2003.12.04 「半分」


「コップの水を思い浮かべてみてください。そこに水が半分はいっています。
 『もう半分しかない』『まだ半分もある』のどっち派ですか?」

何かの100質(○○への100の質問)で、こんな問いがあった。


この問いは「もう半分しかない、のではなく、まだ半分もあると考えてごらん」とプラス思考の例としてよく使われる。
だが「もう半分しかない」というのは、実は、私は嫌いではない。

「もう半分しかない」と思えるのは、
その水が美味かったからだ。

美味い水だったからこそ、半分なのが惜しい。

「もう半分しかない」と思うのは、そこまで味わったそれが、惜しむべき良品であり、秀作であるからなのだ。

面白くて仕方がない小説を読んでいて、ふとその開いた本を上から見、のこりページ数が半分を切っているのを確認してしまったとき、買い溜めてあったお気に入りの菓子が半分まで減ってきたとき、そして、楽しみに読んでいる日記ページのスクロールバーが半分より下にきたとき、私はいつも、
甘い甘い切なさとともに「ああ、もう半分しかない」と思う。

それが惜しむほど美味であるが故に。
それは尊いものであるが故に。
あるいは、失われていくものを愛するが故に。

だからわたしは思う。

「もう半分しかない」と思うのは、素敵なことだ。







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2003.12.06 「明智光秀」


むかしの話だが
「うちは明智光秀の家系だ」と親だか親戚だかに言われたことがある。

言われてみれば、天野の実家にかかげられている家紋は
「桔梗」だ。
しかし、明治以降につくられた家系図に関してはあてにならないものが多いと聞くし、仮にそうだとしても、直系でもない上にここまで薄まっては、あまり意味はないといえるだろう。

ところで、明智光秀という人物の評判は、世間一般にはあまりよろしくない。
たいてい「己の主君を討った裏切り者」という
悪臣のイメージばかりを持たれているようだ。

ところが、それでも私は「明智光秀と血統的なつながりがある(と言われている)」ということを嬉しく思った。
彼がまだ若かったころのエピソードで、とても好きな話があるからだ。


光秀には、幼い頃からの許嫁(いいなずけ)である熙子(ひろこ:
正確には熙の字に「にすい」がつく)という女性がいた。
だが婚儀の一年前に、彼女の身を恐ろしい疫病が襲う。彼女は悶え苦しんだ後に一命をとりとめたが、その顔や首、手に醜い痘痕が残ったのだ。彼女の父は、明智の家との良縁をつなぐため、よく似た妹の八重を光秀に嫁がせる。悲嘆に暮れながらも、光秀のために整えられた自分の白無垢をきてゆく妹を「お幸せに・・・」と見送る熙子。
だが光秀はその妹を返してよこした。そして、早馬で書状を送りつける。「予が許嫁せしはお熙どのにて、いかなる面変わりをなされ候とも、予がちぎるはこの世にただ一人、お熙どのにて御座候」 どこの世界に疱瘡の痕も醜い女を奥方に迎える殿があろう。だが八重には指も触れずに返した光秀は、あらためて熙子を娶ったのだ。(「細川ガラシャ夫人」より要約して抜粋)


主君を裏切った、馬鹿にされてキレた、そして三日天下だったなど、歴史の本にすら彼はそう書かれ、たいてい誰に聞いても光秀は悪者よばわりされる。だが、私は明智光秀を尊敬する。

武将にはそれが慣らいとされた側室も置かなかった光秀が、輿入れの夜、熙子に言って聞かせた言葉がいい。

「よいか、お熙。そなただけは、わたしの分身なのだ。そなたが病んだことは、即ちわたしが病んだことなのだ。そなたに疱瘡のあとができたことは、即ちわたしの体にできたも同然のこと。決して恥ずることはないぞ」


血の関係があればこれほど誇らしいことはない。
だが、そうでなくてもかまわない。というか、たぶん私と明智光秀には実際なんの関係もないだろう。

単純に男性として、私も彼のようでありたいと思うのだ。







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絵描きと管理天野拓美air@asuka.niu.ne.jp