいとっ』の時は、その肘をくいくいと体から離す」
「でもちょっと難しいですね」
「たしかに。胴回りを測定しているときはぴちっとくっつきにくいですね」
「いや、というか。背中のラインのこしたいんですよ、絵描き的に」
「了解>背中ライン」
「むむむ…どう表現したらいいだろう。もう少し膨らみかけの胸のまだ固いような雰囲気があった方がよいかも」
「で、胸の固さはですね、乳首のあたりで曲線を切らないようにして、なだらかなお椀状にすると、発育途上の固さが若干感じられます。逆に、乳首付近だけとがらせる手もありそうです」
「おっしゃることがよくわかる自分がちょっといや」
「花穂だと前者かな」
「将来、大きくなりそうなので」
「乳房の芽ができかけてるころですね」
「そうですね」
「ドッジボールとかするととても痛い時期」

やはりこの本の関係者はちょっと変態だと、わたしは思う。

(天野)
 

 
 
考察3(p.301)咲耶
 
 

 冬衣装。首に巻くマフラーの色は、きっと赤。目を伏せて独り佇むその姿は、冬の風に身を切り裂いてしまいそうな痛々しさ。Aパートで描かれた安らぎを過ぎて、ついに壁に突き当たってしまった咲耶を、兄ですら完全に癒せるものではない。もはやBパートの彼女に近いこの悲痛さを、それでも兄が受けとめてくれるようにと、マフラーの先が長く揺れる。この絵を見つめてからp.71を振り返ると、Bパートの〈Thinking of you in this special day〉というフレーズが無言のうちに重なり合う。特別な日の咲耶、その閉じられた瞳のいろを兄は想う。

(あんよ)

 
 
 

 白黒の中で「赤」という色を表現するにはどうしたらいいか。リピュアで象徴的に表現されていた「赤いマフラー」を、考察者の強い要望もあって描いておきたかったのだが、ここでは真紅を純白と同義の描き方で処理している。
ただ、この赤は触れるのが痛々しいほどの赤であり、唯一の絆でありながら、それは絶対の断絶を示す血の赤である。咲耶はそのぬくもりを頼りながら、それに直接その手でふれることができないでいるのだ。

(天野)
 

 
 
考察4(p.315)衛
 
 

 階段に腰掛けて大股開き。衛のこういう無防備な、女の子らしからぬ格好はアニメ版作品ではわりとよく登場している。その意識のなさが彼女の魅力なのだが、それをいっそう魅力的にしているのが、ほのかに芽生えた乙女っぽさ。この絵の衛も、はにかんだ微笑みと開脚とのかみ合わなさこそが、微妙な時期にある彼女の心身の結ばれようを端的に示している。兄に無邪気に飛びつきたくもあり、そうするのがなぜか照れくさくもあり。おそらく意識されないそんなためらいを、右足に触れる指先がそっと物語る。

(あんよ)

 
 
 

 リピュアでのテントの話を受けての絵である。ただ、テントの後とするなら「その場合、足が大胆すぎないかしら」という意見もあった。絵描きの応えて曰く、

「こっこれは個人的な意見なのですがっ!!
「あい」
「マリみてでも、KEY系でも、こう、がばっと元気に脚をひらいて座る娘って、いないんですよ!!」
「普通いませんて。あ、眞深がおるやん」
「ここ数年かけて鬱積された『がばっと元気に脚ひらいて座る娘』を、ここを千渡と死に物狂いで描きたいと!」
「まあ、開脚に夢まどろむその想いは、ぼくもわかちもつところではありますが」
「考察の主題からははずれちゃいますかね」
「じゃあね、下半身はがばっと開脚でいいので、表情に、あにぃへの乙女心を若干しのばせましょうよ」
「衛の要諦は、心身のずれですので、それを開脚と恥じらい顔で端的に示してしまいましょう 。過度に恥じらう必要はないので」
「おお、脚ひらく乙女了解」
「で、その姿を見たあにぃが、衛に不思議に思われるほどにドキドキするという」
「『? へんなあにぃ』というのでいかが」
「あんよさん」
「あんた神」
「天野さんも神に認定されかねない危うさをもっていますよ」

(天野)

 
 
考察5(p.323)鞠絵
 
 

 窓辺に佇む姿。療養所に兄が訪れる朝はいつもより早く目覚めて、短くない時間を静かに待つ。楽しいひとときはあっという間に過ぎ去って、引き留めることもできずに、ただ再訪の約束に心を慰める。それでも、兄がいてくれた時間があまりに心浮き立たせるがために、兄が帰った後の静寂は朝よりも深く冷たく、鞠絵の心を凍えさせる。外の光に背を向けてうつむく主を、見上げるミカエルが一吠え励ます。思い詰めかけた自分に気づいて、鞠絵は努めて微笑む。未来の遠さを胸に隠し、再訪の日を数えて生きる。

(あんよ)

 
 
 

 鞠絵というキャラクターを、自分でいちばん消化しきれた絵だった。
アニプリでは通常、五頭身くらいのディフォルメされた絵で人物は描かれているが、自分のすきなように描くと、つい頭身があがってしまう。なので、本来は意識してもっとちびっこく描いても良かったろうとも思う。たが、彼女の老成しかけた雰囲気はこれでこそ描けているとも思うのだ。

 (天野)

 
 
 
 
 
 

考察5(p.331)鈴凛、四葉
 
 

 風呂上がりの格好のままの二人。スナックをつまみながらの作戦会議か。ぺたん座りで和気藹々と、このペアならではの女の子空間だが、リピュアでの光景に比べると、鈴凛は彼女本来ののほほのした態度で、四葉の話に耳を傾けている様子。兄と秘密を分かち合った後の、クリスマスに備えての打ち合わせに思える。次々アイディアを出す四葉に、鈴凛は既に余裕をもって「ふーん」と聞き流すことさえできるのだが、それも四葉に心を軽くしてもらったおかげ。四葉は四葉で鈴凛に何でも聞いてもらえる気安さで、妹同士の賑やかな支え合い。

(あんよ)
 
 
 
 

 リピュアのこのシーンをみたときから「こ、これは描かねばなるまい!」と固く決意していた絵。考察者からも「膝の開き具合が完璧」との言葉をいただいている。妹同士の関係性を、あくまで日常的に、そして「力が抜けている状態」の絵を描きたかったのが、ここで実現できている。

(天野)

 
 
 
考察6(p.339)千影
 
 

 窓辺に佇む姿。夏の夜、月明かりに淡く照らされて、千影は狂おしい情熱を音もなく燃やす。憂いをたたえた瞳は、遙かな過去と未来とをともに見透かそうとして妖しく輝く。p.323の鞠絵と似た姿でありながら、千影のまなざしは唯一無二の機会を自ら求めて、月と星の相を読み解いていく。だが、そんな彼女のすぐ隣に兄がただいてくれさえすれば、あのプラネタリウムでのひとときのように。月影さながらに、千影の想いも過去と未来といまとに揺れ動く。
 

(あんよ)

 
 
 

 無防備な寝姿、そして次は憂悶の表情である。つくづく絵描きの千影に対する愛情はねじくれているなと思う。先の鞠絵同様に、つい大人びた頭身にしてしまうのは、やはり妹の魅力を「幼いかわいさ」よりは「思い悩む女性の美」として描きたいと思ってしまうからだろう。年少・年中組の開けっぴろげな魅力にではなく、どこか影のある年長組に、わたしはどうしてもひかれる。

 (天野)

 
 
考察7(p.352)春歌
 
 

 浴衣姿で見返り美人。腕のみながら、兄が唯一登場している絵でもある。指をそっとからませながら、兄の手のひらの大きさに気づいて「ポッ」となる。待ち合わせてのお祭りの夜、初めての七夕も羽が生えたように過ぎ去り、兄の手に引かれながらふと振り返れば、消えゆく夜店の灯りが賑わいの名残りをとどめる。今宵はさらに兄のお泊まり、胸も高鳴る大和撫子。頬を染めていよいよ艶やかなこの妹の、しかし見えざる右手には水ヨーヨーでもぶらさげられていないものか。もちろん兄の左手には、本日の戦果が袋一杯に。
 

(あんよ)

 
 
 

 リピュアBパートはどれも素晴らしい出来映えで、9話の春歌の回では、絵の美しさそれだけで泣いてしまった。決して悲しい話でも心躍る話でもないのに、である。
あまりにも丁寧に描写されるその情景に、その美術に感動して泣いたのだ。
うまくいい現せないが、この感動は、完璧なものの美しさに対して動いた感情なのだと思う。
それは、この「シスタープリンセスの世界」において何が必要なのかを逆説的に示している。
リピュアのBパートのいくつか(春歌の9話と、個人的には衛の回を特に挙げたい)は、それを過不足なく完璧に描きだした。それ自体が完成された美術品と同様の感動を与えてくれたのだ。わたしは自分の感動を、そう分析している。

(天野)
 

 
 
補論1(p.375)プロミストアイランド
 
 

 島影が遠く霞む。それでもこの島が何ものかを声高に伝えるように、頂の像は雲を背景にくっきりと浮かぶ。リピュアではこの島の存在が明確に描かれることはなかったが、兄妹のいるところに常に島はある。航が運ばれる沿岸道からも、p.282の可憐が歩む砂浜からも、島はそのおぼろげな姿を水平線に浮かべて兄妹の心に映し出される。そして、そんな兄妹達を、頂の像のてっぺんから黄色い帽子の少女が見守っている。精霊達が包むこの世界に、少女の想いは息づき、愛する者のそばへと優しく波打ち寄せる。
 

(あんよ)

 
 
 

 波打ち際の美しさをモノクロで描けたのが満足な一枚。
いろんな人に感想を聞いたが、サンフェイスさんから「個人的に思い入れを感じるのが、帽子の少女と、この遠くにかすむプロミスアイランド」との感想をいただいた。
たぶん「どこをさがしてもきみはいない」の感触を思い出すからだと思う、とのこと。この距離感が、あの俯瞰に似た視点をつい感じさせてしまうそうだ。
この視点でシスプリ世界を眺めることで「しあわせ」と「はかなさ」が同時に来るような、そんな風景である。

(天野)
 

 
 
補論2(p.387)咲耶
 
 

 横向きながらも咲耶絵の中で唯一こちらを見つめている。両手に抱くガイディングスターは、兄妹の救済への未来を導く星。聖夜の祈りをともに分かち合って、咲耶の「タタカイ」はまだまだ続く。諦めることなく、誇りをもって、兄への愛を貫いていく。それがいつかよき思い出に変わるなどと言い訳もせずに、ただひたすらに己の誠実な愛のままに。この手の中の星が、天頂に昇る日を目指して。咲耶は、妹達は、そうしてまばゆく輝き、兄に、地上に光をもたらしてきた。兄妹の想いの妙なる光輝、そして、それは、これからも。
 

(あんよ)

 
 
 

 花穂の下着絵であの構図を選んだ理由も同様なのだが、女体が描く曲線はほんとうに美しいと思う。かわいい妹、あるいは影のある美少女、そうした妹たちのなかで「エロ担当」と呼ばれつつも、もっとも女性であったのが咲耶だと思う。彼女は、彼女自身の美貌がその特徴となるほどで、表紙にアイテムを揃えるとき、象徴するものを見いだせず苦労したものだ。
わたしが一番に彼女に感じる魅力は、その葛藤する様なのだが、こうして女性らしい、ただ美しいだけの姿を描くのもまた楽しかった。

(天野)

 
 
 
 
 
 
シスプリの世界に関して、あんよ氏は非常に高度な理解レベルに位置している。それに対して、積み上げられた考察をあとから舐め取っている程度のわたしが、どこまでその本質を理解できているのか、正直なところ不安だった。

だが絵描きは、眼さえ曇っていなければ、理屈抜きで本質をすっぱ抜くことができる能力者である。
もちろんハズレや、とんでもない角度から打ち抜いたりしてしまうこともあるのだが、こと「シスプリ考察大全」に関して、これがどの程度に正鵠を射ているか。いまでは自信がある。

この絵に対してつけていただいたあんよ氏の文章。
これが、絵とこれさえあれば、あとで書き足した絵描きサイドの解説など、無粋に過ぎて思えるほどの完璧さなのである。
絵を踏み台にして、さらなる理解を示せる文章を書いてもらえたということ。これこそが、土台としての確かさの証明である。

画力という点においてはまだまだ反省・向上の余地がありありなのだが、わたしがシスプリを正しく理解できたことは、彼のこの解説が保証してくれている。

また、それはとりもなおさず、わたしのような素人シスプリャーをしてこの正しい理解に導いてくれた、彼の考察の確かさとも言えるだろう。

この考察に出会い、アニプリに出会い、初見では「またクレイジーな番組が・・・」としか思えなかったそのアニメに隠された、真に美しい世界をわたしは知ることができた。

もしこの挿絵が評価されるとすれば、それはこの考察があったからこそのもの、である。

絵が描けたことへの満足感、挿絵や表紙絵が話題になったことへの喜びはある。

だが、その評価は考察そのものの評価と不可分であり、その栄光はすべて考察に返されるものであることを、ここ宣言しておく。

表紙絵をはじめとするイラスト群は、アニプリへのオマージュでもあるが、この素晴らしい考察へのリスペクトでもあるのだ。


 
 
 
 
 
 

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