音無き流れは水深し
We are the Instrument
(2006.02.16)
智代アフターの「アフター編」について。
この作品についての世間的な評価は、散見される感想やカスタマーレビューの星評価を見ても、KEYの過去作品に比べて決して高くはなく、また「なにがしたかったかわからない」という声をよく聞く。
なるほどそうかもしれない。シナリオは必要な部分のみの描写で、親切な描き方ではなく、また重要なメッセージのいくつかはクリックによるストップを許さない演出で、文意をかみ砕いている時間がない。物語の意味がすんなり入らず読み解く必要がある場合、この手法では置いてけぼりにされてしまうのだ。結果、事情が分からず感情移入が出来ないことがある。私も最初は「永遠の愛の物語なのはわかる。そして、なんか胸がざわつくけど・・・よくわからん」という感想だった。
だが私は、プレイして、IRC(チャット)で感想をつらつら書ているうちに、胸に迫るものが明確にわかってきた。あの物語は、実はここで書く「描かれていない背景」が意外に深く存在したのではないか。そう思った。そして、それをシナリオでも書いてくれればよかったのに、と。
しかし、分かりやすく書くことで、テーマが陳腐に見えてしまうこともあるのかもしれない。
Kanonの栞編は闘病を描くことがテーマではなかっただろう。なので描かれてない。結果として、自分にはえぐられるモノがなかった。もし栞が具体的に苦しんでいる様子が描かれていたら、それがさりげない数行であったとしても、自分の感情移入度は桁違いだったろうと思う。
智代アフターでも、それはやはりなかった。ここで私が「あったらよかったのに」と思ったのは、空白の三年間に智代がどんな世界を通過したか、そして作中で語られる「永遠の愛」のありようだ。
語られなかったのには、おそらく意味がある。ともに、作中で語ってしまうのは無粋の極み、あるいはテーマ表現の精度的にズレてしまうのだろう。あるいはプレイヤー側の読解力を期待してのこと、なのかもしれない。
だが、もし、このゲームに、小説の巻末に許されているような第三者の解説があったら。そこでなら語ってしまうことも許されるのではないか。
この文章は、そんな出しゃばった気持ちから書かれたものである。
ただ、悲しいかな要点を絞り込んだ論理的な解説が、私には書けなかった。
以下は結局のところ私の感想であり、私が通過し感動した「智代アフター」には、こんな背景があったのではないかという、一種の妄想であり、個人的な補完作業である。なので、作中では明確に示されなかった物語を想像して、勝手に挿入している部分もある。ほとんど、二次創作みたいなものかもしれない。
とはいえ、何の根拠もない妄想ではない。
「智代アフター」において、智代の心情をゲームのテキスト以上に雄弁に語っているのは、実はオープニング曲と、エンディング曲だ。
物語が智代のキータイプで(しかし朋也視点で)綴られるせいか、彼女自身の弱音や苦労話は具体的には語られていない。だが、その分OPとEDで麻枝氏が歌詞によって代弁している。
ここに込められたであろう心情を、智代がどんな事実を通過することで得られたのか。それを解きながら、補完としての妄想を語ってみたいと思う。
※ 歌詞、作中の台詞の引用はイタリック、もしくは「 」で表記。
※ ネタバレなんてレベルではないフルオープン具合ですので、未プレイのひとは御注意ください。
アフター編の空白
「智代アフター」の「とも編」、それは、突然現れた「とも」と智代が、仮の立場ではあったが母娘のような生活をした日々だった。やがてともは死の病に冒された実母のもとに還り、別離を乗り越えた智代は、朋也とふたりだけの生活を、再び始めようとしていた。しかし、夏の空の下で プリズムを通した ような、のちに智代によって語られる、この「きらきらと輝いて」いた日々は、突然に終わった。朋也の記憶喪失によってである。
ともの母が暮らす山奥の村で、朋也が負った傷が原因と思われる記憶喪失症は、当初一時的なものだと思われた。
だが、最初の回復から一週間後、朋也は頭痛を訴え、ふたたび倒れた。
そして、回復後には「その一週間の記憶」を失っていたのである。
中学時代まで退行してしまい、智代のことも覚えていない朋也。
あの輝いていた日々。朋也と永遠を感じていたあの日々を取り戻すため、
智代の戦いがはじまった。
一週間と記憶を保持できない、最愛の恋人との生活が。
「三年目はずっとふたりきりだった」と彼女自身が言うように、それまでの二年間に、彼女はあらゆる手を尽くしたのだと思う。朋也を知る者とできるかぎり会わせ、あらゆる治療を試みた。だが、結果はでない。
朋也はかわらず、なにも思い出すことなく、ふたたび記憶を失っていく。
半年目の春。
智代自身が卒業するとき、家族の反対があったはずだ。
永遠に記憶を失い続け、やがて年をとって死んでいくであろう朋也につきそうという人生を、娘が歩もうとしている。
家族の反対は絶対にあったろう。鷹文は認めようとしたかもしれないが、間違いなく不幸になるであろう娘を、親が止めないわけがない。
智代は、どうやって朋也のつきそいを続けさせたのだろう。彼女の性格がそれを押し切ったのか、あるいは智代が期限を切って、それまではやらせてくれと懇願したのかもしれない。何にせよ智代は朋也とともに生きる人生の許可を獲得した。それは智代が、なんとしても勝ち取らなければならなかったことだ。深刻さも、熱意も、生徒会長選のときの比ではなかったはずだ。
だが、「親」「世間体」「社会的立場」などの分かりやすい「目の前の敵」にうち勝ったとき、一時の勝利感のあと、きっと智代には、くっきりと見えただろう。
その向こうに隠れていた本当の敵。
尽くしても尽くしても忘れられていくという、それも永遠に続くかもしれない地獄の道が。
それがどれほどの苦痛と恐怖をともなう道か。愕然としながらも、彼女は覚悟したはずだ。
これが二年目、あるいは三年目であったら、彼女は超えられなかったかも知れない。
いつまで続くかしれない不安と予感をいだきながら、彼女は歩き出す。
一年目の夏。
卒業した彼女は、しかし「朋也が記憶を無くす前の自分の姿」として制服を着つづける。すくなくとも記憶回復の期待がある学校へは、その姿で行く。
だが、この一年間も、朋也の記憶はまったく回復しなかった。
積み重ねた愛情と努力を、すべてチャラにされる悪夢のような頭痛の来襲。
強烈な痛みとともに、一からやりなおしとなる日々。
始まってみれば、智代の顔すら忘れている朋也。
それが10日ほどの刻みで繰り返される。
智代は「もう一年も同じことをしているのに、なんの手ごたえもないんだ」と、そう、誰かに漏らしたこともあるかもしれない。くじけるつもりも、あきらめるつもりも、絶望するつもりもない。でも・・・。
彼女のそれが、たとえ見返りを要求しない純粋な愛だとしても、その捧げる行為に対して何の見返りもないとき、ひとは傷つかざるを得ない。投じた愛が深ければ深いほどに、だ。
そして痛みから、ひとは本能的に逃げ出したくなる。
何をやっているんだ自分は。
同級生は大学生になり、あるいは働いている。なのに自分だけが高校生の制服を着て・・・。
三年以上も着ている制服が、ときに解(ほつ)れる。それを縫い直しているとき、ふと冷めてしまうことがあったはずだ。
こんな格好で街をあるきまわって、恥ずかしくないわけがない。
いまの生活が幸せといえるのか。不幸と言えるのではないか。
貴重な青春の時を、同じことの繰り返しに使っていることはないんじゃないか。
もっと智代には(自分には)高度なことができるんじゃないか。
君は(私は)むかし、あんなことをやっていた、こんな責任ある仕事もやっていた。
彼のこと(朋也のこと)は、彼の親か、しかるべき福祉にまかせても、いいのではないか。
そう他人から言われることもあったろう。ふと、自分でもそんなことを考えてしまうときもあっただろう。
でも
と、智代はその考えを否定する。
でも、いま朋也を放っておいたら、いままでの私は何だったんだ。
そんな私に、なんの価値がある。
「不幸になど、なってたまるか」
決意のその言葉と同時に、しかし智代は、大切なひとのため人生を棒に振ることになる、という覚悟も決めたはずだ。
一年目の冬。
智代は、10日とまたずに繰り返される「リセット」をどれだけ繰り返したのだろう。
一縷(いちる)の望みをたくしての呼びかけに「坂上さん」と返され「……智代でいい」と訂正するとき。
絶望に、こころが擦り切れるような想いを、きっと智代はいつも感じていたのだろう。
「私の名は、坂上智代。おまえの名は、岡崎朋也」
「私たちは…恋人だ」
何回目かからは、自分に言い聞かせるように。
朋也の前では気丈にふるまう智代だが、布団の中や一人になってしまったとき、泣きたくなるのを抑えられない。
智代の、報われないかもしれない月日が流れていく。
「どうにも出来ないことがあっても、最後まで目を閉じず見守ってゆく勇気 」
それはきっと信じられないほど強靱な精神をもった 遠い誰かの持ち物 で、私にそんなものはない。
逃げ出してしまいたい迷い。正面をかくす 長すぎる前髪 が、未来を迷わせている。「信じ続ける勇気」そんなものとは ほど遠い ところに自分はいる。
病院の色のない 灰色 の壁に、全てがうずもれ そうになる。
世界中に、無駄なことをしていると言われているような気がする。
そんな思いを、あと何回。
どうすればいい。
わたしは、どうすればいいのだ。
いっそ狂えたら。
いっそ狂えたら、どんなに楽か。
また、記憶の回復する兆しもなく、頭痛とともに「なかったことにされた」7日目の夜が明ける。
子供のようにひとしきり泣くのも、何度目か数えられない。
ときには「裏切られた」という感想さえもってしまいそうになったこともあったろう。どんなに尽くしても、こんどこそはと期待しても、結果は同じだからだ。「ウラギラレタ」そう思ってしまうということの、なんと甘美なことか。自分が一転して被害者になれる。その甘さ。その絶望の、毒のような甘さ。
智代は、朋也を恨んでいい。
その誘惑に、しかし智代は耐えつづけた。
二年目の春
智代は、あるとき夢をみた。
あの狭い部屋に、ともがいて、河南子がいて、鷹文がいて、そして朋也がいた。
ともがおはようと言った。河南子が先輩おはようございますと言った。鷹文がねえちゃん遅いよと言った。朋也があたりまえのように挨拶してきた。
自分がひどい悪夢を見ていたことを理解した。智代はそのことを皆に話して聞かせようと口をひらいた。
「さっき、ひどい夢をみた。朋也が記憶喪失になってしまうんだ」
一言目の息が舌をかすめようとした瞬間に、目が醒めた。病院だった。灰色の壁だった。
胸がつぶれるかと思った。
泣いた。病室から逃げ出して、誰もいないところまで行って、泣き叫んだ。
二年目の夏
智代のつきそいは続く。ひたすら同じことを繰り返し、耐える生活。もう、どうしたらいいのかわからなくなる生活。
だが、智代が限界の底を洗おうとしているとき、ひとつの転機があったのだと思う。
河南子か、鷹文か、あるいは村の管理人から直接にかはわからないが、知らせがあったのだろう、この時期に智代は「あの村」に足を向けたことがあるのだと思う。それは、あるいは、朋也の記憶回復の一助として行ったのかも知れない。
それは、おそらくともの母親が、死んだからだろう。その知らせを受けて、智代は村へ向かったのではないか。
ともを慰めに、智代はあの村に再び行ったのかもしれない。
その実は、自分が慰められるために。
しかし、ともはそこで、強く生きていた。
何もない、自給自足が原則の村で、懸命に自分の仕事を果たして生きていた。
声をかけようとした智代の目に、その力強い姿が飛び込む。同時にフラッシュバックする記憶。
思い出される誓い。
「とも…これから、どんなことがあっても…どんなつらいことがあっても…
私はのりこえてみせるから…だからともも…がんばるんだぞ…」
「うん」
「どっちがつよくなれるか、競争だな…まけないぞ…」
「うん」
智代は後に述懐する。
いまも彼女は遠い山奥の村で強く生きている。
私ひとり逃げていたんだ。
あの夏の日。完全でもない母性本能に振り回されて、ともを自分のものにしてしまいたい衝動を、とどまらせてくれた朋也。いまの強く成長したともを見ていて、あらためて感謝したい。そして、
あの夏のことを思い出すと、胸が熱くなる。
じんわりと満ちる単純であたたかな情熱。
この熱い血を信じ よう。
智代は、もう一度、決意する。
明日はもっと上手くやってみせる。
だからもう一度だけ信じよう。
私ならば出来る。
例え一人だって。
灰色の壁。病院の壁。ここに結局もどってきてしまうのかという閉塞感。それにいつも押しつぶされそうだった。
でも、その壁も、今度こそ 「未来」に塗り替えてみせる。
長く引きずってきた迷いは 束ねて しまおう。捨てはしない。いままでの積み重ねた時間だから。
そして再び朋也の前へ智代は立つ。
「思い出してほしい。もう一度、私たちが恋人同士として過ごすためにな」
「朋也。私はそのためなら何でもする」
「…だから、一緒に頑張ろう」
そのためならば、私は何でもする。誓ってもいい。
「わざわざそんなことを誓わなくても」という朋也。しかし智代にとって、これは戦いの宣誓である。
そして、これは朋也と記憶との戦いではない。それをサポートするのが智代の戦いなのでもない。
主戦場は智代の心の中。
これは、智代と智代自身との戦いなのだ。
智代は三年間、戦い続けた。
どれだけ尽くしても、すぐ記憶を失ってしまう朋也。彼に非はないのだが、少しくらい覚えていてくれてもいいじゃないか、三年も同じことを繰り返しているんだぞ、と、そんな思いが湧くこともあったろう。彼のそんな ちいさな罪が許せず、倒れるたびに智代は泣き、そして 苛立ちをぶつけ ることもあったろう。
たぶん、病院の敷地のどこかに、智代のミドルキックでへし折られた樹が何本もあるはずだ。
智代が三年間にどんな状況をすごしたか。それは想像するしかない。
体調を崩して弱気になったときもあったろう。河南子や鷹文の助けでなんとかなったこともあったろう。きっと、この頃には智代を励ます家族の助けもあっただろうと思う。学校の協力もあった。ともとの約束もあった。あれで決意ができた。
だが、それはあくまで外部の援助である。
三年目に来る壁は、おそらくそれだけで、どうにかなるようなものではなかったのだ。
その壁とは、自身の限界。
智代という一個の人間のもつ、ひとを愛する力の限界だ。
「欲」というものがある。性欲眠欲食欲物欲、いろいろなものがあるが、基本は肉体維持のための本能であり、それは安楽と、ストレスのない状態を求める。
愛しても愛しても応えてくれないひとを永遠に愛し続ける苦しみ。
この死にそうに強烈なストレスから逃れるために、「欲」は肉体に本能からくるプリミティブな命令を与え、生き残ろうとする。美味に逃げ、惰眠に逃げ、快感に逃がそうとする。
だが、智代は肉欲にはおそらく負けない。「覚悟」とは本能を凌駕する決意のことであり、もとよりそのへんの精神が、智代は強靱だ。
だが、情愛についてはどうだろう。これにも「欲」はある。それは、もっと楽な、もっと心地よい愛がないかを求めてしまうのだ。特に智代は、ともを盲愛したときのことがある。情欲には弱い性格者だ。
智代は、愛し続けることに限界を感じている。だが、朋也を切り捨てることは絶対にできない。いっそ「逃げたくなる欲」を脳から切り捨ててしまいたい。ロボットのように、ただ朋也を愛するだけのマシンになれたらどんなに楽か。あるいは寺にでも入って修行すればそうなれるのだろうか。智代はそこまで考えたかもしれない。
だが智代の歩んでいるのは、修行僧のように、閉鎖世界に閉じこもって欲を殺して生きられる道ではない。
ひとを愛する道なのだ。
飢えた誰かを可哀想に思うからこそ、人は食料を援助する。自分の得ている分を削るという苦しい思いをして、もっと楽したいという気持ちを別にしてまで援助する心の本質は、自分の欲を殺すからではない。それ以上にその人を愛するからだ。
その場を我慢しても、最終的に「欲」は超えられない。
あらゆる欲を超えるものは、愛しかない。結局、正面から戦うしかないのだ。
智代は、自分を殺さずに、限界と戦い続けた。
そしてあるとき、智代は開けたのだと思う。
三年目の夏。
何百回目かの記憶喪失からの再スタートであろう、プレイ時の時間軸で、それは推察される。(もちろん、これこそ妄想の域をでないが)智代は、朋也を愛し続ける方法をつかんでいたのではないか。
何度となく繰り返したであろう情景、説明、会話を、同じように繰り返す智代の姿。
三年が経ち、その間ずっとこれを続けられたというのは、辛抱強いなどという次元では、すでにない。
朋也の頼みを、嬉しそうに受ける智代。
ここまできて、擦(す)り切れているわけでも、惰性でもなく、智代は豊かな情感で朋也を愛している。
なぜ、こんな風に彼女は三年目の時を生きていられたのか。
ひとつの推論を提示しよう。ここまでの三年間、彼女が朋也を愛しきることができたのは、智代が彼を愛したときのことを、朋也が記憶を失うとともに、一晩こどものように泣いて過ごすことで「忘れようとした」からではないだろうか。それは、まるで朋也の記憶喪失と足取りを揃えるように。そうしなければ、彼女は朋也を愛し続けることは出来なかったのではないかと思う。とくに最終期がそうだ。
もし、10日前にも甲斐甲斐しく面倒を見、彼のために一週間尽くしたという、そのことを智代自身が憶えていたら。
智代は、また彼女に限らず人間は、絶対にその恩を返してほしいと思うようになる。
そして例えそれを望んでいなかったとしても、また、望まないと決意していても、なにもなければ人間は傷つかずにはいられないのだ。
そして、絶対に比較してしまう。先週の朋也より反応が悪い。先月の朋也より言葉が優しくない。
毎回同じように記憶を喪失しているように思えて、しかし今度こそはという期待が「今度の朋也」をかつての例と比較させる。まるで何人もの男性遍歴を経た女性が、過去の男と比べるように。
初恋、初愛のなにが尊いかと言われれば、それは誰とも比較しない、誰にも比較されない純粋な愛情であるという点だ。この場合の純粋は「絶対」とも言える。絶対とは、比較する「対象」が「絶無」である状態を表す。
そしてそれこそが永遠に至ることのできる、愛の状態だ。
彼女は、忘れるしかなかった。
ともすれば自己欺瞞のようなその儀式。彼が記憶を失うごとに、泣きはらす儀式。
泣くことで、いままで投じてきた全てを忘れる。
しかし、積み重ねが実を結ぶと信じて。
だが、辛いのは変わらない。
「ありがとう」と言う朋也は、しかし「好きだ」と言ってくれない。
永遠に続く深度の愛は、友愛にはない。男女の愛にしかないのに。
繰り返しに慣れていく自分がいる。心が掠(かす)れていくのが、認識できてしまう。
あきらめに近い気持ちが湧き出すのを必死に押さえつけて、智代は朋也の面倒をみる。
「ありがとう」という他人に言うような感謝の言葉が、今度もお約束のように出てくる。
つい「それだけなのか・・・」と思ってしまう智代。
頭痛を訴える朋也。
今度もダメかもしれない。手のひらからすり抜けていく希望に、必死にすがる智代。
彼女は三年耐えた。
もとからの智代の性格があるので、これらの克己は、難しくないように思えるかも知れない。
プレイヤーは過去に散見してきた彼女の完璧超人ぶりに対して、すでに距離をおいて見てしまっているので「あー、あれぐれーすげー女だったら三年くらい耐えてくれるかもナー」と思うかもしれない。
あらためていうが、とんでもない。
まともに受けたら一度だって耐えられない衝撃だろう。
最初は鷹文や河南子の力添えもあったろうし、そしてともとの約束が彼女を支えたのだ。
だが、最終的に彼女は、自分の愛の限界線を越えたのだ。
それを実現せしめたのは「自分が最愛のひとを愛したことを忘れる」という、自分自身を抹殺するかのような凄まじい愛し方だった。
それでしか、朋也を愛し続けることはできなかったのだ。
智代は、なんども朋也の記憶喪失を乗り越えるなかで、いつしかその「永遠に続けられる愛し方」を身につけていったのだと思う。
そして、それが彼女の中に構築され完成されたとき、
何度やりなおしになっても、はじめての恋人を愛するように尽くせるようになったとき、
その永遠に続く地獄を、変わらず愛せるようになったとき
ようやく朋也がそれに応えたのだ。
「智代、好きだ」
じっと朋也をみつめる智代。
朋也には永遠かと思われる沈黙の時間。
封印が。
いままでリセットされるごとに暴れ出さないよう記憶にほどこしてきた「忘れる」という封印が。
音を立てて弾け飛んでいく。
おそらくは、何度も何度も繰り返し夢に見、夢で聞いた言葉。
ようやく、ここまで辿り着けた。
「私もだ」
「朋也、おまえが好きだ」
万感の思いをこめて、それだけを零す。
朋也も気がついたろう。それまで頻繁に言われてきたものとは、あきらかに温度が違う愛の言葉に。
あふれかえる思い出。その辛苦の総量を帳消しにしてあまりある湧水のように横溢する充足感。
ありとあらゆるものに感謝したくなる衝動が溢れ出る。それもとりわけ、この学校に。
「ここは、私たちにとって、いつもはじまりの場所になる」
やっと終わる。
ながいながい悪夢のようなループ。
世界中から無駄だと言われ続けていたことが、やっと報われる。
やっと失ったものが埋まった。
そう、これははじまりだ。
再決意の土台になった、ともとの誓いを思い返す。
私は、かつて”彼女”がいた場所に立っていた。
母親に置き去りにされ、私たちと一夏を共にすごした幼い女の子がいた。
みんなで過ごした時間はとても楽しかった。
彼女が望めば、それはいつまでも続くはずだった。
だけど真実を知った彼女は
なにもない山奥の村で
母親と暮らすことを選んだ。
母親が、もうわずかの命と知っても
あの日、私は彼女と約束した。
いまも彼女は遠い山奥の村で強く生きている。
私ひとり逃げていたんだ。
愛は、今も続いているのに。
彼がそれを今、証明してくれた。
だから私は決心した。
強くなる決心を。
「10日と待たず、お前は記憶をなくしていく」
「そんなことが…もう、三年続いている」
はじめて事情を語る智代。
「辛かっただろうなって…」
「…うん」
ひとことだけ頷く智代。
でも
「ようやく、おまえは、私に好きと言ってくれた…」
そして手術のことを語る智代。
難しい部位にある腫瘍。だが成功すれば記憶がもどる。
しかし、その確率は半分に満たない。
「私はおまえを永遠に失うことがこわかった」
この偽りの時間でもいい。永遠の愛があるかどうかわからないのなら、せめてこの時間だけでも。
だが、真に失うとは、死別するということではない。
そして、手で触れるくらいの実感で、智代は確信している。
「私たちの愛は永遠だ」
どちらが大切か、分かったのだ。そして、智代の中に、それはある。
「結婚しよう、智代」
この気持ちを形にしよう。
永遠の「愛してる」に等しい、ただひとつの言葉。
「わたしも、この気持ちは永遠だ」
ふたりの足並みは、やっとそろった。
ずっと続いていく愛はある。
永遠の愛というものがある。
智代がそう語るものは何か。
この物語の中で、それはたしかに描かれている。
永遠に続く愛は、自分が相手に「してやったこと」を忘れることで成立する。
智代は、まだ自分はぜんぜん朋也に尽くしていないと、そう思うからこそ、最終期にも彼を「まるでようやく記憶喪失から目覚めた恋人のように」新鮮な思いで愛し続けることができたのだ。
だが、永続する愛は、愛情の受け手と与え手の双方がもち、互いを忘れる愛で愛し「循環」したときに初めて発展的に発生する。相互に忘れ、愛し合う関係。そのための、朋也からのリターン。
これが、ようやく訪れた。
そして、彼女にとっては報われてあまりある言葉。朋也の「結婚しよう」
捧げ尽くして空になった心に、それは染み渡ったことだろう。
はじめての報われる想い。流れ、注がれあう二人の愛情。
このとき二人の愛は、恋人としての、夫婦としての、完成をみた。
結果として失敗したという手術の後、ふたりはいくばくかの時間をともに過ごした。
それはわずかな時間のことだったかもしれない。だが、智代の中では永遠に匹敵する時間だったのだと思う。
彼女は語る。
ふたりで力を合わせ、懸命に生きた。
ふたりで歩き続けた。
その時には、私たちはもう
これから先にどんなことが待とうとも、
後悔せずにいられた。
その自信がある。
私たちは、
大切なものを見つけられたから。
最後にふたりで見た風景が、
今も忘れられない。
それはどこまでも続く夕焼け空だった。
ふたりで慈しむように見ていた。
世界がこんなにも美しいことに、今まで気づきもしなかった。
何も知らなかった幼い日はもちろん、
苦しみの真っ直中にあった時にも、
その色しか知らなかったら、ずっと気づかないままでいた。
そんな美しさだった。
彼はいつの間にか眠っていた。
その顔はまるで、
走り終えたランナーのようにすがすがしいものだった。
そのとき彼の口が動いて、何かを言った。
小さな声だった。
寝言かもしれなかった。
それでも、その言葉を振り返るたび、私は思う。
彼もそのとき、同じ場所にたどり着けたんだと。
そう思うことができた。
…ありがとう
…おまえのおかげで
いい人生だったよ。
智代は三年間で永遠の愛を身につけた。しかし朋也は? という考えもあるだろう。
だが、愛によってひとつとなった二人は、おたがいの性質を受け継ぐようになる。
朋也の中に、苦難で築かれた愛はなかったかもしれない。だが、ふたりは同じ存在になっていたのだと思う。
私はもう二度と絶望はしない。
逆境を乗り越え、
永遠の愛を信じて、
ひたすら信じて、
ふたりで生きた日々があるから、
それは私だけの宝物だ。
かけがえのない宝物だ。
苦しくて、胸が張り裂けそうなときもあった。
泣き叫んだときもあった。
そんな日々があったからこそ、
今、すべてが輝いて見える。
彼と出会ったことも、
彼と過ごした日々も、
絶望した日も、
ひとりで泣き続けた日も、
これから歩んでゆく道も、
過去も、未来も、
すべてが、
あの日見た夕焼け空と同じように、
輝いて見えた。
私はそんな人生の輝きを見つけられたから、
自分と同じように悩んでいる人たちを、
今度は助けたいと思った。
世界は愛によって初めて応えてくれる。
空も、大地も、木々も、街並みや、地面にあるブロックすらも。
いまの智代には輝いて見えただろう。
そして彼女は言う。
さあ、いこう
世界は美しく
そして
人生はかくも素晴らしい
It's a Wonderful Life!
空中をただよう軽い羽根がある。それは自重の軽さ故に空気に乗っている。
だが、凄まじいばかりの空気抵抗と、自重にからみつき追いすがる重力を、爆発的な燃焼による大推力を一方向に収斂させて、無理矢理に克服しゆっくりと昇っていく巨大なロケットもまた、そのとき宙にある。座標が同じでもそれを実現するためのエネルギーはまったく別に存在するのだ。
1の浮力の背後には、1100の絶望を1101の希望で克服していく戦いがある。
それに勝利した人間は、その膨大で濃密な時間を言葉にできず、ただその結果としての感慨を、こういうのだ。
人生は素晴らしい。
たいしたことない、とは言えない。でも得たものに比べれば、その苦しみはたいしたことはなかったかもしれない。言葉にしてみればありふれている。しかしその背後には、無限大に匹敵する悲しみと、同じよりすこしだけおおきな愛があったのだ。
穏やかな風が吹くこの夏を、僕らだけの歌と名づけ大切に仕舞った。
狭い部屋過ぎ去る思い出と、待ってた待ってたあの日と同じ空。
ひとりで僕らは歩けるか、誰もいなくなってそれでも、
手を取り過ごしてきた今日までをまだ見ぬ誰かの明日へと。
伸びすぎた髪はもう束ねてる、古い映画のような出会いなどないまま、大切にしていくものはなに?
待ってる待ってるきっとあと数歩…。
ふたりになっても歩くんだ、強さは互いの心と信じた、うまく合わない足でもゆっくり歩けば揃った。
ひとりになっても歩くんだ、誰もいなくなってそれでも、ふるえを忘れないこの命は希望を刻んで進むんだ。
口ずさむのは僕らの歌、みんなで描いた青い空、もうあわすことができない足でも歩けば未来を目指すんだ。( エンディング:「 Life is like a Melody 」)
智代はそれを多くの人に伝えていくだろう。具体的には説教臭い話になってしまうだろうから、やはり作中では描かれなかった。だが、ネットやあるいは出版物や、直に話をする機会で彼女は伝えていく。
朋也の死後、彼女がどう生きたのか、具体的には書かれていない。
だが、人の愛し方を、だれもが一瞬だけは感じる愛の瞬間を永遠にする方法を、彼女は知っている。
愛を信じているのではない。彼女はもう、愛を知っているのだ。
人生の宝物とは、財ではない。心に積むものだ。それは、ひとを愛することのできる力だ。
人間はあるときにその力を失い、そして再び得るために、そして愛を永遠にするために、いまを生きている。
これから語るのは
遠い昔話だ。
それは今も
きらきらと輝いている。
オープニングの直後、朋也との別れを遠い昔と述懐し、そしてそれがいまだに輝いているという智代。
彼女の中には、永遠の愛という人生の宝物がある。
ひとりの少女が負うには、あまりに過酷な試練だった。しかしそれは、真剣に永遠の愛を求めた彼女になら超えられると神に与えられた試練だったのだと思う。彼女はそれを三年間という驚異的な忍耐の末に乗り越え、獲得した。
智代アフターは、分けてもアフター編は、永遠に続く愛と、それを獲得した少女の物語なのだ。
参考
プリズムを通した 世界の色も褪せ
こんな灰色に全てうずもれても
どうにも出来ないことがあっても
最後まで目を閉じず
見守ってゆく勇気
それは遠い誰かの
持ち物で僕じゃない
ようやく向かい風は凪いだけど
長すぎる前髪が
気になってどうにも
心が落ち着かない
勇気とは程遠くて
明日はもっと上手くやってみせる
だからもう一度だけ信じて
プリズムを通した 世界の色も褪せ
こんな灰色に全てうずもれても
僕ならば出来る 例え一人だって
未来にまた塗り替えてみせるよ
弱い人ほど特徴の無さを
うまく演じているのに
僕はこんなちいさな
罪も許せないで
苛立ちをぶつけてる
高くのびる空、急降下する鳥たちの声を聞いた
痛みや苦しみを覚える人になど、ならないよう祈っていた
今日は、あの場所を目差していく
だからこの熱い血を信じて。
涙で世界が閉ざされてしまっても
こんな美しい景色をわすれても
ふたりならできる。信じ続けていく
あの日の二人を後悔せずに
夕凪が赤く染まるよ僕らも精一杯燃える生き方を
プリズムを通した 世界の色も褪せ
こんな灰色に全てうずもれても
僕ならば出来る 例え一人だって
未来にまた塗り替えてみせるよ
( オープニング:「 Light colors 」)
あとがき
エンディングの、智代がひとり立つ後ろ姿をみてて「ああ、麻枝氏はホントに智代が好きなんだな」と思った。
ただ、そこでは彼女の顔は描かれていない。夕景も、エンディングの絵も、長い髪の後ろ姿が描かれているだけだ。このとき、智代はどんな表情をしているだろう。朋也の死後、どんな顔つきになっているだろう。
冒頭の智代絵は、それをどうにか形にしてみたかったのだが、あまり成功していない。この絵も、最初は苦しみながら何かを掴んだ姿として、苦痛に呻(うめ)くような顔だったが、描いてるうちに思い直して笑顔に。愛の戦いに勝利した顔を描いてみようと思った。のばした手の先には、朋也がいるのかもしれない。
ところで、智代アフターの、世の中での評価の低さはなんだろう。
一般的には「とも編」の方はよかったが最後で・・・という声があるが、わたしにとっては「とも編」の方が明らかに前フリだった。クリア直後は「物語はまだはじまってもいない」というアフターに移るときの言葉がおおげさに思えたものだが、こうして感想をまとめた上で考えると、そうとしか言えない。智代アフターはその「アフター」にこそ本質がある。
ざっと検索してみた範囲では、後発で感想を書いてるひとのなかには、この作品を評価してる人が多い。
あと、実際に誰かを愛する苦労をしてきたひとには、なんとなくこの作品のすごさが分かってもらえるのではないかと思う。
そして、テーマ的には、そして描き出された物語の質的には、いままでのどのKEY作品より高度であったと思う。ここに来て、いまだにより高度なシナリオを作っているのがすごい。
BGMとかCGとか、そういった切り口ではなく、ただ「いまの自分からみて意味があるかどうか」という観点では、わたしは智代アフターには、AIR以上の点をつけてもいいと思っている。
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