■ 2005.03.22
「魔法のちから」
文章と絵がかけるというふたつの能力を、わたしはもっている。(その程度はまあともかくとして)
で、この絵描き能力と文章能力は、同時に使えるわけではなく、いちいち個別に起動・暖気させないといけない。起動自体は「よし」と気合いを入れるくらいなのだが、描き(書き)始めてからエンジンがかかるまでに時間がかかるし、基本的に片方しか暖まらないのだ。文章を書き始めて、最初の方に書いた文章と末尾では雰囲気や鋭さが違ってくるくらいに筆が乗ってきても、次にいざ絵を描こうと思うと、これはこれでもう一度の暖気行程が必要なのだ。ラフを何度も描き直しながら、筆があったまるのを待つ感じである。
よく「絵は右脳で、文章は左脳でかいてるからだ」とも聞くが、個人的にはもっと魂的な領域だと思う。ともあれ、両方の能力は完全に別物なのは間違いない。
ただこれらはあくまで、ひとつの頭蓋の中に存在している。アマノタクミというOSでふたつのアプリケーションが動いているのだ。(同時に扱えないのはメモリ容量の問題だろうか)
従って、同じデスクトップ上でそれぞれのアプリを比較検討することができるのだが、文章能力者として絵描き能力を観察しても、それでもやはりわたしはこう思う。
絵が描ける能力は、魔法の力である、と。
自分でも、どうしてこういう絵が描けるのかわからないときがある。
とくに文章能力者としての起動状態で過去の絵など見ていると、これを書いたのは本当に自分なのかとすら思えるときがある。(ある程度以上むかしのだと「頭をかかえたくなる」という意味でだが)
はたして自分はどうやって絵を描いているのか。描かれた絵はどうやって生まれてきたのか。たまに文章化しようと思うのだが、いまだにハッキリしない。シスプリ考察大全のラフ日記ではいろいろ書いたが、源泉となる湧出部分のことは、けっきょく分からないのだ。
いつからか、わたしは絵を描くことができていた。
それは幼い頃に開花した才能なのか、父親からの遺伝なのか、環境によるものなのかわからない。
だが、何らかの情景や、なんらかの感情を、わたしはなぜか絵として表現できる。(表現力自体は矮小なものではあるが)
これは、ほんとに魔法の力にしか思えない。
特に、ペンタブレットとペインターを得てからはその力が使いやすくなった。いまやこれらは最も手に馴染んだ魔法の杖である。
すくなくとも文章能力者である自分にとっては原理不明の魔法で、絵は描かれている。
だがそれは絵描き能力者としての自分にとっては、およそ手足を精神の命令通りに動かす程度のなんでもない「自然な行動」なのだ。それでも、やはりそれは「魔法」とよぶべき種類の能力であると思う。
SS書きさんや考察者に絵描きがうらやましがられることがある。たまに「ずるい」という言葉もいただく。これには、いろいろな理由がつけられると思うが、つまるところ
「あの人たちは魔法をつかえるから」
というのが一番しっくりくると思うがどうだろうか。
余談だが、魔法使いにも様々なレベルや種類があるといえるだろう。
実物でもほとんど表情にでないであろうかすかな感情の機微を数本の線で描き出してしまう魔法使いがいたり、カラーコーディネイトの妙で観賞者の感情を意図した方向に変調させる色彩の魔法使いがいたり、背景美術だけで画面内の季節感を本物以上に際立たせてみせる魔法使いがいたり、どんな過酷な修行に耐えたのか知れないがとにかく神の乳首を描く漢がいたり、はては自分の描いたエロ絵に自分で興奮できるという禁断の領域に踏み込んだ大魔道師もいたりする。
魔法の世界はホントに奥が深い。