真 紅

pure ruby

(2005.02.07 )







「ローゼンメイデン」の感想である。

たしか第一話だけみたときの感想が「主人公が不愉快」だった。そのせいで以後の話は観賞しなかったのだが、文月さんがあんまりにも愛情満ちあふれるラブコールをしてるので、放映終了後に全話みてみた。
最終回を見るまでは評価の予断を許さなかったものの、結果としてすごく面白かった。

以下、アニメ版の最終回を前提とした(当然ネタバレ)、わたしのローゼンメイデン観である。




・真紅について。

一見、完璧なレディにみえる真紅。実際にはできないことも多いのだが(それがまた萌えるのだがそれはともかく)、彼女はそのプライドからか、あるいは「アリス(ローザミスティカというドールたちの活動鍵をすべて集めることで成れる究極の少女。その条件で人形たちは人間)になる」という意識からか超然と振る舞うことが多かった。
だが、彼女自身ももっていた芯の弱さがある。
それは完璧主義であることだ。

アリスになることを目的として生きている彼女は、自らに常に完璧を要求している。
だからこそ、最終回で水銀燈に右腕を壊されたとき、あそこまで打ちのめされてしまったのだ。

完璧主義者にとって一点の破壊は、全損と同義である。右腕の破損は彼女にとっての全てが崩壊した瞬間だった。それまで未来に絶望して閉じこもっていたジュンのように、今度は真紅が閉じこもってしまいたい気持ちに駆られたことだろう。それは真紅にとっての試練だったかもしれないが、これは本編の流れの上ではジュンの乗り越えるべき試練でもあった。うちひしがれた真紅を、ジュンが支えようとする。二人の間にあった絆が明確になった瞬間であり、そして閉じこもっていたジュンが外に出て乗り越えたからこそ、真紅もまた閉じこもるのではなく敵前に惨めな姿をさらしたのであろう。あの居心地のよさそうな布の家から出て。

真紅は、ここで精神的に「腕を失った」という欠落を乗り越え、完璧主義へのこだわりを超克している。
最初の虚勢ではなく、沼での戦いにおいて真剣に彼女は片手で戦おうとしているのだ。その戦闘動機はジュンとの絆のためである。そしてはじまった水銀燈との戦闘は、当然の帰結として勝利的に終わる。

欠落を気にしすぎてなにもできなくなる、というのは完璧主義者の悪い性質である。
それは純粋であるが故に折れやすい金属のようなものであり、彼らは細部にこだわるあまり本質を見逃してしまうことがある。

真紅もまた、アリスになるただ一本の道だけしか見えてなかった。
だが、そこから外れて初めて、彼女は世界を知ったのかもしれない。欠落を経たからこそ、みえる本質があるのだ。ここでのそれを一言で言ってしまえば、やはり絆であろう。



物語は、ジュンが他者を排除して逃げてきた対人関係を、最終的に取り戻すことにテーマが見いだされ勝ちだが、真紅もまた、失ってみなければわからないものがあったのだ。高慢な性格が打ち砕かれたことで、彼女の解放もあったのだと思う。ここで彼女は現在おこなわれているアリスゲームよりも大切なものに気がつく。それはジュンとの絆であり、いつの間にか彼の成長を助けていたことだ。

だからこその、ラストの微笑み。あれはまるで、欲していたものをついに得られたような。冥利に尽きる表情だった。
そこで真紅は宣言する。わたしは真紅。誇り高いローゼンメイデンの第五ドール。そして、幸せなあなたのお人形。


真紅は、アリスゲームに捕らわれることから脱却したかにみえる。だが、わたしはこれこそアリスゲームの本来的な方向性なのではないかと思うのだ。


・アリスゲームとは何か。

ゲームは、まずドールが人工精霊に代行させた手続きの上で、ミーディアムを選ぶところからはじまる(のだと思う)。作中ではすでにアリスゲームは戦闘遊戯として捉えられており、その最中での無理矢理な契約ではあったが、本来はちゃんとした説得から契約に至るのだろう。
こうしてドールはミーディアムと薔薇の指輪による関係を結び、ゲームに参加する。ミーディアムの有無によって使用できるエネルギーレベルが違うことから、二人の絆が勝利の鍵となるようだ。そうして全員に対して勝利しローザミスティカをあつめると、ドールはアリスになれる。

これがアリスゲームの、現在の見た感じの印象だ。水銀燈のせいかもしれないが、ゲームは戦闘による屈服を勝利条件としているように見える。
だが、ドールがアリスになるための条件は、先述のようにローザミスティカの獲得にあるが、それは戦闘によるものではなく、もっと人格的な絆による評価で競われるものではないかと、私は思う。

わたしが考える本来のアリスゲームは、ドールたちがミーディアムを理想的な主人に育てることで、競われるものなのではないか。

ドール(この場合は薔薇乙女)と人間との関係とは何だろう。
人間側の見解はジュンが言うようにただの動いて口をきく呪い人形なのだが、ドール側はやや複雑なようだ。まず、翠星石は人間を嫌っている。あからさまに差別的に「ニンゲン」という言葉を使っているし、真紅もどことなく人間を見下している感じがあるといえよう。それは普通の人間が彼女らよりも罪深く、醜いという認識があるからだろう。罪深い我欲にまみれた人間。「原罪」というキリスト教の用語があるが、アダムとイブを出発点としていないドールたちにはこれがない。となると、彼女らは人間よりも罪のない上位の存在として自分を認定しているのではないか。キリスト教をもちだすなら、ニンゲンに対してより神に近い天使の位置ともいえる。ならば、人形とその持ち主という主従関係にありながら、罪深く自分を正しく愛してくれない人間にへりくだるいわれはない。人形でありながら人間に屈しないのは、そういう意識があるからだと思う。

だが、彼女らが仮に天使の魂を持っていたとしても、しょせん器は人形である。本来的には人間に愛されることが目的の存在だ。
だからこそ、自分を正しく愛してくれる主を、彼女らは求めているのではないか。

ところが、ドールは主を選べない。
ゼンマイのシステムは、ミーディアムを相手に委ねるしかないということである。その相手こそ人工精霊が探してくるが、それとて大して気が利いたものでもない。これはもともと立派な人間を育ててもあまり意味がないからだろう。

そうして出会った比較的人間的な成熟をむかえてない人物を、ドールたちはどうにか導き育てていく。
ミーディアムの成長は、人形と主人との信頼関係による。そして人間を成長させることで、その人間を通じてアリスとして生まれ変わることが、彼女らのゲームの本来の姿ではないかと思える。

ところで、ローザミスティカは別名「聖母の証」とも言うらしい。
これを全て集めるということは、すなわちそのドールが聖母であるという証明である。
それは無原罪の少女人形として、罪をもった人間であるミーディアムを聖人に育てあげた、という証しとして得られるのではないだろうか。

そしてローザミスティカは、戦って奪うのではなく、立派な主(ミーディアム)を育て上げ「あなたこそアリスにふさわしい」と認められて譲られるものであるべきなのではないか。

ところで、原作を読んでいると、真紅だけはその本来のやり方で行こうと考えているように思える節がある。雛苺からローザミスティカを奪わなかったあたりがそうだ。
やはり戦闘ではなく、アリスゲームは、ドールが導き育てたミーディアムの人格レベルで競われるものではないかとわたしは思う。




しかし、アリスゲームは変わってしまった。

長い歴史のなかで、ドールたちは人間に関わりながら生きてきたものの、いままでアリスになったドールはいない。「今度の主人も、わたしを救いはしなかった」と嘆きながら人形たちはいままで過ごしてきたのだろう。
その嘆きが、アリスゲームを現在のような戦闘遊戯に歪めてしまっているのかもしれない。

そしてたぶん、どこかで「ええい、面倒くせえですぅ」とか誰かが思ったのだろう。
ミーディアムとの関係で発揮される力は、おもに戦闘能力として評価されるようになり、人形たちの目的は、力ずくでローザミスティカを奪う現在のアリスゲームに変貌してしまったのではないだろうか。




ごくランダムに選定され、しかも決定権は相手持ちという神様まかせなミーディアム選びで決まった主人の人格をもってローザミスティカを得る権利を競う。
「ローゼンメイデン」は本来、そのためにミーディアムとなった人間を成長させる物語なのだと思う。
そしてドールたちには、その成長した人間に、自分を救ってもらいたいという切なる願いがあるのではないだろうか。




ただ、この解釈には問題がある。つまり、なんとなく人形師のローゼンはべつにそんなこと考えてねーよーな気がするのだ。
理想的な完璧な少女を、ってあたりがいかにも古典的マニアックさで、そんなひとが人間を成長させて聖人を育成、とか考えるだろうか。ドールたちの出発点が彼なのでその人格こそがゲームルールの基点なのだろう。やはりこの解釈は(他にもアニメ・原作の表現から逸脱している点もあることから)無理があるかもしれない。




・水銀燈の心情

真紅との戦闘で、彼女は敗北した。
それは真紅との戦いにではなく、ともに欠落した部分をもち、それを分かち合える相手がいるという真紅とジュンの絆に負けたのだ。
腕をうしなった真紅と、腹部をもたない水銀燈。
水銀燈には、そのおおきな欠落を埋めようとしてくれる人はいなかった。彼女自身がそれを頑なに拒んでいたからだ。(ただ、原作では違うようである)
彼女のその姿は、腕を失った真紅のなれのはてかもしれない。真紅ももしジュンとの絆を獲得できていなかったら、ああなったかもしれない。

水銀燈が他のドールを嫌っているのは、強烈な負い目によるものである。自分がどれほどの戦闘力を持とうと、あるいは美貌を、人を惑わす魅力を持とうと、不完全であるという一点だけであの雛苺にすら劣るのだ。自分の土台となるところを、常に自分で支えていなければならない。そのエネルギーは恨みの力である。あちこちのサイトで、白い羽根として描かれている天使のような水銀燈の絵がある。あの能力は本来は別の使い道があったのかもしれない。それがああまで歪められてしまったのは、彼女のねじくれた悔しさの故だろう。父たるローゼンに未完成のまま放置されていた恨みの故である。

そして、我執のみで生き、ミーディアムとの絆を拒否し、単独で戦闘していた水銀燈は、真紅と関わり合うことでしか、自らの救いの道が見いだせなかったのだ。
水銀燈が真紅との再会時に、分秒にいたるまでの空白時間を告げている。彼女はずっと真紅との邂逅を待っていたのだ。
ひたすらに真紅の覚醒を待ち、それとともに堰を切ったように戦闘を開始。水銀燈は、雛苺が真紅を通じてジュンの力を供給されていたように、真紅を通じてなんらかの救いを求めていたのだろう。
それは戦闘という形でしか関わることのできない、ねじれた感情になってしまっていたのだが。

もし、ジュンが立派なミーディアムであったなら、あるいは水銀燈を救えたかも知れない。ジュンが、水銀燈をも包むような人格をもっていたなら。
だが、いまの段階でそれは無理な話だろう。

だが、ドールたちはそういう主人を待ち望んでいるのは明白である。翠星石も、蒼星石を案じているときに「おまえがもっと立派なら」と嘆いていた。



ドールたちは、人間を導く天使であり、人間を聖人に育てる聖母であり、聖人となったミーディアムによって救われ少女へと生まれ変わる存在であり、おそらくは聖人と婚姻を結ぶものであり、そしてあまりにも長い時間を耐えてきたがゆえにねじくれてしまった、かわいそうな人形である。それが、ローゼンメイデンたちなのだと、わたしは思う。





製作環境:PowerMac G4 450・WACOM FAVO・Painter7

やはりアニメの最終回でけっこうな感動を受けたので、真紅の絵を描いてみた。
身内には翠星石のファンが多いが、やはり主役は真紅である。

ただ、紅のドレスに緑のタイというキツイ補色の組み合わせで、しばらく躓(つまづ)いていた。結局そのへんは勝手に変更し、ケープも省略、足もとも変更。小道具的にはおかしな真紅になってしまった。

表情は、まだ幼さや素直さが残る感じに。最終回の考察で書いたように、彼女も自分の内面的課題を克服することがあり、水銀灯のようにねじくれてしまうこともあることから、ドールたちも時間とともに成長したり変化したりするものだと考える。となれば、長い時間を経る前には、第一話プロローグのように主人に見捨てられたり拒絶されたり絶望させられたりする以前には、もっと素直な時代もあったのではないか。もっとも彼女は生まれたときから誇り高かった気もするが、そんな時代を考えて描いてみた。

ただ「ドールを描く」という文法がどうしてもわからなかった。つまり「人間」として描くのか「人形」として描くのかがハッキリしなかったのだ。
具体的には、顔がどうも掴めない。人形というより顔色も血色のよい感じなので人間みたいだ。
本来は病的に白いものなのだろう。でも、最終回までで描かれた彼女の豊かな感情表現をみるにつけ、暖かみのある絵に仕上げたかった。
でも表情はまだ掴み切れていない。これはこれで見るときに応じて違った感情を内包して見えるので面白いのだが。

そして、下手すると真紅本体以上に神経を傾注したのは、鞄の内張である。
いまみるとサイズ的に窮屈だろうなあとは思うが、内張だけは気持ちよくねられる手触りに描いてみた。


ところで、真紅のことはドイツ語で「Reiner Rubin」と表記されている。アニメの方のタイトルでもあるが、これは英語にすると「Pure Ruby」である。この訳はちょっと気にいっている。




















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