「Air」DREAM編解釈








「Air」は、

デフォルトではじまる「DREAM編」

その三編をクリアした条件で発生し、すべての原因となった翼人の悲劇を、一方的に見せられる「SUMMER編」

その上ではじまる「Air編」

この三編で構成されている。
 

以前に、DREAMの観鈴編・SUMMER編・Air編の直線的なつながりにのみ注目し、歴史の順序からその解釈を試みたことがあった。(「たくさんの思い出がある 他にはなにもいらないくらい」参照)この際にDREAM編の位置はわずかにしか言及されておらず、別項としてもうけた佳乃・美凪編においても、そのシナリオ単独の解釈でしかなかった。

ここでは、それぞれの編の持つ意味について語りながら、あらためて解釈を進めたい。
 
 


 
 

「この丘を越えたあの日から」

SUMMER編を前提としたDREAM(佳乃・美凪)編の意味








    キャラクターの相関関係

はじまりの物語であるSUMMER編を前提に、佳乃・美凪編の構成を考えてみよう。
ここに共通する点は「二人の女性の生活に、突然現れた主人公が関わっていき、家族のように暮らしはじめる」というところである。

神奈 と裏葉の暮らしのなかに、柳也が関わっていったように、
佳乃 と聖 の暮らしのなかに、往人が関わっていったように、
みちると美凪の暮らしのなかに、往人が関わっていったように、

この三者の関係はとてもよく似ている。
物語は違うが、その性格と立場において、神奈は、佳乃であり、みちるである。そして裏葉は、聖であり、美凪だ。
 
 

ただ、DREAM編の人物は、決してSUMMER編の転生ではない。 先の前提にシナリオを読み進めてみても、似てはいるが、その魂は決して同じ者ではないことがわかる。
この物語が、世代を超越する意志は、子孫に託すしかないというスタンスを取っていることでも、これは明らかであろう。
 

ただ神奈の残した翼人の羽根を通じ、佳乃の位置と、みちるの位置を、空にとらわれている神奈が経験することが出来るのである。

そう、このDREAM編、すなわち「夢」は、空にいる少女・神奈が、羽根を通じて見ている夢なのだ。

観鈴編についてだけは別項にて後述するが、DREAMの他二編は、神奈の願いが満たされていく過程でもあった。
 
 

    SUMMER編の大前提

神奈の基本的な願いは、下の言葉からも分かる。

「余の最後の命である。末永く、幸せに暮らすのだぞ」

神奈はこう言葉を残して空に散った。
彼女の望みは、もはや自分を守り救うという使命を捨てて、己の幸せを選び、いつまでも二人が幸せに暮らして欲しい、というものだった。
裏葉に対しても、柳也に対しても。

裏葉はそれが分かっていたからこそ、自棄になった柳也を止め、共に生きてきたのだろう。
柳也も、神奈を救うために生きてきたが、最後にことの本質を悟る。

「俺は頑張れただろうか?
 俺は幸せに暮らせただろうか?
 そして、気づいた。
 その答えは初めから、ここにあったのだ、と。」

SUMMER編の終焉において、柳也は気がつくのだ。
裏葉とともに、幸せにくらすこと、これが神奈の願いであることに。
 

そして現代、DREAM編において羽根に関わった者が、SUMMER編と同じような人間関係を再現する。
だが、今度は悲劇ではない。

観鈴編に関してはAir編をまたなければならないが、佳乃編、美凪編において、神奈と裏葉、そして柳也の願いが、象徴的に果たされていく。

そして、佳乃自身やみちる自身が経験した幸せの記憶、そして彼女らの大切な人の思い出が、いまだ空にいる神奈にとって、幸せな記憶となってフィードバックされ、解怨につながるのだろう。

その視点で、DREAM(美凪・佳乃)編を解釈してみたい。
 
 

ただ、この考え方は、正統ではないような気がする。
少なくともDREAM編の一人称が往人であること、各シナリオに、神奈の夢であることを匂わせる要素が見あたらないことなど、憶測であって、根拠と呼べるものはないのだ。

一応、お断りしておく。

だが、一点。
美凪編においては美凪がみちるに、佳乃編においては聖が佳乃に抱いていた愛情や、あるいは罪悪感の吐露。それは、言葉の少なかった裏葉の心情を代弁しているようにも思えた。

 
 
 

 

「朝には消えたあの歌声を」

DREAM編(観鈴)の位置と解釈、感想









    夢を見ている者

三人のヒロインを描いたDREAM編において、観鈴編だけが他二編とは扱いが違う。
ゲームの進行上、のちにAir編につながると言うことも含め、観鈴編だけは特別だった。

この編には、先のSUMMER編を前提とする公式もあてはまらない。少なくとも、DREAM観鈴編に裏葉的存在は登場しない。

では、これは何だろう。そして誰の夢なのだろうか。

ゲームの起動・メニュー画面からのDREAM編選択、タイトル表示の後、空を飛ぶ自分自身の描写がある。
全編のクリアを果たした人ならばお分かりだろう。これはAir編ラストにおける、「そら」の飛翔につながる。

DREAM編(観鈴)は、Air編ラストにて、いままさに神奈のもとへ向かい、どこまでも高みを目指して飛ぶ「そら」の回想ではないだろうか。

だが、周知の通り、そらはAir編においてDREAM編での往人の記憶を、一瞬だが取り戻す。この無限のループは、ゲームが続く限り存在し続ける。
 
 

こう書いておいてなんだが、この解釈も決して正しいものではなく、単なる憶測に過ぎないと思う。このゲームはいまだに「こうだ!」とスッキリした解釈をもてないでいるのが本音だ。
とりあえず考えた変遷の記録として残しておく。
 
 
 

    観鈴シナリオ感想:「子供」だった、観鈴という少女のこと

私は、この解釈のために、セーブファイルを消去した上での、二周目のAirを歩んでいる。
このとき、すでに観鈴が愛しいのも、道理というものだ。
いまならこの少女の気持ちがわかる。

「でっかいおむすびですねっ」「飲み物なくて、大丈夫ですかっ」

この妙に気合いの入った挨拶は、夏休みに友達を作ろうとした、この子の決意なのだと。Air編冒頭、往人の登場する前の事情がわかるからこその認識だ。SUMMER編を通過したからこそ、我々には観鈴の語っている夢の意味も分かる。

足が動かなくなった頃に見た、高野での悪夢。

そして寂しそうな顔で述懐する「海って何だ」と聴いた思い出。

28日、おそらくはお手玉の夢、そして夏祭りの夢。

晴子が温泉巡りに行くと行って出ていくシーンもそうだ。伏している娘を、冷たく放り出すように温泉にでかける晴子。往人が憤る。しかしBGMは「ふたり」なのだ。事情がわかっている二周目にはたまらない選曲である。

BGMといえば、観鈴編ではやはり「夏影」である。曲の最初、ためらいがちに、おずおずと近づき、かすかに決意の兆しがあってからはじまる旋律が、観鈴のための曲としてピッタリである。この郷愁、この寂しさ、曲調はのんびりしているのに、とても切ない。
 

DREAM(観鈴)編では、随所に、観鈴が子供である描写そして評価が出ている。
ギャルゲーであるという先入観から、観鈴に対して女性を求めてしまっていた。だが、いまならわかる。しつこいほど子供の描写が繰り返されているが、これはホントに観鈴が、その精神の成熟度において子供であるということだ。

それをふくめ、苦しみに悶絶している観鈴に身体を求めるというシナリオは、ちょっと違和感がある。以前から言われていたことだが、エッチなシーンの必要性のあまりない物語だ。売れる売れないの問題もあるかも知れないが、ストーリーでここまで売れることが証明されているので、DC版での全年齢版発売は嬉しい。
 
 
 

子供であること、それは佳乃編での解釈でも少し述べるが、観鈴のシナリオ、特にAir編が、真に家族をテーマとするための伏線であったことがわかる。
観鈴に必要だったものは、恋人ではなく、家族だったのだ。

二周目で、実感としてわかることは、たくさんある。

 
 
 

 

「とどかない場所がまだ遠くにある」

DREAM編(佳乃)の解釈と感想








    SUMMER編との関わり

DREAM編の、全てのシナリオに言えることだが、その構図、または構成の根幹には、SUMMER編が存在している。
翼人の羽根に関わる者は、SUMMER編と同じ流れをたどる。運命と言ってもいいかも知れない。

このシナリオでは、月夜に往人と散歩に出て「魔法が使えるようになったら、お母さんに会いたい」と述懐する佳乃が、SUMMER編における、出立の前の神奈にだぶってみる。

そして物語の終盤。
往人がもう、当てのない旅をしなくてもいいように。
自分だけの幸せを、聖が探せるように。
みんなが幸せに暮らせるように。
ひとりバンダナを外し、佳乃は空へ行こうとする。
これも、神奈の自己犠牲に重なって見える。

自棄になりかけた聖を、往人が励ます。神奈を失った柳也と裏葉の、逆の構図だ。
そして往人と聖は、佳乃を取り戻しに出発する。

つくづく、佳乃シナリオの終盤は、SUMMER編の再現である。
いわば繰り返す悲劇だ。
しかしここで往人たちは、佳乃の復帰を果たす。SUMMER編であれほど望まれた、三人での暮らしが戻ってきたのだ。
 

ここでは、自分を救うという使命を捨てて、己の幸せを追って欲しいという、神奈の、柳也への願いが果たされている。
法術を使う者の使命をすてて、往人が佳乃との幸せを選ぶという道だ。
これと同時に、聖が妹離れすることで、神奈にとらわれていた裏葉の解放、さらに柳也を好いていた神奈の想いの成就にもつながると思う。

聖が泣く。裏葉たちが、生きて再び夏祭りに行けたら、彼女も泣いただろう。
ラストシーンの風船に象徴されるように、佳乃シナリオでの、これら幸せな記憶は、神奈のもとに届けられた。

前述した通り、DREAM(佳乃)編は、空にとらわれている神奈が、白穂の時代からのこった羽根を通して見た「届けられた幸せな夢」なのだと思う。
その夢は、もちろん佳乃にとっては現実なのだが。
 
 

    白穂の悲劇について

空から、神奈の羽根が舞い降りる。 時に、おそらくは元寇と思われる1274年。正暦5年(994年)からは300年近い時間が流れていた。空に捕らえられていた神奈の呪いが朽ちたのだろう。

余談だが、歴史においてすら「神風」と呼ばれたこのときの奇跡のような現象は、翼人になんらかの関わりがあるのかもしれない。このときはかなりの法力僧が命がけの祈祷をしたと聞く。裏葉の子孫が、いたかもしれない。
そして、時を同じくして空から降る翼人の羽根である。

無限に記憶をうけつぐ翼人の羽根は、その一枚一枚が、一種の記憶装置であるという(カラフルピュアガール・インタビュー記事より)。この記録装置たる羽根には、自刃して果てた白穂と、残された八雲の記憶が残された。それは神社にまつられ、時を経て母を求める佳乃の願いに触れる。やがて、佳乃をスピーカーにしてランダムに再生される白穂の記憶。子守歌、子をあやめようとしたこと、自刃したこと。それら記憶が佳乃の身を通して、繰り返される。

佳乃は、往人に出会い、バンダナを取ることで魔法の力を得、空に行けるようになる。
選択肢によっては、事実、空に行ってしまう。コレがどういうことかはわからないが。

この「空に行ける」という状況での佳乃の母との会話がある。
佳乃は好きな人がいることを母親に話す。母親は辛かったら空に来てもいいのよ、という。でもここで生きると言う佳乃。
佳乃は、地上で生きることを選んだ。出来ることならば、神奈もそうしたかったであろう選択。

「私を産んだせいで、お母さんは長生きできなかったかも知れないけど」
佳乃が言う。
「産んでくれて、ありがとう」
娘の感謝が、母の心を満たす。
その想いが、白穂の悲しい記憶を洗った。
羽根に残されていた、白穂の悲劇の記憶が、子を思う母の愛情を残して消えていく。最後に残ったのは慈愛に満ちた子守歌。それも、羽根とともに、地上から消えていった。

羽根の記憶は、子を残して死なねばならなかった白穂の悲劇でなく、娘からの感謝という幸せな記憶として、神奈に届けられた。
 

SUMMER編における「母娘の悲劇」と「神奈を失う悲劇」が見事に清算されている。
佳乃単独の幸せも手放しで嬉しいが、この編にはいまひとつ、こういう摂理的な幸せがあったように思える。
 
 
 

    佳乃シナリオの感想:恋愛の条件

Airは、ギャルゲーではない。少なくとも恋愛シミュレーションではない。関係を持つに至る展開はあるが、恋愛が発生しているのは、佳乃シナリオだけだ。
では、なぜ佳乃シナリオでのみ恋愛が成立したのか。
それは、観鈴があまりにも子供であり、美凪がまだ自分自身にとらわれすぎているのに対し、佳乃だけが(父母のいない状態ではあったが)姉という家族から、無条件に愛されているという絶対的な確信を持っていたからだと思う。
聖からの無条件の愛情。この土台があったからこそ、佳乃は恋をし、往人を捕まえることが出来たのだと思う。
言葉にするのも一瞬抵抗があるほどだが、実は三人のヒロイン中、佳乃が最も精神的に(恋愛するくらいには、すこやかに)成熟していたのではないだろうか。

観鈴はAir編において、美凪はトゥルーエンドの後において、家族の愛に満たされる。
彼女たちが往人と恋をするのは、本当は、その後だったと思う。

あれは恋ではなかったのか、と問われれば、然りとしかいえない。
観鈴と美凪にとって、往人は恋人ではなく、むしろ兄弟に近い存在だったと思う。
二人のシナリオで求められていたのは、やはり家族だったようだ。
 
 
 

 

「想いはどこまで届くことをゆるされているのだろうか」

DREAM編(美凪)の解釈と意味








DREAM(美凪)編は、いくつかのポイントで構成されている。
 

    夢を見ること

正気を失った母の前で、「美凪」としてではなく「みちる」として生きなければならなかった美凪。彼女は従容と甘んじたが、それ故に、笑えなくなってしまった少女時代があった。
「自分以外の者を演じることでしか愛されなかった、永い悲しみ」である。
そこに、みちるが現れたことで、美凪は「美凪でいられる」ようになる。
そして彼女は笑えるようになった。
もしみちるが現れず、美凪が自分を「みちる」であると認めたまま母親が回復してしまっていたら、美凪は崩壊してしまっただろう。

みちるは自分のいるこの状態を「美凪は夢をみている」と言う。
 

    夢から覚めること

だが、母が目を覚ました今、みちるの生み出し、美凪を守ったこの夢が、いまは美凪によくないことをみちるは知っていた。

「やっぱり、もう無理なのかな」

そう感じ、美凪を見つめるみちるである。
美凪は、もうみちる以外のひと(往人)にも、笑いかけることができるようになっていた。
美凪が心から楽しそうにしているのを、みちるが見ている。

「すこし悲しいけど、やっぱりこれでいいんだって、そう思ったの」

往人に語るみちる。

母親の前で「みちる」でありつづけた美凪、いまは母の前に帰れない美凪、それが寂しいと分かっていながらも、みちるとの生活を大切にしたいと願う美凪。彼女は、そういう夢を見ている。

この夢を覚まし、現実にむかって歩いていけるように背中を押すのが、往人の使命であった。
途中、頻繁に出てくる「役目」をキーワードにした、みちると往人の、美凪を想う会話の真意であろう。

みちるは、たぶんこのとき、美凪と過ごした永い夢を終わらせる決意をしていたのだ。

みちるが消えるのは、やや間延びした感のあるシナリオの果て、ちょうどお盆の頃である。
最初は、お盆という時節の故に消えたのだと思っていた。カモメとみちるの会話にあった「風が吹く」というのも、そういう日本の霊的な流れによるものだと思っていた。

だが、それは違うのかもしれない。
風が吹く。これは、この美しい凪のような状態が、終わることを示している。風が止まると書いて凪と言う。波風のない夢のように静かな状態。それが終わる。美凪が変わらなければいけない機を意味しているのではないか。
 

美凪には、母親に相対していく勇気がない。この少女は、あまりに愛しく、居心地の良い「居場所」にいつまでもいようとしてしまう。
その背中を押したのが往人だった。

「あんな美凪を見るために、みちるはいたんじゃないもん・・・」
「ここは、美凪の居場所じゃないよ」

おそらくは誰よりも美凪と離れたくないみちるは、この言葉を吐いたとき、どれほどの離苦の中にいただろう。

だれもが、互いのために生きている。

この幸せな夢から覚めたくない。
この親愛なる友と離れたくない。
誰もが、そう願う。

美凪が自分を思ってくれていることは、充分すぎるほどわかっている。
みちるとて、いつまでも美凪と一緒にいたいだろう。

でも、

「夢はいつか覚めなくちゃいけない。覚めることをわすれた夢は、それがどんなにしあわせな夢であったとしても、いつかは悲しみにかわってしまうから」

だからみちるは、美凪のために消えるのだ。
美凪の母が、夢から覚めた。風が吹いた。そして今は、美凪を求めている。
美凪は、もうこの夢から覚めなければいけない。時間がない。

だが、この「時間がない」というのは、事情ではない。
みちる本人の決意によるものだった。

だから、みちるは、最後に笑顔で泣いたのだ。
 
 

    みちるへの罪悪感

美凪の罪悪感は、じつはかなり根深い。

最初は、おとうさんっ子だった美凪が、母親に寂しい想いをさせてしまったこと。
それ故に、母親はみちるを求め、失い、心を病んだ。
その罪悪感。

妊娠中毒症の母を案じるあまり、まだうまれていない妹を憎んだこと。
それはほんのかすかな気持ちだったかも知れない。だが、それを美凪は己の罪として抱いている。

美凪は、夢から覚めるのをためらっていた。
それは、みちるへの愛情であったが、同時に、みちるへの負い目でもあったのだろう。

だがこれは、みちるを母親に引き合わせたことで解放されている。
みちるの歓びという以外に、語られてはいないが、母とみちるに対して持っていた美凪の罪悪感も、ここで解放されているのではないか。
そう思える。
 
 

    SUMMER編への関わり

佳乃編に比べると、みちるが明言してくれているのでわかりやすいが、神奈にとっては自分の分身が、どんな記憶をフィードバックしてくるか、それを見ている夢が、このDREAM(美凪)編なのだと思う。

神奈のもとへ返る幸せな記憶は、いくつもある。
先述したが、ここでの人間関係は「どこか遠い過去を思わせる懐かしい光景のように思えた」との述懐もあるように、往人:みちる:美凪 = 柳也:神奈:裏葉 であろう。
そう思ってプレイすると、みちるが持ち帰る幸せな記憶が、どれほど神奈を慰めるか、実感できる。

裏葉からお手玉を教わるがなかなか修得できない様子が、美凪とみちるのしゃぼんだまと重なる。
みちると母との邂逅。これも八百比丘尼との悲惨な別離が、感謝とともなる別れで清算されていることなど。
悲しい思い出が、幸せな記憶に書き換えられていく。

美凪とみちる、そして母親との関係自体も感動的だったが、その背後にあるもうひとつの心情世界、神奈の立場を理解してプレイすると、またちがった感動がある。

シナリオ中で、あまりにも突然に、みちるが消えてしまう。だがそれもSUMMER編を考えれば、分かる。
みちるが去ったのは、シャボン玉が飛ばせるようになった、その夕刻だった。

これだけが、神奈の痛恨として、みちるの中に残っていたのだろう。
 
 

    みちる単独の存在位置

みちるは、本人が述懐するように、空にいる神奈の、砕けた心のかけらだ。
そのひとつ、いままで翼人が見てきた記憶の一部が、羽根に宿って地に降りているのだろう。その実体が、神社に祀られている。シナリオが違うが佳乃が触れたものであり、白穂の時代からあるものなのだろう。
それが、なんらかのいきさつで遠野家にあった「羽根を持つ少女の絵」にリンクされていたのだろう。
佳乃編の解釈にも書いたが、羽根はなにがしかの願いに呼応して、記憶に関する、何らかの現象を起こす。美凪の願いによっても、羽根(羽根を持つ少女の絵)は「みちるを生み出す」という現象を起こした。

社に祀られている羽根を「もうひとりの自分」と、みちるは言っている。
当初は、みちるのことを、死産となった美凪の実の妹の生き霊かと思った。だが、これは違うようだ。
おおもとの生まれなかったみちるの霊には、肉体を持って刻んだ思い出がない。だから羽根の記憶を借りて、みちるとして現出したのだろう。

そして、みちるの出現とともに絵は消失した。
実際には美凪の父が持っていったのかもしれないが、こめられた美凪の願いが絵を通じて羽根に重なり「まぼろしのみちる」が生み出されたのだろう。それを象徴する出来事だったのだと思う。

また余談なのだが、この翼人を描いた絵にも、なんらかの裏エピソードがあったのだろう。
この絵に関わった人間が、なんらかの形で翼人の悲劇を受けたからこそ、絵と羽根がリンクされたのだと思う。

エピローグに出てくる、実体のみちる。
この出現は、偶然かもしれないが、みちるが「しあわせにしてあげたい「ひとたち」がいる」と言っているのを見ると、彼女による意図的な再臨なのかもしれない。
 

    美凪シナリオの感想

このシナリオの美しさは、誰もが認めるであろう。
その構成、演出、そして文芸も。
だが、それ故に、表層にとらわれていてはすぐに本質を読み飛ばしてしまう。

遠い海風にあおられて、行き場をなくした鳥が一羽。
往人のよって頻繁に語られる、これら情景のモノローグ。これは実は、美凪の心理描写であることが多い。往人が見る空の雲の動き、感じる風の流れが、そのまま美凪の心象風景だ。

「凪」という字は、近年名前によく使われるが、美凪に関しては、まったくその通りの名前である。
風が止まる。彼女の時間は、止まっていたのだ。
 

またこの美しさの本質は、誰も彼もが、お互いのために生きようとしていることにもある。
なんの気負いもなく彼らは生きている。まちがいなく終わる夏。確実に覚める夢。その中にあって、現実に向かう意志。

最初のプレイでも、このシナリオには泣いた。
だが、それぞれの事情を理解しての三回目で、やっと、キャラクターたちの心情が分かるようになった。
いまさら、とんでもない精神的質量のあるシナリオである。

つくづく思う。
私はこのシナリオを、半分も理解していなかった、と。
 
 

余談

全てのシナリオにおいて、分岐後、お互いに干渉するところはほとんどない。
共通項としての夏祭りがある程度だ。
そのなかで、かすかに観鈴シナリオが垣間見える。
観鈴シナリオでは、最後の夜。
駅舎で寝泊まりしている往人は、おそらくその夢を見ている。

やはり法術使いの使命が、感応したのだろう。

コクワガタの夢(7/30)の出典が、わからないが。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

二編の夢を通じて、神奈のもとに幸せな記憶が帰っていく。

そして、SUMMER編の事情を土台として、翼をもつ現代の少女、観鈴が現実の幸せをつかむ。

        (「たくさんの思い出がある 他にはなにもいらないくらい」参照)
 
 
 
 
 

 
 
 

 

Air の総評、雑感








    萌え

KanonにもAirにも言われていたことだが「萌えどころではなくなった」というプレイヤーのコメントが多々見られる。
Airが萌えないのは当たり前だ。これは、トゥーハート(PSでむかしやった「卒業2」以来の、KEY以外のギャルゲーである)をやってみてよくわかった。

萌えは、基本的に「現実的な人間」以外に対して発生する。
いわば、主に男性による一方的な妄想の産物、それにのみ、人間は「安心して」萌えることが出来る。

だが、それが、あまりにもまともに「人間」である側面を見せられた場合、最初は出たかもしれない萌えという感情は、キャラクターの理解につれ、維持できなくなっていく。

低いところでは同情、高いところでは崇拝、いろんな言葉があるが、我々はその愛すべき人格に対して真摯でありたいと思ってしまうのだ。

Airで描かれているのは、最初の楽しげな「つかみ」はともかく、最終的に萌えるキャラではない。苦悩しながら生きている人間である。
だから我々は、萌えないのだ。あるいは萌えを許せないのだろう。

もし萌えているのなら、それはその人の心の中で、都合のいい人格に書き換えられた別人ではないだろうか。
もしくは都合のいい要素だけを抜き出した、やはり妄想の産物である。
 
 
 

    文芸

Kanonはギャルゲーの皮を被った何か、だったが、Airは皮すら被っていなかった。多くの人にはギャルゲーに見えただろう。だがプレイしてみればわかる。
これはもはや、ギャルゲーではない。ゲームですらないかもしれない。

形態こそゲームだが、これはむしろ文学に近かった。
ひとつの言葉に様々な意味をこめている叙事詩に近いものかも知れない。
表現の美しさに惑わされそうになるあたりなど、いよいよそうだ。
このゲームほど、行間を読むという仕事を要求されるゲームはない。

重要な、熟考を要するポイント。しかもそれは、とてもさりげなく語られている。その会話が突然、より平易で、しかもおもしろく気を引く台詞やイベントにひったくられる。あえて真意を隠すように。

Airの中で表現されている出来事の、その「真実」を探ることは容易ではない。
テキストにおいて、完全に説明されきってはいないからだ。
では、この作品は不完全なのだろうか。そうではない。
我々は、この作品が「不十分な表現で終わっている」ことを知っている。

全編をクリアしてなお、我々の中に発生するこの違和感こそ、この作品が完全であることの証だ。
 

Airの会話、もしくは主人公の述懐の中で、何かを言い表しているであろう言葉がたくさんある。
それをズバリと言わないうちに、会話が進行したり、あるいは分かりやすい話題にそれてしまう。
物語はおもしろいが、分かりにくいことこの上ない。

いっそ、この会話でのこの言葉の意味するところは、こう! という注釈があったら良いと思うがどうか。そのうち作ってみたい。
この演出の意味は? とか。

だが、読解力のある人間には、生ヌルい資料になってしまうだろう。
 
 
 

    考察

考察を重ね、先達たちの感想・解釈を読むほどに、いろんな事がわかっていく。
そして、最初に出した仮説が、間違っていたのではないか、と思うようになっていく。
そのうち、考察自体が、自分にとって無意味になるだろう。
事実、この解釈文を書き進めているときも「もう、真実なんか、どうでもいい!!」と私は叫んでいた。

ただ、キャラクターたちが、どんな心情でこのシナリオを通過しているのか。
それだけが知りたかった。

最近は、それ以外の考察を放棄している。
 
 
 

   感情移入

事実や真実でなく、キャラクターたちの心情に想いを馳せながら、何度目かのプレイをし、シナリオをたどる。

美凪は、大切な友達だった。
佳乃は、かわいい恋人だった。
観鈴は、かわいそうな妹だった。

主人公に感情移入した場合、私にはそう思えた。
だが、今回の主人公は、感情移入が容易ではない。
Air編に至っては、その必要すらなかった。

美凪編は、みちるに。
佳乃編は、聖に。
観鈴編は、だれでもなく、Air編において晴子に感情移入してプレイしてしまった。

主人公とは、一体なんだろう。
少なくとも俗に言う「主人公」ではない。ただテキストの一人称を勤める解説役なのかも知れない。
そう、主人公と言うよりは、彼は単に「重要な脇役」にすぎないと思うがどうか。
 
 
 

    愛の物語

Airは、三つの愛の物語だと思う。

美凪編は、兄弟愛、もしくは友愛。
佳乃編は、恋愛。
観鈴編からつながるAir編は、親子の愛である。

上二編にはまだ主人公が絡む余地がある。
だが、こう考えてみると、親子の愛の中に、往人が入っていけるはずもない。
Air編に主役級の出番がないのも当然と言えば、当然だ。
 
 
 
 

    心情の理解

一回目のAirは、ことの真相を知らないまま進むため、その表層的な人間ドラマだけで泣いてしまった。
これでも充分すぎるほど、感動的だった。

二回目のAirは、ひととおりの情報を得た上で、シナリオと事実の確認のために通過した。それなのに泣いてしまった。

そして三度目である。
二回のプレイを通じ、また多くの先人の解釈をもとにした自分なりの解釈仮説を立てた上でのプレイであった。

どんなシナリオで、何が起きるか、全部分かっている。わすれようはずもない。
だが、私は、ここで初めて、キャラクターが、何を感じて、どういう事情でこれらの言葉を吐いたのか、分かってしまった。

三回目でやっと、私の中で、キャラクターが呼吸をはじめてしまった観がある。
事情がわかって、そのうえで覗き込んだ、この「Air」という作品は、おそろしく深遠な心情世界だった。

Airは深くて鋭い。
表面を撫でただけでは、ザラッとした違和感が残るだけで、そのひだの内壁にどんな心情世界があるのか、分かるものではない。
この世界の理解には、人間の心情の理解に匹敵する細やかさを要求される。
 

こうだ! と分かりやすい感動を突きつけるのではなく、それを出来る限り抑えに抑えて表現する。
Airの深さは、その描法故に生まれたものだと思う。
 













 

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