2005.09.11 「やめたひと」


いま決して仕事が順風満帆というわけではないので、こういうことを書くのもどうかと思うし、あと以前にもちょこちょこ書いた話だが、
我が社の社員定着率はたいへんに低い。
かく言う私も一度この会社を辞めたことがある。そして前代未聞の出戻りをした。

そんな会社で10年。
これだけいると、この会社で憶えのある人の90%ちかくがすでに辞めた人だ。
なので、ちょっと思い出を語ろうとすると、それはたいてい辞めてしまった人の話と絡む。

新人は当然、そんな昔のことは知らないので、わたしもあまり話さない。
それに辞めた人の話などしても、あまり意味はないのだ。ただ、彼らが辞めざるを得なかった状況、勤続年数がある程度あるものが陥りやすい罠の警告としてならば、思い出ばなしは有益かもしれない。だが、それでも忘れてしまった方がいいようなこともたくさんある。

退職者の印象といえば、
恨みのこもったリタイア宣言であったり、あんたもはやく辞めたらいいという善意の捨て台詞であったり、辞めると言った本人の父親がその翌日に怒鳴り込んできて引き留めないとヤクザにお前を襲わせるという主旨の提案をいただいたオモイデなど、最終期のものがどうしても残りがちであるだけに、悪い方向に強烈なものが多い。


でも、私は彼らのことを憶えておこうと、だいぶ以前に思った。


我々がいる現代社会は「できてあたりまえ」な世界である。そして、会社を成長させんとする向上心ゆえに「より高い基準」をもとめる。
それに応えられない社員は、いずれいられなくなる。冷酷だが、やむを得ない姿勢だろう。

その中で彼らは、自分の果たせると考える基準と、会社の求める基準の差に驚き、あるいは自らに絶望し、またあるいは疲れ果てて嫌になり、店の窮状の故にそれを相談できず、そして自己愛を含む損得勘定をして、辞めていく。

そのとき躓(つまづ)いていた仕事は、クリアしてみれば大したことはないと思えるレベルかもしれないが、それに応えられずに辞めていく人は「自分は高い評価を得られなかった」と思って去っていくのだろう。




でもわたしは、それとは別に、彼らに対して、ある絶対的な評価をもっている。

それは、数年間、あるいは数ヶ月間かもしれないが、
彼らがこの店の運営のために尽力してくれたという事実だ。

もし彼らがあのときいなかったら、この店はまともに存在できていただろうか。
いま店舗を運営していても、1人の社員が出勤してくれていること、シフトに穴をあけずに勤務してくれているということが、とてもありがたく思えるときがある。
そして彼らが居なかったら、と思うと芯からゾッとする。

彼らは最終的にいなくなってしまった。
それでも、彼らがこの店のために働いてくれた事実だけは残る。
いまこの店舗が存在し、お客様の御要望にお応えできているのは、彼らがいたからなのだ。

わたしは、そのことに感謝したい。そして、その事実を憶えておきたい。
数多の退職者を送り出してきた、そして自分も一度は去ったことのあるものとして。

社会人としては当たり前であり、それ以上の次元を基準に指導していかなければならない立場に、私はいる。
だが、高次をみれば忘れてしまいそうな、
その土台部分を有り難く思いたい。



辞めて去っていくひとに、こころから感謝を。






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絵描きと管理天野拓美air@niu.ne.jp