fantasma 狐が人に化ける。
きらめくような、一瞬の奇跡の出発。
(2000.10.27 fri)
消えゆくものを愛する苦しみ
消えゆくものを愛する苦しみ。
どんどん日常的な作業能力を失い、言葉や感情までも減退して行き、子供のようになってしまう真琴。
祐一が、真琴の世話を焼く場面が、後半増えていく。
沈まない、大っぴらに悲しまないということは、決して、死んでしまった人のことを、忘れることで得られる境地ではない。 残された者は、その人のことを思い出さなければならない。
そうできれば、笑って、その人を語れるようになる。
祐一には、たぶんそれが出来たのだろう。 それは、とても辛い作業だったかもしれないけれど。
真琴シナリオで泣いたのは、秋子さんが言葉を詰まらせて後ろを向くときと、真琴がベールを被るシーンだ。ベールの絵は、あんまりに綺麗で泣けてしまった。 だが、実際の所、自分が、真琴の視点に立とうとしていたからだろうか、真琴シナリオは、それほど泣けなかった。
ラストの解釈 美汐と祐一の会話、そして、ぴろとともに丘で健やかに眠る真琴の絵に音楽が重なり、真琴シナリオは終わる。 このラストの解釈にも諸説紛々である。
真琴が家を出たとき、彼女の部屋にちらばる割り箸を、祐一が発見するシーンがある。
それを知っているのは、祐一だけだと思われがちだが、実はもう一人、真琴と常に行動をともにしているぴろが、それを知っている。これが、ラスト解釈の鍵だ。
「なぜ真琴が×××を持っていたのか。なぜいつも××に×××××いたのか、まさか、××が真琴の×××××で、×××に××××するために××××××などと誰が想像できようか」 トップシークレットなので、伏せ字らしい。×マークはひらがな一文字だそうである。
「なぜ真琴が「さいふ」を持っていたのか。なぜいつも「ぴろ」に「なつかれて」いたのか、まさか、「ぴろ」が真琴の「おにいさん(せわがかり、おとうさん、などでも可)」で、「なかま」に「そうだん」するために「いなくなった」などと誰が想像できようか」 と、こんな感じだと思う。 美汐が最後に、冗談めかして言うラストのセリフにも、呼応している。 真琴が起こした不完全な奇跡。他の全てを捨ててまで執着し得られた、しかし歪んだ奇跡。その心情を知った仲間が、彼女に「完全な奇跡」をもたらしたのかもしれない。
ストーリー自体は、最後のグラフィックが無くとも十分に完結しているので、蛇足と言えば蛇足である。
製作環境:PowerMac G4 450・WACOM FAVO・Painter4.0・PhotoDeluxe1.0 真琴の正体が狐であったことを知ってからは、ツインテールを止めたリボンが、「耳」に見えたものである。
服を描くのは難しいものである。
この真琴には、乳首が描かれていない。
|