バス停のある風景

(finished:2005.10.28)
(upload:2006.11.22)

林隆博氏主催の、オリジナル短編小説サークル「Junk Yard」
(ジャンクヤード出版局)の同人誌シリーズ「Progressive」



その第30号「バス停のある風景(Progressive30)」に寄稿した挿絵。



※2006年11月22日現在、在庫はあります。
興味を持たれた方は、
こちらの Book's Information を参考に
即売会などでお求めください。




(以下、すべての製作環境:PowerMac G4 450・WACOM FAVO・Painter7)






  真冬真氏作品「やみの引くそで」への挿絵  


真琴の手がその手に触れていたのはたった一瞬だった。たった一瞬だったのに、全身の力が、生命力ごと根こそぎ奪われたかのようだった。

あの冷たさは生きてる人間のものではない。

死者の体温だ。




真冬真「やみの引くそで」より・扉絵

 

「誰のこと言ってるの? 旅行してたのは、私たち二人だけだよ?」

その日の晩、貴子が帰った後、何故か気になって真琴は自分の左肩を見た。真琴が見たのは、記憶どおり、痣どころか傷一つない綺麗な白い肩だった。


真冬真「やみの引くそで」より・挿絵

 






  白霧草作品「フラットライン・トライアングル」への挿絵  

「……ホント、格好つけたがるよね」

「五月蝿い」



白霧草「フラットライン・トライアングル」
より・扉絵

 

「私はどうすればいいんですか!」

「……名前もわからなかったけど、ずっと憧れてたんです。いつか会えたらお礼を言おうって、なのにいきなりその人がいて、しかも隣に座ってきて、声かけなきゃって思って、なのにどうしてどっちも、ふたりとも諦めなきゃいけなくなるんですか!」

純はもう一度声を張り上げて、それから、燃えるような目で「二人」の顔を睨めつけた。

和人の中の混乱は、この上ないほど極まっていた。




白霧草「フラットライン・トライアングル」
より・挿絵

 






  あとがき  




(左:藤沢純(すみ):「フラットライン・トライアングル」

本編で大自爆の後に放置という救いのないエンディングを迎えた純。しかし業の深い自爆少女ってなんかいいですな。祐歌は扉絵にいいカットがあったので、あとがきには純を。


(右:上田真琴:「やみの引くそで」

「眼鏡っ娘」でありながらそれが描けなかったストレスをこちらで発散。挿絵は驚愕の表情でしたが、あとがきには、普段はこんな風に落ち着いた人物だと思われる真琴を。







  宣 伝  



担当した絵のみで作成した宣伝画像。
二作品に挿絵を描いていることを明記してないのと、真ん中の祐歌ととなりの真琴がやや似てることもあって、無闇にありもしない関係を想像させることを狙ってみた。








二次創作小説の挿絵を描くことは、これまでにも幾度かあった。

そこで求められるのは、
・文章で描かれているシチュエーションの描画。
・もしくは、具体的には描かれていないがその背景に存在したであろう絵
・または人物や事情の関係を暗示するような画
を、本文の長さに対してできるだけ偏らない配置で(つまり前半ないし後半に何枚も連続したりしないように)挿せるように描くことだったと思う。

二次創作の場合、ビジュアルの基本設定は、モトネタである一次創作がすでに描いてくれているし、二次創作をいきなり読むひとは少なく、ほとんど予備知識をもってくれているはずなので考えなくていい。強いて言えば、一次で省略されているディティールの解像度を上げるとか、それくらいだろう。

だが、オリジナル小説は違う。
特にテキストライターさんが、たとえば髪型などの設定を考えていない場合は、挿絵担当が考えなくてはならない。そういう意味では、二次創作小説の挿絵より、段階的には一次に近く、これが面白い。

小説を何度も読み返し、どういう人物なのかを読み解く。ビジュアル設定が文中でされていない場合は、キャラの内面しか分からない。そういう内面を暗示もしくは象徴するビジュアルをわざとらしくならない(本が好き、という設定を見た途端に眼鏡・三つ編み・そばかす・おでこ・たれ目・病弱とか記号だけで味付けしようとしない)よう制限を設けながら、まずパッと浮かんだイメージを形にしてみる。このとき、このキャラはあのアニメの誰それに似ているから、それっぽい顔で・・・などと考えると、既に完成していてテレビで動いて喋っているキャラに当然ながら引っ張られてしまうので、これだけは避ける。

そして、浮かんだイメージを、原作者に投げつけてみる。
今回おもしろかったのは、「フラットライン・トライアングル」の方で、祐歌と純のビジュアルが、原作者の想像とは反対だったことだ。絵描きのイメージでは、祐歌の方がキリッとした表情のショートカットで、純はロングヘアの大人しい少女だった。しかし、指摘をもとに大枠を描き直し、読み返してみると、なるほど逆の方が合致する。
表面にでているテキストを数回読んでみただけの絵描きより、表現されている分の背後にある膨大なオリジナルソースをもっている原作者の方が、キャラを掴んでいるのは当然なのだ。

おおまかなビジュアルが決まれば、あとは二次創作小説の挿絵と同じだ。冒頭で書いたことに気をつけて絵というか情景を考える。
このとき、オリジナルでも二次でも、挿絵描きとして気をつけていることがある。小説を読んでいて「これは知らないひとには分かりにくいかな」と思う状態やアイテムがあったら、できるだけそれを描いてみせることだ。
今回の「やみの引くそで」では、ゴスロリ衣装が途中まで「甘ロリ」という設定で、これが分からなかったため、自分で調べてみて絵にした。ちなみに甘ロリとは、ピンクや黄色などの明るい色を基調に、白レースやフリルなどをあしらったロリータファッションだと判断する(厳密にどうだという定義はないらしい)。対して黒や紺などゴシック調をベースにしているのがゴスロリだ。これは近年よく見るのでわかりやすいと思う。テキストは最終的にはゴスロリに落ち着いた。

あとは、その情景を表現するための構図や細部の資料を検討し、作中の空気感をだせる処理方法を試行錯誤し、同じ本の中で複数の作品に絵を掲載する場合はタッチや表現の文法を変えてみる(「やみの引くそで」では黒を多用(ホントは白黒とカケアミだけで描きたかった)。一方「フラットライン・トライアングル」では黒のベタを使用せずグレートーンのみ)などして絵は完成だ。

絵を描いてる途中で、小説の方になおしが入って細部を変更せざるを得なくなったりすることもある。このへんは直すなり、折り合いをつけるなりして着地。入稿となる。


挿絵が存在する意味は、立ち読み段階でもざっと内容への興味を刺激させること、分かりにくいビジュアルを想像する助けになること、そしてもちろん読書力酷使を軽減する息抜き的な意味もある。

だが、ライトノベルや児童文学であればともかく、普通の文庫本・文芸書などの多くには挿絵はない。
作家は読者の読解力と知識にある程度たよった上で、自分の文筆力だけで「なにがおきているか」を伝えなければならない。作家は、挿絵に頼って文章を書くことはしないだろう。もちろんそれが前提だ。自力で伝達できないテキストは、少なくともそれ単体で残りはしない。
そういう意味では、挿絵というのは、突き詰めていけば必要ないものなのかもしれない。ただのアイキャッチャーでしかないのかもしれない。

そういう意味では、例えや説明が上手い小説には挿絵がいらない。極端な話、ビジュアルが想像できなくても大丈夫なくらいにその存在感が表現できていれば問題ないのかもしれない。
たとえば、秋山瑞人の小説には、挿絵を挿む余地がない。あれくらいすごい表現力の前には、絵の力は無力だ。EGコンバットのプラネリアムや双脚砲台のビジュアルは、後によしみる画で拝見したが、別に見なくても充分想像できていた。


小説は、究極的には、挿絵など必要ない芸術なのだと思う。


だが、読み進めていくとき、スムーズに作品世界にはいっていこうとするとき、かすかな躓(つまづ)きとなる見えない石を照らしてあげること。それが挿絵の仕事なのだと思う。人間はひとつの説明のなかに、いくつかの知らない要素があると、最終的にその説明を理解できなくなるときがある。道案内を受けるとき、知らない交差点や知らない目印がいくつかあると(5個以上の未知の存在を、人間は同時に想定できないとも聞く)、言ってることは文法的に理解できても、全体像がまるで把握できないのと同じだ。「これ、なに?」と思ってしまった想像できない概念やビジュアルが、いつまでもひっかかって作品全体が大枠でしか理解できなくなること。それは結構あると思う。作品世界に没入して精神を遊ばせたいとき、挿絵というものが、そのひっかかりを取り除く、その助けになれば幸いだと思う。

挿絵というのは、そういう位置にあるのだと私は思う。















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