ドラマ

drama

(2000.06.06 tue)





「ハーメルンのバイオリン弾き」も佳境に入って久しい。
今回は、イラストはおまけ程度に、現在「ハーメルンのバイオリン弾き」について思っていることを、素直に書きたいと思う。

かつて原作を愛するあまり、それに対する悪い評価や、原作者への批判などは、ファンから目の敵にされてきた時代があった。

しかし、さすがに最近は、多くのファンが原作から離れつつあるのを感じる。
ストーリーの破綻、キャラクターの性格が、異常に変調している点、あるいは絵の変化などその理由は多々あるだろう。
自分もすでに、コミックスは立ち読み程度で購入していないし、過去(15巻あたりまで)はともかく、現在進行中のハーメルンに、それほど魅力は感じていない。

そうなってみて最近、「自分にとって、ハーメルンはこうあって欲しかった」という、いわば妄想を交えた批判が出てきた。それをまとめてみようと思うのが、今回の内容である。

ただ、ここで語られる内容は、不愉快な点も多くあると思われる。
この内容は、

あくまで個人の好みであること、
ドラマとして面白くあって欲しい、というやや客観的で冷めた見方であること、
ついでに、原作において、リュートが昇天した回を最新情報として考察を進めていること、
過去に書いたメモの羅列なので、読むに苦しい箇所があること、
たぶん一気に読むと、かなり辛いであろうこと、
ところどころ文体が変わっている(突如、日記口調になるなど)ので、抵抗を感じるであろうこと、

をお断りしておく。


目 次

「ハーメルンのバイオリン弾き」の私的なツボ

「ハーメルンのバイオリン弾き」への私的な不満

こうあってほしかった「ハーメルンのバイオリン弾き」

 リュート物語と彼の復活

 リュートの孤独

 パンドラ参戦説と反魂の法

 復活の価値

 剣技の国再興という使命を帯びた王子・トロン

 ホルン昇天と新女王の誕生

 勇者ハーメル

 大魔王の秘密

 オーボウが語るパンドラとケストラーの物語

 母と子、兄と妹

 ヴォーカル研究

ヴォーカルを中心としたエピソードから、ライエルとサイザーの物語へ

 ヴォーカルによる「反魂の法」の意味

 サイザーの敗北感

 サイザーの救い

 ライエルの死

 ハッピーエンド

 長すぎた物語


「ハーメルンのバイオリン弾き」の私的なツボ

自分が「ハーメルンのバイオリン弾き」に対して、魅力的に思うところはたくさんある。
まあ、詳しいところは、読者様方は御存知だと思うので省くが、最初に驚いたのは、ハーメルの戦い方であった。そしてトロンの父母を背負った戦い、ホルンの、隠されていた母の愛、リュートの悲劇、そして第二次スフォルツェンド大戦時のあの盛り上がりと、あらゆるタイミングで織り込まれ続けるギャグ。このあたりで、確実にファンになった。ところで当時最高に気に入っていたギャグは「土ン中ブルース」である。

次いで、本格的にのめり込む要素となったのが、サイザーの存在であった。
思えばスラーの軍勢を滅ぼした後、朝焼けに向かって髪を切り、無言の手向けとしたときの、涙を流さずに泣く、あの表情から、はまったと言えよう。
語れない真実である。誰にも明かすことなく、恨みと呪詛を受けながらも一人で戦う決意と心情である。この宿命を、まだうら若いサイザーが一人で背負っているのだ。こういうのに、私は弱かった。
サイザーに対して思った感情は、その事情と、母を求める健気で孤独な魂への同情であったかもしれない。

やや迷走気味な初期の物語、スフォルツェンド大戦編、サイザー編と終わって、ハーメルの過去の物語を軸にした、迫害の勇者編が始まる。(以上、すべてネーミングは勝手につけた)

ここで私にとっての大スター、パンドラ様のお出ましである。
「愛」とか「友情」とか「正義」とか「信頼」などに対する、一連の、あのリアクションである。
パンドラ様、最高である。
そして、自分たち親子を迫害するものを愛する戦い。彼らのために、それでも命を懸けて戦う、魔王と交わり、堕落したとはいえ聖女の姿である。そして裏切りと無念。ベースによる永遠の氷縛。

回想編を土台にし、はじめて知らされた悲劇的な背景を持つハーメルと、その全てを受け止める決意をしたフルートとの、わずか数秒のロマンス。
ハーメルがフルートの胸を、その爪でぶち抜いたあたりで単行本が終わった時には(初読みのときの刊行数は15巻までだった)、続きが知りたくて、本当にヤキモキしたものだった。

ここまでの展開は、先が読める単純なストーリーであったかも知れないが、見事に面白いドラマであった。
ここまでであれば、私は、この作品を、かなりの人数にすすめてきた。

「ハーメルンのバイオリン弾き」への私的な不満

だがこれが、15巻あたり、原作がアニメ化する話が出た頃から、おかしくなった。
ヴォーカル出現のころ、すでに渡辺道明氏のストーリーテリングは、おかしくなっていたのだろう。
以後のエピソードには、その内容、細かいギャグ、展開、セリフ回しから、絵においてすらも不満に感じる点が多かった。

ヴォーカル編が終わった今になって、ほとんど意味がなかったといえる、ヴォーカルによるサイザーへの過剰なまでの暴力。
同じ事が何度も繰り返されるストーリー展開。 たとえばブリュンヒルデの感動的な死に様と、ほとんど同じ展開で繰り返された、オカリナの「生きてください」というメッセージ。二度もやる必要はないだろうし、両方ともの重要性がぼやけてしまったように感じる。
オル・ゴールが仕掛ける死霊を使った幻惑、サイザーの「雪」の回想も、くどいほど繰り返された。
単行本ではなおされたが、スラー聖鬼軍のギャグパートやリュートと動物の絡みなど、連載時には更にしつこいほどであった。

あれほどしっかり描けていたはずのキャラクターが、現在まるで立っていないことも気になる。ギャグなどで話を持っていくために、人物が「動かされている」ように見えるのだ。
熱心なファンなら「この人はこんなことしない!」と思うだろう。
コルネットを自らの手で殺めたクラーリイが、ふざけた涙を流して「てへへ」と笑うとか、あのリュートが「ファンキーな王子」というギャグのためだけに、遊び半分でスフォルツェンドの兵士を召還獣に喰わせるなど。最近だとライエルの邪推なども噴飯ものだ。(これを見て、いよいよ見限った感もある)

その流れで、ハーメルの勇者としての逸脱が挙げられる。かつて外道勇者だったハーメルが、突如、真の勇者としての道に目覚めたが、とたんにキャラクターが不鮮明になった。最近は何を考えているのかも分からない。

最終決戦あたりで、突然ふってわいたシコードやサックスなどの新キャラクター(しかも出た死んだの終わり方だし)など10年やって来て、最期に何の伏線もない展開もある。この節操のなさを、編集は何とも思わないのだろうか。

しかし、どんなに不満があっても、私はこの物語が好きである。
そのいらだちから、様々なアウトサイドストーリーや「こうあってほしかった」というif物語を考えたものだ。


こうあってほしかった「ハーメルンのバイオリン弾き」

 リュート物語と彼の復活

私のリュート観は、テレビ版の方が先に語られたこともあって、そちらに準じて考えられることが多かった。
そのときの、リュートに対するイメージは、こうである。

テレビ最終話、よみがえったリュートを見て、クラーリイがその名をつぶやく。その声音、眼差しには、彼にとっての伝説の英雄にまみえたという感動・・・というより、恐ろしい実力者への畏怖が込められているように思えた。

リュートは大神官時代、かなり厳しい政治的行動をしていたのではないだろうか。
慈母を中心とした国家という対面上、外面はやさしく、誰からも愛されるようなパフォーマンスをするが(それはもちろん彼の本性としての一面だろうけれど)しかし、こと国防に関しては、一切のミスを許さない厳しい為政者だったのではないか。それこそ神官や国内の政治家から、もっとも身親な恐怖の実体として思われるほど。
クラーリイも大神官の位置を拝命するとき、リュートの数々の政治的伝説を聞かされたのだろう。
かなり厳しい、それこそベ−スなみに恐るべき制裁などを執行する人物だったのだろうと、私は思う。

父性が存在しない場合、失敗や怠惰を叱責する存在が、女王とは別に必要になる。
それはリュートの役目だ。そして慈母たるホルンが、肩をおとした失敗者をフォローする、これで国内の政治的な力が保たれていたのだろう。
ホルンへの思慕と忠誠、そしてリュートへの恐怖から来る、厳密なる国務の遂行。これでスフォルツェンドは運営されていたと考える。

ところで、原作に登場したスフォルツェンド公国国王だが、彼は歴史の表舞台には必要ない。原作でも、ただギャグと言い訳のために出てきただけの人物である。このことは後にまた語ろう。

テレビ版での、あのホルン様の厳しさ、無くなった「微笑み」。
それは15年前から、リュートのやってきた為政者としての側面をも、ホルンが負わなければならなくなったからだろう。戦力としてのクラーリイ、片腕としてのパーカスはいる。しかし、その若さと風貌の幼さから、だれもそうとは考えなかったであろう、スフォルツェンドの「父」であったリュートの穴をうめる存在は、さすがにいなかった。
「16年、長かった・・・」つぶやくリュートの気持ちは、自身の責まで母に負わせてしまったことを悔やんでのことでもあったのだろう。
以上はテレビ版のリュートを見ていて、ベースにとっつかまる前の姿を想像して考えたことであった。

上述の内容は、以前にある掲示板に寄せたリュート観である。
私は、「ハーメルンのバイオリン弾き」の、テレビ版の方が、スフォルツェンドという国家の描写を、立体的にこなしていると思う。これに比べて、原作の薄っぺらなこと。
悲劇の背景には、せめてテレビ版のような、重厚な世界観が欲しかった。
第一次スフォルツェンド大戦は英雄による決戦ではなく国家的な戦争として描かれるべきであったとおもう。
そしてリュートもまた、為政者として描いて欲しかった。

 リュートの孤独

原作版のリュートは、まさに孤軍奮闘である。
ちょっと信じられない話だが、リュートと同じ位置で背後を護るものはおろか、援護さえない。
スフォルツェンドは、ただリュートを戦わせているだけだった。最強精鋭部隊などただやられただけ。10万もの敵軍に囲まれたときすら、見てるだけである。
少なくとも、リュートの視点からはそうだ。
リュートには味方などいない。ただ護りたいものがあるだけ。ただついてくるだけの暢気な国民がいるだけ。放っておくと、ろくな抵抗もできず野犬に喰われてしまう羊が、何百万匹もいるだけ。それを一人で護る羊飼いがいるだけ。
「すごいぞ、リュート王子!」「リュート王子バンザイ!」
羊は叫ぶ。

これを見て思った。
リュートは、孤独で、あわれで、みじめな男だ。
もちろんスフォルツェンドの兵士も戦いはしただろう。だが、リュートとの圧倒的な実力差のため、彼の目には、役に立つようには見えない。彼らはあまりにも脆弱で、ともに戦ってくれることを要求することが出来ない。
異常なほど突出した戦闘能力ゆえ、リュートは孤独であった。

フルートを守るために戦い抜いた姿は、感動的であった。
だが、その背後に、彼の孤独が描かれていたら、さらによかったと思う。

同じようなことは「永遠の胸」にも書いたので参考にしてくださると、ありがたい。

 パンドラ参戦説と反魂の法

それにしても疑問なのだが、リュートがベースの操り人形になった、あの後、 スフォルツェンドはどうやって魔族をしりぞけたのだろう。

何もかも15年前にそっくりだ、と言う言葉が示すとおり、あるいはギータが呟いたとおり、魔曲によって最強の力を得た兵士が、迫り来る魔族を撃退し、国を守ったのだろうか。(リュートの身体が目当てなだけにしても、その後は決定的な形勢逆転なのに、魔族が退くことは考えにくい)

ギータの言に「魔曲」という言葉がある。第二次ではハーメルが魔曲を奏でたが、もしかすると第一次では、パンドラが密かに参戦していたのかも知れない。
接点がなかったスフォルツェンドとパンドラが、ここで結びつく、というのも、物語として面白いと思うがどうか。

さらに疑問である。
ベースが己の魂を分けてリュートの身体に飲み込ませた例のシーンは、単に背徳的な行為の描写と言うよりは、いささかエロティックに描かれていたような気がする。
これについての解釈は、これも後に記そう。

 復活の価値

リュート復活を待ちわびる声が多かったが、原作連載分において、一瞬の復活の後、リュートは昇天した。
ベースを倒し、リュートを目覚めさせる使命は、やはりクラーリーにあったと思う。そういう意味では、展開として悪くはない。
ただ、手も足も失ってしまって、なお生きているクラーリーは、今後どうなるのだろう。心配である。

リュートの立場になってみると、しかし心残りがある。
まず、リュート自身が、具体的に何の贖罪もできていないことだ。苦しんだことを罰ととらえるのも解釈だが、これでは死んでも死にきれないまい。

理想を言えば、あらたに聖杯にされてしまったフルートを救うため、リュートとして戦う、という内容が欲しかった。まあ、結果的にはそうなったが、盛り上がりに欠けると思うのだ。

そして、最期には、ケストラー攻略の鍵を残すべきだろう。
ハッキリ言って、ケストラーの強さは度が外れていて、逆にピンとこない。いったいどうやって倒すというのか。
乗り込むことはできたが、ケストラーを倒す具体的な策など、何もないはずなのだ。このまま行ったら全員、エサになるだけである。

それが、リュートによって突破口がもたらされたのなら、それがベースとして魔族の中心にあったが故に知り得た秘密であり、弱点であり、突破口であったなら、リュートの16年も、これによって報われようというものだ。

何にせよ、リュートの魂は昇華した。

リュートばかりが長くなってしまったが、各キャラクターについても、思うところを書いていこう。

 剣技の国再興という使命を帯びた王子・トロン

トロンの身につけている剣技は、ダル・セ−ニョにいた少年(というかほとんど幼年)時代に、お遊びのような訓練で身につけたものである。それでもシーザースラッシュなどで戦えるのが、不思議なくらいだ。

武器格闘モノの王道としては、やはり師匠についての剣技の修行というイベントが、ぜひ欲しい。
多少の実戦はくぐっているが、しょせん彼の修練は、その程度である。かつて、第二次スフォルツェンド大戦時に、魔界一の剣客と言われたギータと対決し、思いっきり負けた時から、どれほどの成長があると言うのだろう。

だからこそ、そして最後の決戦を前に、自分たちの力でケストラーを倒せるのか、と疑問を抱く気持ちがあるのならなお、彼は一度、パーティーを離れて、山に籠もる必要があったと思う。

できれば、ダル・セーニョでも伝説とされたほどの剣聖が隠遁している山とかで、その人物から教えを受け、新必殺技を身につけて、男らしくなってから参戦して欲しいものだ。

これがないと、ギータ攻略がもりあがらない。

さらに盛り上がりを期待するなら、その修行期間にコルネットと恋仲になると言うのも、いいぞ。
トロンの戦闘動機にもなるし、ギャグもかなり期待できる。
コルネットは聖母殺人伝説あたりからロクな出番がなく、ただ、流木に引っかかってプカプカ浮いているだけなど、もったいなさ過ぎるというものだ。

 ホルン昇天と新女王の誕生

ホルンの急激な老化は、最期のカタルシスのための演出であったかもしれないが、私には、フルートへの、摂理的な使命の移行の現れと感じた。

スフォルツェンドの王族は長命であるとされるが、それはその使命によって生かされているように思う。
時空なんとか門の大魔法を、母娘が完全に一体化して成し遂げたとき、ホルンの使命は、完全にフルートに移った。
このときからフルートは王女ではなく、女王である。女王としての位置と使命を持って、ケストラーに向かっていくのだ。

すなわち彼女は人類の母であり、また大魔王の後継者の恋人として、ケストラーの前に立つ。
かつてフルートはまだ娘だった。しかし今は、位置として母である。
彼女こそが、悪魔の子として生まれてしまったハーメルを、人間として産みかえることができると思う。

これこそが、ハーメルの未来にある宿命的悲劇を、唯一転換しうる可能性だと思うがどうだろう。

彼は、この決戦が人間側の勝利で終わったとしても、しょせん魔族である。
フルートと結ばれることは、現実的にものすごく無理があるし、それ以前にケストラーの息子であるが故に、危険視されるだろう。

スフォルツェンドの女王ならば、大神官か、誰かと結婚する、あるいは処女王として生涯純潔を守り、国と結婚するというのが筋であろうが、ハーメルが人間として生まれ変わる可能性が実現すれば、事態は変わる。

フルートが、御都合主義的に夢みた、ハーメルが天使になって現れるビジョンも、無理なくつながるというものだ。

 勇者ハーメル

ハーメルのことは、正直わからない。
原作においてハーメルは、外道であってこそ、ギャグも冴え、ペースもあったものだと思う。
「真の勇者」になってしまってから、作者もハーメルを描きにくそうで、急にギャグも冴えなくなった。

どう動かしていいか分からない感じが随所にあり、行き当たりばったりで始めてしまった展開のようにも見える。牛にまたがっての復活のあたり、かなり苦しそうだ。

誰でも考えることだが、ハーメルは、やはり最後の最後に勇者らしい正義の心を見せる、といった展開が感動的で良いと思う。
しかし、原作では、いいひとになってしまった。意外性からくる感動を棒にふってまで、物語中盤に、真の勇者に仕立て上げる必要はあったのだろうか。

TV版の監督さんが「ハーメルはギャグ以外ではほとんどしゃべらないので、キャラクターを掴むのにすごく苦労した」というようなことを雑誌のインタビューで言っておられたようだが、つまりそれだけ、原作のハーメルのキャラクターには「ギャグパート=外道」の占めるウェイトが大きいということである。このことを引用しなくとも明らかであるが。

TV版の場合は、ハーメルの性格中でギャグパートに隠されてる部分を純粋抽出するという明確な目的が感じられた。
実際に成功してると思うが(ハーメルはTVアニメ版でいちばん原作に近いキャラのひとりだという意見もあり)原作の場合、いったい何を目的として「ギャグパート的性格=外道」を消したのか、どうにも理解できない。

それに替わるような新たな性格付けが、どうも感じられない。「真の勇者」というのは、位置であり「性格」ではない。少なくとも今のハーメルのキャラクターには反映していないと言えよう。

ハーメルが外道でなくなった時点で、原作の持つ特殊性が明らかに一つ消えた。
原作が持つインパクトのひとつは「勇者=人格者」という等式を破壊したところにあったが、「真の勇者=いい人」という所に落ち着いてしまった現状は、結局それを自己否定していると思われる。

ところでハーメルの持つ課題は、なんと言っても、父ケストラーとの対決だ。

物語的には、ケストラーが死ぬか、あるいは両方が死ぬだろう。ハーメルがケストラーの位置に就いてしまう、という悲劇も考えられるし、相打ちでハーメルは行方不明、フルートは、ハーメルの復活を信じて待ち続ける・・・というのもパターンだ。(余談だが、テレビ版の決着は、本当に素晴らしかった。難解ともいわれるが、意味が理解できた瞬間に、感動と侘びしさが来る)

ところで、ほとんど期待できないので書いてしまうが、私は、父殺しのドラマを、ここに盛り込んで欲しかった。
ハーメルが父を、息子としてどう思っているのか、まあ、ケストラーの姿を見た時のあの年齢ではどうもこうもないが、現在の心情も、なにも描かれていないので、このままではドラマにもならないと思う。
父殺しは、いくらでもドラマになりうるというのに、しかも最期の最期に訪れる戦いだというのに、これではもったいない。

加えて対決のとき、どう戦いが展開していくのか、ということも気になる。
ライエルもサイザーも、クラーリーも、別行動をとっており、恐らくはトロンもギータ戦においてハーメルから離れる。

ケストラーの所へ向かうハーメル、そして追うフルート。軍王はすでに一人も残っておらず、ケストラーを交えた三人で、決着がつくことになるだろう。
全人類を代表するフルートをケストラーがあやつり、ハーメルと戦わせる、というのがモロな展開だ。
大魔王と勇者が、象徴的な人類であるフルートを、いかに奪い合うか、という戦いである。
しかし、これは初期にライエルがやってるし、ここまで来ていまさらである。

何にしても、最期はぜひ魔曲対決にしてほしい。
破壊力による対決では、物語の意味そのものが無くなってしまうし、それに屈しない人類を描いてきた以上、最期は人の心における戦いである。
人の心において、善か悪か、どちらが勝つか。やはりフルートの心が、その舞台になるかもしれない。

しかし、パーティーの内、最期はハーメルとフルートだけが残る、という展開なら、ケストラーのもとにたどり着く際に、仲間がどんどん死んでいくというのが感動的で良いとおもうのだが、どうか。
ハーメルとフルートを行かせるために、犠牲になっていく仲間たち。とくにサイザーとライエルが死んだら、かなり感動的になる。
しかしこんなことを書いたら、お叱りのメールが来そうだ。でも書く。詳しくは、サイザーとライエルの話で。

 大魔王の秘密

秘密も何も、ほとんど謎なのだが、ケストラーの存在というのは、そもそも何なのだろう。
キリスト教の背景があるようなないような(今となっては、ほとんど皆無な)世界なので、サタンとかルシファーではあるまい。

だが、ストーリー中で、小出しにすらされていないのだから、たいした内容はないと思う。
倒すべき相手の心情などが分かっていないと、単なる大昔のRPGみたいになってしまい、クリア以外の感動も糞もないので、これは是非やって欲しかった。
パンドラの過去編でも、純粋悪の魔王でしかなく、倒すべき対象としては、いささかドラマ性に欠ける。

魔族とは、神とは、そもそも、この物語の起源であるケストラー誕生秘話が欲しい。ただ存在しているだけの魔王では・・・。

ふつうの人間であったケストラー。しかし巨大な魔の力に翻弄された、というテレビ版のような展開であれば、父殺しも、ドラマになろう。

 オーボウが語るパンドラとケストラーの物語

なんというか、あらすじでも感動的な良い話として語られているが、オーボウの、この「格好悪さ」を、作者は分かっているのだろうか。
掲示板などで、あのオーボウを「かっこいい」と評価するのを、私は不思議に思う。

パンドラは、オーボウの命の恩人であり、安らぎを与えてくれた少女(当時)であり、娘までいる男性が想いを寄せた女性である。
それが、ある日とつぜんに自分の親玉であるケストラーに目を付けられ、だまされて結婚である。
目の前で、それが行われていても、オーボウは何もできなかった。

結婚し、子供が産まれる。
その過程において、オーボウが何を見、何を聴いてきたか。想い人が、だまされて犯されて、子供まで産んで・・・。
その一部始終を、何年もの間、オーボウは見ていたのだ。

これは惨めである。
そして、ついにパンドラが殺されるときになって、やっと立ち上がる。
オーボウにしてみれば、もはや悔やんでも悔やみ切れまい。
この物語は、けっして感動的ではないと思う。

はじめて明かされるケストラーの過去だが、このエピソード事態、なんというか整理のための物語に過ぎないような気がする。
事情の解説と、ハーメルの父殺しの正当化のために位置づけられていると言えよう。

ケストラーはとにかく悪、という点が、あまりに単純に描かれているし、一方で、パンドラが、なぜケストラーと結婚したのかが、もうあまりに薄い。
パンドラの、ベース戦での聖女ぶりが先に描かれている以上、漫画的にも「魔力で騙した」とかいう理屈が、通用する人物ではないだろうに。

これも、語りで放送一話分を奪った、テレビ版の方が、はるかに感動的であり、説得力がある。

 母と子、兄と妹

「ハーメルンのバイオリン弾き」における人間関係で、もっとも感動的に描かれているテーマが「母と子」である。
だが、逆に「母と子、兄と妹」という人間関係以外が、ほとんど満足に描かれていない異常な作品であるとも言える。
「弟」あるいは「姉」というキャラクターがまったく存在しない一方で、兄妹関係が三組もある。不思議な物語だ。

母と子、兄と妹だけで勝負していた時はよかったが、フルートの父、オカリナの父としてのオーボウ、ケストラーと「父親像」が満足に描けない事が、近年、露呈している。氏の現時点での限界を感じてしまう。道理で父殺しのドラマが盛り込めないわけだ。

「ハーメルンのバイオリン弾き」の世界には、父親として、あるいは男として魅力的な(美少年や美形ではなく)キャラクターがいない。
母性を前面に押し出した物語であったとしても、父性が少しでもちゃんと描かれていれば、物語の厚みが相当に増すであろうに。残念だ。

まったくもって大きな御世話であろうと思うが、作者である渡辺道明氏が、結婚し、家庭をもち、父親の愛を実感するようになったら、氏の描く物語には、大きな厚みが生まれるだろう。

物語に話をもどす。
フルートの父、オカリナの父としてのオーボウ、ケストラー。
この三人が、人格者として、魅力的に描かれる、父の愛の物語が欲しかった。

あのように描かれてしまった以上、フルートの父はどうしようもないが、せめてオーボウだけは、父として描いて欲しかったものである。

オカリナの散華。あのとき最も悲しんだのは、サイザーであったように描かれているが、私はオーボウがどんな心情を通過したのか、とても気になる。
娘を失った父親の心情は、あんなものではない。狂うほど嘆くであろう。
しかし描かれたオーボウの言は、オカリナに対して、まるで他人事である。オーボウの中で整理がついていたのかも知れないが、そうなる前を描いて欲しかった。せめて涙を見たかったと思う。

 ヴォーカル研究

おおきな御世話であろうし、これこそ原作者への暴言であろうと思うが、渡辺道明氏の内に潜むキャラクターは、ある意味でヴォーカルであろうと思う。それが父性への素直な憧憬を、阻害しているように思えてならない。

ヴォーカルとは、渡辺道明氏の内なる分身であり、父親への反抗心、および破壊衝動、さらには冒涜願望の象徴であろうと思われてならない。
ヴォーカル編のエピソードは、氏の分身が、欲望のおもむくまま暴れたにすぎず、まったくの私物であると思う。

ヴォーカルも、突然でてきた謎の人物である。
何のために出てきたのか、さっぱり分からない。彼による最終的なストーリーへの絡みは、めぐりめぐってオカリナが死んだこと、パンドラの箱の鍵を壊したことくらいであろう。(どちらでも、彼でなくともできるだろうに)ヴォーカル関係のエピソードをまるまる削っても、多少の補稿で話は通じると思う。

最初は、ヴォーカルもまた、ケストラーの子供かも知れないと思った。ハーメルたちとは異母兄弟と考える。
そうだったら、単身ケストラーに戦いを挑んだことも頷けるし、ケストラーが、ハーメルやサイザーと同列にその血を欲したのも、理解できる。
ヴォーカルのハーメルに対する敵愾心も、あの力比べも、まるで恨みをもった兄弟の喧嘩だ。

ヴォーカルを中心としたエピソードから、ライエルとサイザーの物語へ

ハーメルの過去とフルートの包容が描かれた15巻から、現在進行している最終決戦までの間は、(リュート物語を除くと)やはりライエルとサイザーの物語であるべきだろう。

トロンのサイザーへのわだかまりを解く部分や、オカリナの母性も内容としては盛り込むべきだが、メインはライサイ二人のロマンスである。これに実際にはヴォーカルが大きく絡んでくる。

ところで物語の、実に三分の一ちかくに影響を占めているヴォーカルである。本心としては削ってほしい所だが、これを元にすればしたで、話も出来るので、ちょっと考えてみたい。

 ヴォーカルによる「反魂の法」の意味

宝石と魂を組み込んだ剣により、パンドラの箱を開放、ケストラーに再び挑むことを目的としたヴォーカルの行動だが、実際に目に留まるのは、サイザーに対する過剰なまでの暴力である。
ブリュンヒルデの命を投じてまで戦うサイザーだが、どうやっても勝つことが出来ず、ついには魂を抜かれ、あげくヴォーカルの分身にされてしまう。

あまり語りたくないが、これについては、ちょっとハードな解釈を持っている。

繰り返しになるが、ヴォーカルはサイザーの魂を奪い、自分の精をわけて、無抵抗の彼女に飲み込ませた。彼女はヴォ−カルの性質を色濃く受け継ぎ、かつての清らかさを失い、妖艶な魔女になってしまった。

何らかの方法で一体となった者同士は、お互いの要素を受け継ぐようになるというが、ヴォーカルとサイザーのこの行為が、性行為でなくて、なんだというのだ。

魂こそそこになかったものの、ヴォーカルは、サイザーの肉体を汚したのである。
象徴的な行為ではあるが、意味するところは、まぎれもなく性行為だ。

吸血鬼による吸血行為は、人間という血統を、ヴァンパイヤのそれに転換してしまうため、性行為であるとされている(行為中の双方の表情は恍惚としている)。
これと同じであり、いわば、魔族の繁殖である。

渡辺道明は、これをわかって描いたのだろうか。
と思っていたら、単行本で久々に復活のあらすじページで、ヴォーカルがひとこと「FACK!」と言っている。
やはり分かってやったことのようだ。

リュートの考察部分でもチラリと触れたが、彼とベースの関係も同様であろう。
魔族による繁殖であり、性的な関係である。

こういうことは、書いていて気分のいいものではない。
ただ、物語中、最も許せない部分であったので、書いてみた。

 サイザーの敗北感

ヴォーカルは、やがて自滅し、サイザーはライエルによって魂を取り戻され、再生を遂げた。
しかし、オカリナを失ったことを乗り越えたとはいえ、サイザーの心には、ヴォーカルに対する拭いがたい恐怖と嫌悪、そして敗北感が残ったに違いない。
これは、彼女自身の手でヴォーカルを倒すか、それに象徴される試練を乗り越える事なしには、決して解消されるものではない。

サイザーは、毎夜ヴォーカルの影におびえ、敗北の瞬間を何度も夢に見るだろう。
大汗をかいて飛び起きたり、恐怖のあまり眠れない夜を過ごしたり、心細い思いをするような描写が欲しいところだが、原作では、何でも無いかのように話が進行している。どうにも信じられない。まるでヴォーカルなど最初からいなかったかのようだ。

いつかのイラストにも書いたが、サイザーがこの敗北感を乗り越えるのに、最適なシチュエーションが、サイザー自身の魂が、その身体に帰ったときであった。
押し出されるようにして、ヴォーカルが埋め込んだ魂は抜けてしまったが、仮にもあのヴォーカルの分身である。簡単に出て行くとも思えない。かなり抵抗するはずだ。
ましてや、その時は生死不明の状態だったので、ヴォーカルが残した魂は、彼自身と言っても良い。
ここで、魂同士の対決となるはずである。
ここで勝利しさえすれば、一連のヴォーカルとの戦いを勝利的に終わることが出来るというものだ。
サイザーには、そのうえで、復活して欲しかった。

 サイザーの救い

聖女と大魔王の血肉を併せ持つサイザーである。
魔族の魂と、サイザー自身の、本来的には天使の属性をもつ魂が、その身体で戦えば、その血肉すらも、真っ二つに裂かれるかもしれない。
「純粋に天使としてのサイザー」対「漆黒の魔女であり、ヴォーカルでもあるサイザー」である。この対決であればなお明確だ。
象徴的な魂同士の戦いでも、もちろんいい。
生き残った方が、サイザーとして新生するのである。
彼女を苦しめ続けてきた大魔王の血肉との、完全なる決別だ。

御都合主義ではあるが、ヴォーカルが存在した理由を、このようなサイザーの救いに求めることもできたと思う。
自身の罪業の、象徴的な清算も含めて。

しかし、サイザーはただ復活しただけのように感じたし、みじめな姿で復活したヴォーカルは、ただハーメルを脅しただけで、消滅してしまった。
連載を追いかけながら、上記のようなドラマをずっと考えていたものとしては、とても物足りない気がする。

 ライエルの死

ドラマと言えば、最終決戦にむけて、もう一つ考えていた話がある。
ヴォーカルを倒すとき、サイザーひとりで対決するのも筋だが、ライエルとともに戦い倒す、という展開もあって良いと思うのだ。

このためには、サイザーが敗北感をもっていること、ライエルがそれを何とかしたいと思っていること、そしてヴォーカルが生きていること、という状況が必要になる。
ヴォーカルが、ハーメルのパーティーの前に姿を現したとき、すでに完全な復活を遂げていれば、その舞台は整ったかも知れない。

このエピソードのポイントは、もちろん二人が、石破ラブラブ天驚拳みたいな「うっひゃーっ」な技でヴォーカルを倒すところであろうが「ヴォーカルが死に際にライエルの命を象徴的に奪う」という後に響く展開を考えている。ヴォーカルによる魔法、呪いの類か。

ライエルにとって、死の宣告である。なんとなく、北斗の拳のレイのような事情である。
そう、私の中で、ライエルには死んでもらう予定だったのだ。
リュート昇天の号での彼の邪推や、それ以前の、いまいち燃え上がらない二人の恋に業を煮やした故の決定であるかもしれない。別に恨みはないのだ。ゆるせ、ライエル。

このネタはまだ細かく考えていないうちに最終決戦に入ってしまったので、材料も詳しく語る内容もないが、ライエルは、時間をかけて、苦しみながら死なざるを得ないような運命、あるいは聴力ないし視力の減退ののち失明というシチュエーションを考えた。

ライエルは、それをサイザーに知らせず、旅を続ける。
彼は、サイザーのために犠牲になったことを、決して後悔はしない。
だが、影で苦しむライエルである。
一方で、サイザーはライエルに、思いを寄せるようになる。 
気がつくと、ライエルをぼーっと見つめているサイザーである。
ドキドキ乙女心(16巻あたりのフルート参照)である。
サイザー、はじめての、恋らしい恋であった。

ここでファイフを出す。
ファイフとの女の戦いは、原作でもやってもらえたので嬉しい限りだが、「もうやだー、ライエルのエッチ!」というセリフには、おいおいあんた誰や、と突っ込んだものである。サイザーの言うセリフではない。すでにサイザーすら満足に動かせない状態の原作だ。

一時期パーティーに加わるファイフが、ライエルの病状を知ってしまう。
安静にというファイフに、ライエルは、サイザーのために生きたいと告げる。
引き下がるファイフ・・・。サイザーに何か憎まれ口を叩いて、さっさと北の都へ向かうファイフ。

ここまでである。
ここから先は考えていない。
ライエルが、いつ、どこで死ぬのか。まったく決めていない。最近になって、考えるのが馬鹿らしくなってきたのだ。

だが、二人の恋が、最高に盛り上がったところで、片方ブチ殺す、というのは、ひとつの王道であり黄金のパターンでもある。これは出来るならやって欲しかった。

死ぬライエル。嘆くサイザー。兄にすがって泣くサイザーが痛ましいであろう。
お決まりのパターンだと、サイザーのお腹にライエルの子供が・・・とかいう流れがあるが、あまりにベタな感じがして、なんだか嫌だ。
ちなみにこっちの流れだと、べつにオカリナが死ぬ必要はないので、ともに最終決戦である。いっそ、このまま進めてみようか。
ライエルの死に、やや自暴自棄のサイザー。しかし、オル・ゴールによって、ライエルの子供を身籠もったことを知る・・・とかなんとかで、生きる決意を・・・。ああ、やっぱり安易。
さらに後日談で、双子を出産とかだとさらに安易であろう。

 ハッピーエンド

長く連載を続けている「ハーメルンのバイオリン弾き」だが、佳境に入って久しい。
次号のギータ戦を終えれば、主だった敵は、すでにケストラーを残すのみである。
最終回まで、あとわずかだ。

ここまで来ると、もう予想も何もない。
キャラクターごとのことは書いたし、あとはパンドラ様がちゃんと復活してくれること、ハーメル・サイザーとの再会が感動的であることを願うのみである。
あとは収束へむかうのみだ。

安易なハッピーエンドは物語の死である。
そういう言葉があった。
ハッピーエンドが悪いわけではない。ただ、名作として、あるいは読者の心の中に、いつまでも衝撃をもって残り続ける物語は、おおよそショッキングなエンディングを迎えていることが多い。

収束の最期がハッピーエンドになるか、悲劇で終わるか。
「ハーメルンのバイオリン弾き」は、どちらでも終わることができると思う。
昔は、ハッピーエンドで終わることを期待していた。
だが、私は、もはや・・・。

 長すぎた物語

私は、もはやこの物語に、たいした期待はしていない。
この物語は、既に死んでいる、とさえ思う。ダラダラと続く後半が、まさにそうだ。
少なくとも私には、15巻までが、生きた「ハーメルンのバイオリン弾き」だった。

私はマンガを書くことができないので、原作者と同列で偉そうなことは言えないが、作品のファンとしては、ここから物語が変調してしまったことが、本当に残念である。

この物語の最大の失敗は、原作者の変調にあったと思う。
15巻までと、それ以降は、原作者が、まるで別人のように思えてならない。
まるで憑き物が落ちたかのように、ギャグは冴えなくなり、ストーリーは方向性とスピード感を無くした。天性の勘で描かれていたリズムが、頭で考えて動かそうとするようになり、勢いをうしなってしまったのだ。

作品を、公的なものから私的なものに、扱いを変えてしまったようにも思える。
作品は迷走し、内容に比べてあまりに長い巻数を重ねることになってしまった。

ここで渡辺氏の変調がなければ・・・。

15巻以降を読む度、いまでもそう思わざるをえない。
ここで描いた物語以上のドラマが生まれたことは、間違いないと思う。



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