■ 2007.02.26 「変わったこと」D-DAYプラス1 2006年10月15日ごろの話 結婚式が終わった。 (実際には4ヶ月も前の話だが)(更新、ずいぶん空いてすみません) とはいえ、新婚旅行もとっくに済ませてあるし、夫婦生活もすでに二ヶ月以上しているので、生活における違いはないはずだった。 だが、何かが違う。 ずっと準備してきた式が終わって気が抜けているのかなと最初は思っていたが、それとも違う。 この違和感の正体が分かったのは、二人で買い物に行ったときだった。 ならんでスーパーの買い物カートを押してるとき、手に当たるものの感触で分かった。 自分はいま、結婚指輪をしているのだ。 昨日の式以降ずっと指輪をしている。こういう装飾品には縁がなかったので指に違和感があるのは当然だが、それ以上に感じるものがあったのだ。 安心感である。 結婚式は形だけのものではなかった。 親戚のために、親のため兄弟のためにと、自分を省みないで、手配し尽くしていく共同作業を終えてのぞんだ式だった。 それをやりきったという連帯的な勝利感と、この人が自分のルーツを愛してくれたというお互いへの感激と、それが堂々と親族に認められたこと、そこからくる「これで、はれて一緒に生きていける」という安心感。 その象徴が、この指輪だった。 結婚式で誰からもきれいだきれいだと一日中いわれ続けたせいか、すっきりとした美女オーラを控えめにまとっているゆきこさんが、隣にいる。 とてもきれいだった。 そして、とても幸せだった。 わたしみたいな男性にはきっとあるのだろう、こういう種類の幸福感が。 スーパーを出てから簡単に説明してみた。ゆきこさんにはいまひとつわかりにくいようだったが、最後に 「チャーミーグリーンに憧れる心情」 と説明したら、ものすごくわかってくれた。 「できれば、ふたりともジーパンでこられたら最高だった」とやや真剣にいったらケラケラ笑っていた。 おなかをしめつけないよう、ジーパンを禁じてスカートメインの生活が終わったら、また買い物に行こう。 妊娠九週目の日曜だった。
■ 2007.02.27 A 「運気」 2006年10月16日ごろの話 いまの自分たちは、すごくついている。そう思えるときがある。 でもいつかこれが真逆になるときも来るだろう。 その日のために、いまのこの運気にのっている状態のことを憶えておこう。 いま、なにをやっているからいいのか。それはきっと些細なことの堅実な実行で実現する。 朝は二人いっしょに起きている。 朝食をかならず一緒にとっている。 週に一度、二人だけの時間を二時間以上とっている。 収入の一部をかならず寄付している。 夜は一緒に電気を消して、一緒に寝ている。 お墓参りをしている。 もし急に運を失ったら、なにもかもうまく行かなくなったら、 ここにもどって、これを続けよう。 そして、辛抱強く、夜が明けるまで続けよう。
■ 2007.02.27 B 「減量の成功」 2006年10月23日ごろの話 体重がものすごく減った。 前職を退いてから四ヶ月で、実に16キロ減である。 このことは、誰に話してもたいてい「どんなダイエット法か」を聞かれる。 まず夜に食べないこと。これがけっこう大きい。 特に風呂に入った後は、冷やしてある飲料水で満足するのが原則。 とはいえ、まったく食べないわけではなく、寝る前に摘んだりすることもある。この緩さがいい。 でもさすがに胃にもたれるようなものは食べないし、食べたくなくなった。 食するとしても、夜にはフルーツとかヨーグルトとか、そのへんしか食べない。 食事の時間がだいたい揃っているのも大きい。 職場まで徒歩で通っているのも、多少意味があると思う。 やはり規則正しい生活なのが最良だ。 また、自分はとにかく出されたものは完食してしまう癖がある。 逆に言えば、出されたものを食べ終わった時点で満足してしまうのだ。 そこらへんを、ゆきこさんがうまーくコントロールしてくれているのだと思う。 あと、風早さんから教えてもらった「カロリーの少ないものから先に食べる」というのが自然に出来てきたのも効果的だったようだ。 そして、たぶんこれが一番の要素なのだが、 生活において、情的に満足している ということが大きい。ほとんど最大と言っていい。 情の豊かな性格者は、基本的に寂しがりやである。そして、愛情の欠乏感を埋めるために食に走る。だから、情け深い人は、けっこう太っている傾向があるようだ。 愛情の欠乏感を満たすために「愛に似た刺激」を求めるということ。それは、暴力で埋めようとしたり、買い物で埋めようとしたり、もっとも似た刺激として性欲で満たそうとしたり、さまざまな似た刺激を求めるが、結局みたされることはない。 前職時代、とにかく満たされなくて、わたしはよくチョコレートとアイスクリームに走っていた。252円くらいの袋チョコを買ってきて、二日くらいで食べてしまったりした。 最後の方は、別に食べたくないことはなんとなく分かっている。でも止められないのだ。いやいやでも、似た刺激でも摂取しないとやっていられないのである。 (酒に置き換えると、普通のひとには分かりやすいかも) それが、いまは満たされている。 言うまでもなく、ゆきこさんの存在だ。 一日に必要なカロリーがあれば、あるいはそれが足りなくても、ゆきこさんがいてくれることが、私の情を満たしてくれている。 そのために、たとえ小食でも充実した満腹感が得られる。 魂と肉体の両方が食事をしているような、そんな感じだ。 わたしの、明らかに異常だった太り方は、根本的な原因が解決されたことで、正常に戻りつつあるのだろう。 06月21日:104キロ ↓ 07月21日:100キロ ↓ 08月21日:96キロ ↓ 09月21日:92キロ ↓ 10月21日:88キロ おそろしい話だが、正確に毎月4キロ痩せている。 さらに恐ろしい話なのだが、実は毎食満腹になるまで食べているのだ。 これで減量が成されているのは、食事の内容や量、そしてタイミングがよいというのもあるだろう。 だが、やはりこの功績は、ゆきこさんのものだと私は思うのだ。 身体が、かるい。 何の努力もなくここまで落ちた。 このままの生活で、痩せるに任せてみようと思う。 体重が安定したら、次は身体を鍛えよう。
■ 2007.02.28 A 「戦争商人の街」 2006年10月23日ごろのお話 わたしが住んでいるところは、刀鍛冶の伝統がある街だ。 先日の祭でも、身を清めた宮司のような姿で男たちが日本刀の鍛錬を行うイベントがあった。 現在、その技術は工芸品、美術品の扱いで保存され、伝えられている。または包丁や爪切り、農具などの生活用品としての刃物に姿を変え、生活の糧となっている。 日本刀は、芸術品であると思う。 恐ろしく、しかし美しい。 だが、わたしは絶対に忘れない。 この刀は、人間を斬り殺すために作られたものだ。 かつて誰かが、我欲のために誰かを斬殺するために使ったものだ。 この刀で斬り刻まれた人が、どれくらい痛かったか。 この刀に突き殺された人が、どんな叫びを吐いて逝ったか。 この刀を打ち鍛えたこの街が、どれほど呪われたか。 私は絶対に忘れない。 偉そうな顔で、手放しで郷土を誇りはしない。 ここは、私を始め、人殺しの道具をつくって生きてきた人間の末裔が住むところだ。 だが、日本刀のもつ、その意味を私は愛している。 一刀で両断するその性質は、善と悪を完全に両断する象徴だ。 正しいものでも、間違った使い方をすれば、間違ったものになってしまう。 間違ったものでも、正しい使い方をすれば、正しいものになってしまうのだ。 刀にも、そういう使い方があるのだろう。 実家に眠る二振りの日本刀を思う。 どれほど非道く言ってみても、やはりわたしは、あれのなかに善きものを認識している。 わたしは、刀を愛している。 その哀しさもあわせて。
■ 2007.02.28 B 「三ヶ月」 2006年10月28日ごろの話 金曜日の診断によると、赤ちゃんは順調とのこと。 こころからホッとする。 ゆきこさんが安定期に至るまで、あと一ヶ月ほど。そうなれば、やっといっしょに美味しいものが食べられるわけだ。いまから楽しみである。 味覚が戻り、食欲がますのが待ち遠しい。 結婚式で食べそこなったフランス料理の予約は、もう済んでいる。