ロボットのココロ

duplicated individual

(2001.06.27 wed)





2001年6月11日。
masterpieceさんと、映画「メトロポリス」を見に行った。
鑑賞後、二人でロボットについて語らった。
その内容を、いささか天野の主観に傾いてはいるが、記録しておこうと思う。

文章だけでは味気ないので、イラストをつけてみた。
御存知の方も多いであろう。トゥーハートのマルチである。
本文は「人間そっくりのロボット」が主題となっているので、彼女を描いてみた。


ロボットに求めたイメージ

「ロボット」という言葉は、カレルチャペックによる造語だ。チェコの言葉では「労働」というような意味があるという。
人間の代わりに使役される労働力としてのロボット。
現実に存在するものとしては、自動車工場などで使われているアームなどが知られている。

ロボットは、確実に進化を遂げている。
人間の代わりが目的であるなら、進化の帰結は人間そっくりとなることであろう。

映画「メトロポリス」「ヨコハマ買い出し紀行」ほか、人間と区別の出来ないロボット(アンドロイドなど他の呼び方もあるが)の登場は、現実的に可能かどうかはともかく、人間そっくりな存在が現れることを、我々に夢想させた。

人間そっくりのロボット。
それは外見や仕草という生やさしい基準ではなく、自律性や自由意志をもって行動し、感じ、憶え、表現する、言ってしまえば「生きている魂」と同程度の出力・レスポンスをするものでなければ、我々は納得しない。

多くのアニメ、マンガ、映画、そしてゲームを通じて我々が見させられてきた「人間そっくりのロボット」は、そういうものだったのだ。



近年、二足で歩行する人間型のロボット、P3やアシモが有名になり、昔からアニメや映画の世界にあった「ロボット」のイメージに近づきつつあるが、現在のロボットが、どのような方向性で進化を続ければマルチが買えるのかああいやいや人間そっくりになれるのか、ハード分野は二人とも苦手なので(私はソフトに関してもだが)せめて、その方向性を論じてみた。

技術的に遠い、と書いたが、すでにこの距離感が分からない時代だ。
コンピュータの世界においては、ここ10年でかつての100年はあろうかという進歩が実現しているのだから。


「人間そっくり」であるということ

人間そっくりのロボットがいきなり実現するわけがない。
では、どういう順序で実現していくのだろうか。
人間を最終的存在とすると、そこに至るまでの経路がひとつのルートになるだろう。

存在の出発は、まず原子、そして分子。
これは、わかりやすいところでは水素原子2ヶと酸素原子1ヶが結合すると水が出来るなど、それぞれの特性と、法則性を持っている。

「こういう状況になると、このように反応する」

いわば原子自体が有している、それだけの規則性・プログラムを物理法則に従って繰り返す、単純な存在だ。

プログラムの忠実な実行。現在のロボットは、このレベルだと思う。
その分子が集まり、細胞、組織、器官をつくり、植物、動物、そして人間とレベルが上がる。

人間までの生物の行動は、そのほとんどが本能だ。
生物としての程度に従って、複雑さは飛躍的に増すが、「こういう状況では、こう行動する」という本能の働きが、おおよそ決まっている。

その高度なプログラミングをロジックにし、人工的な生命体(この場合、炭素生命体に限らず、義務を有し、それを実行可能な存在とする)で、それを再現できれば、生きたようなロボットが出来るのではないか。

ただこれは、アイボのようなロボット犬が良い例で、表情や、感情表現のような、肉体的な変化を再現するレベルにすぎない。これは形態反射にすぎず、一見すれば犬の疑似体だが、レベルとしては原子か分子ていどのものだ。
真の意味で自律性を持って存在しているようには思えない。

人間そっくりまでいかなくとも、たとえば犬のそれを再現しようとする場合、「こうなれば、こうする」という外的観察から導き出される法則ではなく「こうであるが故に、こうなれば、こうする」という犬としての根本的な精神構造と行動原理を、まずロジックにしなければならない。


図で言うと「深層意識」のあたりだろうか。
ちなみのこの図は、イメージによる適当なものなので、資料価値はないことをお断りしておく。
同時に、この図に激しく反発する人も多いだろうナーとは思う。
だが、私も便宜上適当に書いているだけなので、仮のものとしてゆるやかに認めて欲しい。

というわけで「本能」以下で、思考が進行して、行動に至ると仮定しよう。






犬が、生物として、どの程度の行動原理をもっているのかは、わからない。

だが、その生物の思考の深さをどこまで理解し、再現できるか。

これが、真に自律性を持ったロボットをつくる上で、必要な条件であると思う。

そのためには、我々の目に映る、行動、変化としてあらわれる現象から、
その根本原理をさぐることが必要である。

困難とは思うが、仮に、犬のレベルまでは、その行動原理の全てを理解、再現できたとしよう。
ちなみに、これは犬のクローンを作った、ということではなく「一から犬の設計図を書き起こし、行動原理なども完璧に組み上げたレベルの人工犬」ということである。「犬」を完全に理解して、犬を造り出した、ということだ。
しかし、ここで人間に応用しようと考えた場合、犬と人との決定的な違いが出る。
人間には「魂」というブラックボックスがあるのだ。

犬に魂が有るとか無いとかいうのは、また別の話になるので割愛するが、生物としての行動原理の、さらに深部にして根本的な部分が、人間には存在する。

魂。本能を凌駕する心の源である。

この最深部だ。

犬のレベルでも、相当に大変だと思うが、魂をふくむ人間の精神の再現は、さらに途方もないだろう。とにかくその複雑さは犬の比ではあるまい。
人間と同レベルのロボットをつくろうと思うのなら、まず「本能」〜「魂」にいたるまでの完全な理解が必要である。

人間を理解できていないものに、人間が作れるものだろうか。

人工犬を作ったとき同様、完璧な「人間」の理解なくては「人工人間」はつくれないのだ。

したがって「人工人間」制作の過程には、人間が理解できる実行プログラムしか反映されない。
人間による、人間の理解が進む程度にしか「人間そっくりのロボット」の完成度は進んで行かないのだろう。

言うなれば、いまは心理学やら宗教学やらを持ち出して、人間の取扱説明書がやっと読めるかどうか、というレベルである。
それを作るというのは、ぜんぜん上のレベルなのだ。

現在では、このように限界を感じる。
たとえロボット開発の機械的な技術が進んでも、肝心の人間心理の理解把握が半端では「人間そっくり」たりえまい。


ブードゥー教で有名なハイチには、ゾンビの話がある。
ゾンビというと、すでに日本では語りきれないくらいの(ほとんどがゲーム会社に作られた)概念があるが、御当地のそれはやや違う。

ある男に特殊な麻薬を処し、一種の催眠状態にする。
そして「お前は死んだのだ、ゾンビになったのだ」と暗示をかける。
これがクスリの力を借りた強烈な固定観念となり、以後、この男は自分は死んでいると確信しつづける。
「ここに穴を掘れ」と命令すれば、いつまでも穴を掘る。腕が折れても堀つづける。肉体が朽ちるまで、ゾンビとなった男は言われるままに働くのだ。

伝聞なので正確ではないと思うが、おおよそこれがゾンビだ。感情が消え失せ、ただ命令を聞くだけのロボトミーのようでもある。

人間の魂レベルまでの理解は、容易ではないだろう。
その手前の、いわば精神の「上澄み」までであれば、可能かも知れない。(もっとも、これも現実的には途方もない難問なのだが)だが、それでできる、簡単な命令を実行するだけのロボットは、しょせんゾンビである。

だが、我々が追求するのは、人間そっくりのロボットだ。
意志があるかのように行動し、話、わらい、行動をともにし、そして人間を理解してくれる、人間のよき助け手であり、同朋だ。

ゾンビではない。

人間心理の探求とその根本原理および、魂の構造の解明。

これは、正直なところ困難だとは思う。
だが、これなくして、人間そっくりのロボットは生まれないだろう。

たとえばコンピュータの中に擬似的な人格プログラムを再現するという「AIが止まらない!」の冒頭みたいな状態でも、この条件は変わらない。
あのマンガの主人公は、なんとアセンブラによって、かの人格プログラムを組んだと言うが、これは「まあ、赤松さんのやることだから・・・」とでも納得するしかないだろう。現実的には、飛躍もいいところだ。ちなみにけっこう好きなんだが、まあそれはそれとして。




ロボットの人権

では次に、先述のように、人間そっくりのロボットを実現させる外的な技術が揃ったとしよう。
さらに、先の命題を全てクリアし、人間そっくりの自由な意志を持ったロボットが生まれたとしよう。
これはすでにSFの世界だが、実現したならば、ここに多くのSFにおいて描かれてきた命題が発生する。

それは

「ロボットに人間と同じ権利を与えられるのか」

「ロボットの人権を尊重できるのか」

ということである。

もし、人間そっくりに作った上で奴隷のように扱うのなら、ロボットの開発は、現在の程度で抑えておくべきかも知れない。人間と同じように様々な感情をもつ存在なら、かつての奴隷時代や、極端な差別に似た悲劇は必ず起きる。

人権をもったロボットを創造するということは、人間が子供を産むことによく似ている。
子供に対して人間は、親としての本能に従い、もしくは、かつて自分が接せられてきたように、その子に接し、愛情を持って育てる。

だがロボットに対してはどうだろう。
開発者に高い志があれば、かれらはあくまでも人間に接するようにロボットを愛するかも知れない。

だが、その技術が一般化され、社会にロボットの存在が浸透しだしたとき、人間は、赤の他人であり、また自分たちが「製造」したロボットを、人間と同じように接することが出来るだろうか。

現在の世界を見渡してみても、小さな事にすら、差別や偏見が存在している。ロボットを人間と同じにあうかう社会の実現は、難しいだろう。

ただ「ヨコハマ買い出し紀行」の世界はこれが実現している。かの世界の住人が、どのような遍歴ののちに、あの境地に立っているのか、非常に興味深い。

人間と同じ心情の回路を持つロボットをつくる。
それは、当然、彼らを人間と同じように扱える、という社会なくしては、悲劇を生むだけだろう。

それゆえに、過度に人間らしいロボットの開発には制動がかかると予想される。
マルチが、結局人間らしさをオミットしたモデルとして量産されたのは、このような理由かも知れない。コストの面により、とはいうが、ディスク一枚でマルチの記憶と感情が蘇るのなら、開発コスト以外のスペックや経費は同じはずだからだ。

だが、このような規制があったとしても、かならずそれを突破し、人間そっくりなロボットを創造するものが現れるだろう。

ロボットを生み出すきっかけの話は、科学者の、死んでしまった子供の代わりであることが多い。キカイダーも、アトムもである。あ〜る・・・は死んでいなかったか。いずれもマッドサイエンティストの妄執がきっかけである。

その
盲目的な突破力で、息子そっくりのロボットが生まれたとしても、それは息子ではない。
たとえ破滅が待っていると解っていても、人間は、妄執にとらわれたとき、少々の技術不足を乗り越え、驚異的な忍耐力と集中力で、愛する者を再創造してしまうだろう。

かならず

「技術的には可能、そして非公認ながら実例もある」

という状態に人類は突入する。

だが、技術が円熟してしまったそのときに、人間の意識、包容力が追いついていなかったら、一人の博士による、一点の突破をきっかけに悲劇的なロボットの歴史が始まってしまうだろう。

「人間そっくりのロボット」開発最終段階での、一番の課題だ。



ここでは、人間と並びうるか、という命題をかかげたが、いまひとつ、人間を超えうるか、という命題もある。

単純に考えて、入力以上の出力はありえない。

人間が人間以上の能力者を作り出すのは、基本的にはナンセンスだ。それこそ外部からの入力(神の干渉か?)でもなければ無理だろう。(ロボットの永遠性については後述)

だが、人間の親は、子が自分を超えることを願う。
親が子を産み想い愛するように、人間がロボットに接するようになれたら、そのときは、あるいは、ロボットは人間を超えるかも知れない。

それは、ロボットが人間を超える、ということを、人間自身が愛情を持って望むことが出来るという、かなり信じがたい境地なのだが。

ところで、これはあくまで心情世界においての、いわば気持ちの問題である。人間を超える、と言ってもどの側面において超えるのか次第だろう。ただ、社会的立場において超えるとなった場合でも、人間はそれを許容できるだろうか。



いずれ、人間そっくりのロボットは出てくるだろう。先述のように、時間こそ必要であろうが、100年や200年、そして1000年というスパンが許されるのなら、技術的には時間の問題だ。

そこで、ちょっと方向性を変えるが、サイボーグと呼ばれる概念がある。
脳だけが人間体で、ボディが機械という状態だ。
事故などで肉体を欠損した場合、その部分をサイバネティックスで補う技術が発展することは、現代でも比較的容易に予測できる。
これが極限まで進むと、脳以外ぜんぶ機械、という純度の高いサイボーグとなる。

そして一方では、人工知能が発達していくだろう。
より人間に近い反応をする、一種のプログラムだ。
人間が語りかけた言葉に対して、何らかの反応をするわけだが、先の

この図ように、本能による形態反射のレベルから、表層意識の模倣へと、どんどん深層を再現していくだろう。

アラン=チューリングが提唱する、通称「チューリング・ゲーム」(コンピュータによる人工知能と、ふつうの人間と、被験者の三人が顔を合わせないでチャットをする。人工知能が人間のフリをして、どこまで被験者をだませるか、人工知能の人間らしさを計る実験)が目下のところの目安だ。

あるとき、この二者が出会うときが来る。

人間の精神を模したプログラムが、サイボーグの中に搭載される。

これが、人間そっくりなロボットの誕生の瞬間であろう。すくなくとも、手順としては、比較的ありそうだ。



ところで、たとえ私がサイボーグになっても、脳が私であるなら、そのサイボーグは、私として見てもらえるだろうと思う。話くらいは天野の言うこととして聞いてもらえるはずだ。

サイボーグの胸にモニターがあって、テキスト形式で会話をするのだろう。いまのチャットと、あんまり代わらない。普段の会話でも(笑)とか(核爆)など使っている人はそういう癖もでる。私なら笑って欲しいところで、さりげなくフォントサイズを大きくしているだろう。

ネットに接続して、チャットの向こうの存在を、我々がいま感じているように、いくら外見が機械的でも、人間脳を持ったサイボーグは、人格を認めてもらえるはずだ。

ならば、ロボットでありながら完璧に人間の精神構造を模すことに成功していれば、人間は彼または彼女を、同朋として認められるかも知れない。
アルファさんや、ココネのように。

もちろん、簡単にはいかないだろう。ただ最もひくい垣根として、そういう可能性もある。




特殊な人間

さて、ここでひとつ、ロボットの特殊性を挙げておきたい。
「人間そっくり」という言葉を濫用したが、当然、その内外の機能においてカスタマイズされたロボットもありうるのだ。

たとえば、容姿がまったく老化しないロボット。これはむしろ当然かも知れない。
どんな状況でも、自分の意見を通さず、何もかもを従容とうけいれる精神構造を持ったロボット。
あるいは何の躊躇もなく、他者を抹殺できるロボットなどなど。

「人間そっくり」という条件で、人間と同じカテゴリー(たとえば「ヒューマノイド」などと呼称する)に所属させてしまった場合、彼らは「特殊な人間」として存在することになる。

人間の疑似体を作り出せる上に、肉体や、その根本的な精神構造にすら干渉が出来るという、冷静に考えるとちょっと恐るべき技術が実現しているという状態だ。

そもそも、人間を完全に複製するのなら、さっさとクローンを作ればいいわけだし、そうでなくても、人間そっくりの人間を、人間は人間になったときから人間らしく産み増やしているわけなのである。

人間そっくりのロボットの存在価値は、むしろ「人間そっくりでありながら、創造者によって特殊な機能が付与させられる」という特殊性にあると思う。

これが実現した場合、現人類は、ロボットに、どのようなカスタマイズを希望するだろう。
あまり想像したくない、さまざまな暴力的性的邪欲が予測されるが、まあそれは「スキズマトリックス」でも読んでもらうとして、ここでは象徴的な二例を挙げてみよう。

メトロポリスを見た後であるせいか、あるいはマルチのイメージがいまだ強烈だからか、あるいは人間が生まれながらにして原罪をはじめ負いきれないほどの罪を背負っているからだろうか、我々は、ロボットに「純粋さ」を求める。

そして、ロボットのイメージとして、揺るぎのない正しさ、融通の利かない正義、法の守護者としての姿を、我々は見る。

まさに絵に描いたようなロボットのイメージだ。
だが、多くのSFで語られ警告されてきたように、現実に「純粋」もしくは「正義」であるロボットに人間が相対した場合、我々はどうするだろう。

間違いなく、強烈な違和感を持つに違いない。
罪がないフリをしている、とか、正義を通そうとする意志、とかそういう人間くさいものではなく、彼らには根本的な罪悪がないのだ。
人間は自身の中にある要素を基準に、対象物を見る。だが、相対する基準が全くない場合、我々は、彼らを認識できないかも知れない。

そして、多くのSFにあるように、純粋に正義であるロボットの前にしたとき、人間は認識とともに、それを壊すだろう。
人間は正義でなく愛で生きているのだから。正義だけを突きつけられて、生きていけるものではない。

そして純粋に罪なる心情を持たないロボットの前から、人間は逃げ出すだろう。人間は罪を負っているのだから。

やはり、ロボットとの共存は難しそうだ。こんな理解しがたいロボットと暮らしていくよりは人間相手の方がよっぽどつき合いやすい。


ここまでロボット開発が進行して、オーバーテクノロジーであると悟ったために、やはり「特化されていない、人間そっくりのロボット」を、人類は求めるのかも知れない。いや、だったら最初から人間だけで事はたるはずだ。

もしくは、一気に、現代の産業用ロボットのレベルまで、後退してしまうことも予測できる。


ロボットの特殊性について、もう一つ。
先述の、経年による容姿の変化の全くないロボットが存在するとしよう。
そのロボットの精神年齢は、どうなるだろうか。

人間は、学習し知識を蓄える一方、人格的な成長、変化がある。
人間そっくりの精神構造を有したロボットが、同じような経緯で年月を進むとして、肉体(それが炭素によるものであるかどうかはともかく)を永遠に維持できるとしたら、100年もすれば、生きている人間の誰よりも長生きな人格は、ロボットだけと言うことになってしまう。人生の先輩ばかりだ。

100才の精神年齢と20代の容姿を併せ持つロボットばかりの世界。

人間は、常に若輩者でありロボットに劣等感をもち、あるいは彼らを尊敬するようになるかもしれない。

ロボットの精神が健やかに成熟し、利他の心を豊かにもつなら、彼らは人間を喜ばせるために存在してくれるかも知れない。
だが、もうそうなると、人間が情けないとかいうレベルを超えている。

永遠性を付与された時点で、ロボットは人間に勝ってしまう。少なくとも時間の戦いにおいては。
永遠性を持った人間と同じ精神構造体が、どのような境地に達するのかなど、想像もできないが、安易に「人生に絶望してロボットが自ら命を絶った」などという結末にすがるのも恥ずかしい。

そうなると、最初から、ロボットを人間に並ぶ存在として創造することは、禁じておくべきではないか。
そういう保守的な声も多いだろう。


そう考えると、これまでの全てを思考停止して、この命題自体に疑問点が回帰する。

人間が、人間そっくりのロボットを創造するということは、そもそも間違っているのだろうか。

ロボット創造のよろこび

もっともな意見だ。

だが我々は、人間そっくりのロボットを創造することにロマンを感じ、そして、それを求めている。
この欲求は何なのだろう。なぜロボットに人格を求めるのだろうか。

広く世界に目を向けると、「人間でない存在」に対する見方は、日本と欧米ではかなり違うことに気がつく。
日本人というのは、とにかく擬人化する民族らしい。

童話を例にしよう。鶴が罠にかかっているのを助けてやれば、その鶴は、人間の姿で恩返しに来る。
欧米では、特殊な例(アンデルセンの「お嫁さんになったネコ」など)を除き、鶴は鶴のままで恩返しに来る。そのネコも、結局ネコとして主人公のもとに帰ってきた。ディズニーも擬人化こそするが、あくまでネズミはネズミのまま、ゾウはゾウのままである。人間に化けはしない。

ゴリラやチンパンジーなどの霊長類の観察についても、日本人の個体識別能力は世界的にズバ抜けていると聞く。
日本人は、ゴリラの一人一人を人間に見立て、あだ名をつけて観察するのだ。欧米人には区別がつかない猿を、日本人は難なく見分ける。日本人の、すぐれた擬人化能力である。

東洋人が水墨画に美を感じるのに対して、欧米人には染みにしか見えないという話もあるが、脳の構造が違うのかもしれない。

欧米では、ロボットを、単純に労働力、もしくは人間の操る機械のカタマリと認識することが多いとも聞くが、これらの例から考えるに、ロボットに人格を求めてしまうのは日本人の民族的気質なのかもしれない。

また、日本人は昔からマンガやアニメ、ゲームなどによる「ロボット=人格的存在」とゆー言いようによっては歪んだ教育をテレビ様から受けてきた。
擬人化は、そこからくる憧れなのかも知れない。

だが、そうやって割り切ってしまうには、このロマンは魅力的である。

人間そっくりのロボットを創造すること。
それは、絵描きが人体の美しさを描き出すときに感じるような、創造の喜び、芸術を求める心なのかも知れない。

そして、ロボットの創造に、芸術家の喜びを感じている科学者もいるかも知れない。
いや、マッドサイエンティストと呼ばれているフィクションの科学者は、少なからず芸術家気質をもっていた。紙一重がほとんどだったが。

一気に一般化するが、人間そっくりのロボットの創造は、ものすげー良くできていて、しかも動いてしゃべる「超凄絶版1/1フィギュア」を作るような喜びと言えなくもない。

ロボット開発の大義名分は、労働力などの意味で、必要だからつくる、というものがまずはある。
だが、必要なものだけをつくるという、それだけの社会など、あまりに味気ない。

人類を月に到達せしめたのは、日ソの競争という政治的な意味合いと必要性もあっただろう。
だが、それを現実的に果たした力の根元は、月へ生きたいという人間のロマンだった。
文明の進歩は、常に人の夢によるのである。

人間はロボットを作る。
そしてロボットは、必要性という体裁のいい皮を被るかもしれないが、その開発は、人間のもつ夢、ロマンの力ですすめられていくだろう。
人間が、自分にそっくりなロボットをつくることは、文明の進む道として、それ自体は正統なものであると、私は感じている。

だが、そのときまでに、人間は、先述のさまざまな課題に、回答を打ち出すことが出来ているだろうか。

たとえそれが用意できていなくても、容赦なく技術は進歩する。
現時点では、想像もできなかったような技術の革新が、それほど遠くない日に起きるだろう。
そして、人類は、人間そっくりのロボットを必ず作り出す。

いつごろ、どのように、と予言は出来ないが、それまでに解決すべき内容は難題だ。
社会の仕組みがどう変わっても、人間そっくりのロボットを受け入れる基台は、できあがらない。
個人個人の意識変革が、なにより時代に要求されるだろう。





オマケとして、二つほど予言を残す。

ロボットに人格(とりわけ「感情」)を植え付けるのは、まず間違いなく、日本人の仕事だろう、ということ。
そして、ロボットと人間が共存していく社会の理想は、やはり「ヨコハマ買い出し紀行」にとどめを刺す、ということだ。
















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